悪役令嬢と呼ばれた私に裁きを望むならご自由に。ただし、その甘露の罠に沈むのはあなたですわ。

タマ マコト

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第15話:黒蜜の選別、味方の誓いが固まる

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 夜明け前の空は、まだ黒い。
 でも黒の中に、うっすらと銀が混じっている。星が消えきらない時間。人の嘘も、まだ燃え残っている時間。

 ノワゼル伯爵邸の応接室は、灯りを落としていた。
 火を強くすると、影が薄くなる。影が薄くなると、見えないものが見えなくなる。
 リシェルは見えないものを見失いたくないから、灯りを控える。

 窓の外、王都の屋根の列が眠っている。
 眠りの底で、噂は発酵している。甘い匂いをつけて、明日また誰かの口から流れ出るために。

 テーブルの上には星図と帳面と、冷めかけた紅茶。
 紅茶の香りだけが、世界を現実に繋いでいるみたいだった。

 ルフラン・アストレアが星図を押さえる指先は、いつもより少し白い。
 眠っていない。予言の人間は、夜を食べる。

「破滅の星は……次で決着です」

 静かな声。
 でもその静けさは、氷の上に置かれた刃物みたいに冷たい。

 リシェル・ノワゼルは、微笑んだ。
 甘い微笑み。けれどそれは、勝利の甘さではない。
 “仕上がった”という甘さだ。熟れた果実のように、もう引き返せない甘さ。

「ようやく、ね」

 その短い一言の中に、彼女の疲れも、余裕も、全部が混じっている。
 ヴァルト・グラディスはその言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 ヴァルトは鎧を脱いでいた。
 騎士団の副団長としての肩書きは、今夜ここでは重すぎる。
 今夜ここにいるのは、リシェルという一人の令嬢の“正しさ”を見届けてしまった男だ。

「殿下は……目撃されました」
 ヴァルトが低い声で言う。
「禁じられた帳簿を、自ら焼こうとして」

 その報告の端々には、言葉にならない憐れみが滲んでいる。
 愚かさを裁くより、愚かさを完成させた者を見る方が胸に来る。
 特にそれが、王太子という“国の未来”だった場合は。

 エルナが窓際で短刀を磨きながら、鼻で笑った。

「自爆って、ほんと最後まで美しいな」
「美しくはないわ」
 リシェルは淡く返す。
「ただ、予定通りに重くなっただけ」

「予定通り?」
 エルナが眉を上げる。
「リシェル様、怖。たまにそのテンション、胃にくる」

 リシェルは笑った。
 小さく、上品に。
 でもその笑いは、味方にだけ許されるやわらかさだった。

「胃が痛いなら紅茶を飲みなさい」
「万能かよ」

 軽口が交わされる。
 その軽口が、救いだ。
 この部屋にいるのは、剣を持つ者と、影を歩く者と、星を見る者と、刃を握る者。
 誰も軽く生きてきた人間じゃない。
 だから軽口があるだけで、今夜は少しだけ呼吸ができる。

 それでも空気は張っている。
 決着が近いとわかっているから。
 決着が近いほど、人は“最後の一歩”を間違える。

 カイエン・ラグナードは壁際の影から、ほとんど音もなく進み出た。
 彼が動くと、影が動く。
 影が動くのに、不思議と怖くない。
 怖いはずなのに、安心する。
 リシェルの影として馴染んでしまったからだ。

「……リシェル様」
 カイエンは低い声で言った。
「貴女は、危うい」

 エルナが「え、今さら?」みたいな顔をした。
 ヴァルトは眉を寄せ、ルフランは星図の上で指を止める。

 リシェルは首を傾げる。
 わざとらしくない、自然な動作。

「そう見える?」
「はい」
 カイエンは躊躇わない。
「貴女は復讐を楽しんでいない。それなのに人は勝手に落ちる。……それが、美しくて、怖い」

 言葉が落ちる。
 その言葉は告白に近い。
 けれど恋ではない。
 もっと深い、存在の告白。

 リシェルは少しだけ目を細めた。
 微笑みはそのまま。
 けれど“甘さ”の質が変わる。
 敵に向ける蜜ではなく、味方に向ける蜜になる。

「私、怖い?」
「……怖いです」
 カイエンは正直に言った。
「でも、目を逸らしたくない怖さです」

 その言葉に、ヴァルトが小さく息を吐く。
 彼は、ようやく腹を括った人間の顔をしていた。

「リシェル様は、剣より怖い」
 ヴァルトの声は低く、揺れない。
 剣を握る人間の声だ。
「だが剣より正しい」

 エルナが短刀を止めて、ヴァルトを見た。
「正しい、って言い方、めっちゃ堅い」
「騎士は堅い」
 ヴァルトは苦笑する。
 珍しい表情だった。
 堅い男が苦笑すると、それだけで世界が少し柔らかくなる。

