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第16話:最後の取引、誰も得をしない夜
しおりを挟む夜は、勝手に甘くなる。
甘さは人を油断させる。油断した人間ほど、よく喋る。
そしてよく喋った言葉は、朝になっても消えない。
消えない言葉は、いつか自分の首に巻きつく。
王都の灯りが、窓の外でゆっくり滲んでいた。
雨上がりの石畳は黒く濡れて、馬車の轍が光を引きずる。
空気は冷えているのに、街は熱を残している。
噂の熱。断罪の残り香。焦げた帳簿の匂い。
ノワゼル伯爵邸の応接室は、いつもより静かだった。
静かにしているのは、外の音がうるさいからじゃない。
静かにしていないと、聞こえない音があるからだ。
――欲の音。嘘の軋み。鎖の擦れる音。
リシェル・ノワゼルは窓際の椅子に座り、紅茶を一口含んだ。
渋い。熱い。舌に残る。
この渋さが好きだ。甘いだけのものは、後で必ず胃を壊す。
エルナが背後で小声を落とす。
「……来るよ。匂いが違う」
「ええ」
リシェルはカップを置く。
「彼は、香水じゃなくて“砂糖”の匂いがする」
「砂糖?」
「溶かして飲ませる気の匂い」
リシェルは微笑んだ。
蜜の微笑み。けれどその蜜は、相手のためじゃない。
相手が勝手に溺れるための蜜。
扉が叩かれる。
礼儀正しいノック。けれど間合いが短い。
“断らせない”ノックだ。
ヴァルトが一歩前へ出る。
表の騎士の顔で、扉を開けた。
「ダルマント卿」
ヴァルトの声は低い。
歓迎ではなく、確認だ。
グレイオス・ダルマントが入ってきた。
灯りに照らされた彼は、王宮の男たちとは違う種類の輝きを持っている。
剣の光ではない。信仰の光でもない。
金の光。計算の光。人を掌で転がす光。
背が高く、髪は銀に近い金色。
目元は柔らかいのに、瞳の芯だけが硬い。
笑みは穏やかで、声も甘い。
でも甘さが“人の懐に入る甘さ”だと、リシェルは知っている。
「夜分に失礼する」
グレイオスは丁寧に頭を下げた。
下げる角度が絶妙で、敬意と自信のバランスがいい。
――こういう男は、頭を下げることで上に立つ。
「ようこそ、ダルマント卿」
リシェルは立ち上がらない。
立ち上がらないことで、彼の舞台に乗らない。
その代わり、微笑む。
「お忙しいでしょうに」
「忙しいからこそ来た」
グレイオスは笑った。
「今の王都は、嵐の前だ。嵐の前に、風向きを決めておかねば」
ヴァルトが一歩だけ位置をずらす。
扉の近く、逃げ道の確保。
エルナは無言でカーテンの影に入り、短刀の柄に指を添える。
カイエンは最初から影にいる。
いるのに見えない。見えないのに、呼吸だけが冷たく空気を切る。
リシェルは応接室のソファを指し示した。
「どうぞ」
「ありがとう」
グレイオスは腰を下ろし、すぐに周囲を見渡した。
人の配置を確認する目。
盤面を見て、駒の価値を測る目。
「護りが堅いな」
彼は軽い冗談のように言った。
「君はやはり、噂通り賢い」
賢い。
褒め言葉の形をした“囲い”だ。
賢いと言えば、相手はそれに見合う行動をしようとする。
期待は鎖になる。
リシェルはその鎖を、受け取らない。
「噂は風ですわ」
リシェルは淡々と言う。
「風は、あなたみたいな方が得意でしょう?」
グレイオスの笑みが深くなる。
褒められたと感じたのだろう。
感じた瞬間、彼は話し始める。
彼が話し始めたら勝ち――それは、リシェル側の勝ちだ。
「王太子派閥は崩れる」
グレイオスは声を落とした。
「殿下は、もう戻れない位置まで自爆した。聖女も、光が剥げた。民衆は飽きる。貴族は逃げる」
彼は“事実”を並べる。
並べ方が上手い。
上手い言葉は、人の心を“そういうものだ”と納得させる。
そして納得した心は、次の提案を受け入れやすい。
「つまり、空白ができる」
グレイオスは指を軽く組む。
「空白は危険だ。混乱は血を呼ぶ。血は民を疲れさせる。疲れた民は、強い秩序を求める」
秩序。
この男は、支配という言葉を使わない。
使わないことで、支配の匂いを薄める。
「……あなたは、その秩序を作りたいのね」
リシェルは相槌を打つ。
肯定ではない。
ただ言葉を繰り返して、相手に喋らせるための相槌。
「作る」
グレイオスは即答した。
「私は混乱を嫌う。君も嫌うだろう? 嘘が蔓延る世界を」
嘘。
ここで彼は、リシェルの価値観に寄せてきた。
寄せてくるのが上手い。
でも寄せ方が雑だ。
彼は“嘘が嫌い”を、秩序の材料だと思っている。
リシェルにとって嘘が嫌いなのは、材料ではなく“境界線”なのに。
リシェルは微笑みを崩さず、問いを置いた。
「秩序は、誰のため?」
短い問い。
でも刺さる問い。
グレイオスは一拍だけ止まった。
止まった瞬間、彼の中の本音が覗く。
覗いた本音を隠すために、人はもっと喋る。
「国のためだ」
彼は答えた。
「民のためだ。君のためでもある」
“でもある”。
最後に付け足す。
付け足すのは、相手を釣るため。
釣り針に蜜を塗る。
「私のため?」
リシェルは首を傾げる。
可愛らしい仕草。
でもその可愛らしさが、彼の自尊心をくすぐる。
くすぐられた自尊心は、饒舌になる。
「そう」
グレイオスは穏やかに言った。
「君は賢い。君は美しい。君は強い。……だが今の立場では、君を裁こうとする者が現れ続ける」
その言い方は優しい。
けれど中身は脅しだ。
裁き続けられるぞ、という脅し。
「私と組めば、誰も君を裁けない」
彼は確信に満ちて言う。
「私は、君を守る。君に不可侵を与える。君を“触れられない存在”にする」
触れられない存在。
それは確かに魅力的に聞こえる。
でも同時に、人形にする宣言でもある。
触れられない代わりに、自分で触れられなくなる。
世界に手を伸ばせない。
エルナが影で小さく舌打ちした。
ヴァルトの眉がほんの少し動く。
カイエンの気配が、わずかに尖る。
リシェルは、その尖りを扇子の一振りで落ち着かせた。
落ち着け。
ここで刺す必要はない。
刺すのは相手の言葉だ。
「不可侵、というのは」
リシェルはゆっくり言う。
「代わりに、何を差し出すの?」
問い。
彼女は答えない。
彼に答えさせる。
答えさせれば、欲が出る。
欲が出れば、隙が出る。
グレイオスは笑った。
この笑いは、“交渉”の笑いだ。
交渉の笑いは、相手が釣れたと思ったときに出る。
「君は話が早い」
彼は満足げに言った。
「差し出すのは……象徴だ」
「象徴」
リシェルは繰り返す。
鏡のように。
「民は物語を欲しがる」
グレイオスは語る。
「崩れた王太子と、剥げた聖女の代わりに、彼らが縋れる“新しい美しい物語”が必要だ。君はそれになれる」
美しい物語。
それは檻の別名だ。
物語にされた人間は、自由に動けない。
期待に応え続けなければならない。
リシェルは微笑んだ。
甘い微笑み。
でも内側は冷たい。
“鎖”の匂いを嗅いでいる。
「私を、物語にするのね」
「物語は力だ」
グレイオスは言い切った。
「力を持てば、誰も君を傷つけられない。……君は器だ、リシェル嬢。君の黒は、この国に必要だ」
器。
またその言葉。
彼は気づかない。
器という言葉が、相手の心を踏む言葉だと。
リシェルは怒らない。
怒りは相手を警戒させる。
彼女はただ、柔らかく訊く。
「器に、何を注ぐの?」
問いは小さい。
でも鋭い。
グレイオスの瞳が一瞬、輝いた。
自分の野望を語る機会を得た目。
彼は自分の甘さに酔っている。
酔っている人間は、隠すべきものまで語る。
「秩序だ」
グレイオスは囁くように言う。
「選ばれた者だけが上に立ち、不要な者は下に沈む。混乱を起こす者は排除される。君の周りに集まる者も……選別されるべきだ」
選別。
その単語が出た瞬間、ヴァルトの目が硬くなる。
カイエンの気配がさらに冷える。
エルナが短刀の柄を握り直す。
リシェルだけが、微笑みを保ったまま、頷いた。
「……なるほど」
肯定ではない。
ただ、相手がもっと喋れるようにする合図。
グレイオスは乗る。
乗るほど、深く喋る。
「王太子の失脚は“事故”として処理する」
「聖女の失墜は“病”として処理する」
「民衆には新しい救いを与える」
「裏の資金は私が流す。表の帳簿は整える」
整える。
その言葉を、彼は軽く言う。
まるで息をするみたいに。
つまりこの男は、帳簿を整えることに慣れすぎている。
リシェルは心の中で、小さく扇子を閉じた。
ぱち。
証言は揃った。
彼の口から出た言葉は、彼の鎖になる。
リシェルは声を落とす。
「それは……危ないわね」
危ない、という言葉は彼をくすぐる。
危ないことをしている者ほど、“危ない”と言われると誇らしくなる。
「危ないから価値がある」
グレイオスは薄く笑った。
「君は理解しているはずだ。君も危ない位置で生きている。だから美しい」
美しい。
また褒め言葉の鎖。
彼は鎖を、花冠みたいに相手の頭に載せようとする。
リシェルは、その花冠を受け取らずに、ただ微笑む。
「私と組めば、君はもう裁かれない」
グレイオスは最後の一押しをした。
「君は私の秩序の中心になれる。君が微笑めば、誰も逆らえない」
リシェルは、ほんの少しだけまぶたを落とした。
瞬き。
拒絶の瞬き。
でも彼には見えない。
見えないふりをしているのかもしれない。
自分の甘さに酔っているから。
「……素敵なお話ですわ」
リシェルは言った。
空っぽの褒め言葉。
でも彼は空っぽだと気づかない。
「だろう?」
グレイオスは満足げに頷く。
「君は私の器だ、リシェル嬢。君の黒は――」
「ダルマント卿」
リシェルは柔らかく割り込んだ。
声は蜜。
「ひとつだけ、教えてくださる?」
問い。
最後の問い。
「何だ」
グレイオスは微笑む。
勝った顔。
「あなたが作る秩序は」
リシェルはゆっくり言う。
「あなた自身を、裁かないの?」
その問いは、薄い刃だ。
薄い刃ほど深く入る。
グレイオスは一瞬だけ固まった。
固まったあと、笑う。
笑いで誤魔化す。
誤魔化すということは、刺さったということ。
「私は裁かれない」
彼は穏やかに言う。
「裁く側に立つからだ」
その瞬間、応接室の空気が、静かに決まった。
彼が自分で言った。
“裁く側に立つ”。
つまり彼の秩序は、正義ではない。支配だ。
彼は自分で、自分の本性を言葉にした。
リシェルは微笑んだ。
甘いのに冷たい微笑みで。
「やっぱり、そう」
独り言みたいに。
「……何がだ?」
グレイオスが眉を動かす。
不安が滲む。
「いいえ、何でも」
リシェルは立ち上がり、丁寧に一礼した。
拒絶ではない。
でも終わりの礼だ。
「今夜は、貴重なお話をありがとうございました」
「返事は?」
グレイオスの声が少しだけ尖る。
尖るということは、思い通りじゃないということ。
リシェルは微笑む。
肯定も否定もしない微笑み。
「風向きが決まったら」
曖昧な言葉。
でも曖昧さが、相手を縛る。
相手が勝手に“期待”を抱くから。
グレイオスは、その曖昧さを“脈”だと勘違いした。
欲が勝った。
欲が勝つと、人は見たいものしか見えない。
「待っている」
彼は優雅に言った。
「君は賢い。必ずわかる。私と組むのが最善だと」
リシェルは微笑んだまま、扉へ視線を送る。
ヴァルトが扉を開ける。
グレイオスは満足げな足取りで去っていく。
去り際まで美しい。
美しいからこそ、崩れたとき派手だ。
扉が閉まった瞬間、エルナが吐き捨てる。
「うわ、無理。あいつ、自分に酔ってる」
「ええ」
リシェルはカップを取り、紅茶を一口飲んだ。
渋さが戻る。
現実の味。
ヴァルトが静かに言う。
「今夜の言葉は……記録すべきです」
「記録して」
リシェルは頷く。
「出さない。まだ出さない。整えるだけ」
ルフランが星図に指を置く。
彼の声が低く落ちる。
「彼は……高く積みました」
「高いほど、落ちる音が大きい」
リシェルは微笑む。
蜜の微笑み。
「でも私たちは、突き落とさない。彼が自分で足を滑らせるだけ」
カイエンが影から、静かに一歩前へ出た。
彼の声は短い。
「……危険です」
「危険よ」
リシェルは即答した。
「でも危険は、形を見れば怖くなくなる」
「形を見せるために、喋らせた」
カイエンが理解する。
「ええ」
リシェルは扇子を閉じた。ぱち。
「喋る人は、自分の首に鎖を編む。私はそれを、黙って見ているだけ」
窓の外、王都の灯りが少しずつ薄くなる。
夜が終わりかけている。
でもこの夜の言葉は、終わらない。
終わらない言葉は、やがて裁きになる。
裁くのは誰かの手ではなく、言葉の重さそのものだ。
リシェルは微笑む。
選ばない微笑み。
肯定もしない。否定もしない。
ただ、嘘に触れないために、今日も甘く、冷たく、そこにいる。
「次は、祈りが届かない夜ね」
彼女の呟きに、ルフランが小さく頷いた。
「破滅の星は……もう戻りません」
甘露の罠は、完成に近づいていた。
誰も得をしない最後の取引は、たった今――成立してしまったのだから。
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