 リシェルは、すぐに「ありがとう」とは言わない。
 ありがとうは、ときどき鎖になる。
 受け取った側が“見返り”を期待してしまうから。

 彼女はただ、微笑んで頷いた。

 それだけで、ヴァルトは救われた顔をした。
 救われたくて言ったわけじゃないのに、救われてしまう。
 リシェルの微笑みは、そういう類のものだ。

 ルフランが、星図の上を指でなぞる。
 星の線が、彼の指先で震える。
 震えているのは紙ではなく、未来の方だ。

「破滅の星は……次で決着です」
 彼はもう一度言った。
「逃げ道は、ありません」

 エルナが肩をすくめる。
「逃げる気、ないし」
 そう言いながら、彼女の指は短刀の柄を握り締めている。
 力が入る。
 その力は、怒りじゃない。
 覚悟だ。

 エルナはリシェルを見た。
 普段の彼女なら、茶化して済ませる。
 でも今夜は違う。
 目の奥がまっすぐだ。
 闇を生きてきた人間が、初めて光を選ぶときの目。

「あんたのために汚れるの、嫌じゃない」

 その一言で、部屋の温度が変わった。
 空気が張り詰める。
 ルフランが息を止め、ヴァルトが一瞬だけ唇を噛む。
 カイエンの気配が、ほんの少し濃くなる。

 汚れる。
 それはエルナにとって、痛い単語だ。
 過去の闇組織で“汚れ役”をやらされてきた。
 汚れても褒められない。汚れたら捨てられる。
 そういう世界で生きてきた。

 それなのに彼女は今、自分から言った。
 自分から汚れると言った。
 それは、“捨てられない場所”を信じたということだ。

 リシェルは、すぐに答えなかった。
 甘い沈黙。
 沈黙は、相手の覚悟を丁寧に受け取るための器だ。

 やがて彼女は立ち上がる。
 立ち上がる動作が優雅で、音がしない。
 扇子を閉じる。

 ぱち。

 その音が、王宮の鐘より静かで、でも確かだった。
 味方の心臓の鼓動が、その音に揃う。

 リシェルは四人を見渡す。
 影の騎士。
 表の騎士。
 星読みの青年。
 元暗殺者の侍女。
 どれも“世界の裏側”の人間たち。
 彼らが、今ここで同じ場所に立っている。

 それだけで、世界の形が少し変わる。

「汚れなくていいわ」

 リシェルの声は柔らかい。
 慰めではない。命令でもない。
 ただ、事実を置く声。

「汚れているのは、最初から向こうだもの」

 その言葉は、救いだった。
 でも甘い救いじゃない。
 生きるために必要な、渋い救い。

 エルナの目が潤む。
 泣きそうになって、いつものように悪態をつくことで誤魔化す。

「……は? 何それ。かっこつけんな」
「かっこつけてないわ」
 リシェルは微笑む。
「あなたが汚れ役を引き受ける必要がないだけ。汚れは、本人が持ってる。私たちは、それを見せるだけ」

 ヴァルトが静かに頷く。
「法と形式は、見せるためにあります」
「ええ」
 リシェルは淡く答える。
「裁くためじゃない。嘘を嘘のまま晒すために」

 カイエンが言う。
「もし刃が必要なら」
「必要になったら、あなたが動く」
 リシェルは即座に返す。
「でも、動くのは最後。私は、できる限り“喋らせて落とす”」

 ルフランが、星図を閉じる。
 閉じる音が小さいのに、決定的に響いた。

「星は……整いました」
 彼は静かに言う。
「次で、決着です」

 リシェルは窓の外を見た。
 黒い空が、少しだけ薄くなる。
 夜が終わると、昼が来る。
 昼が来ると、また新しい嘘が生まれる。
 でも彼女は知っている。
 嘘は生まれても、破滅は一度起きたら戻らない。

 エルナがぽつりと言った。
「……リシェル様、残るんだよね」
「ええ」
 リシェルは微笑む。
「私は選ばない。選ばないまま、ここにいる」

「逃げないの?」
「逃げたら、私が伝説になる」
 リシェルは淡々と言う。
「伝説は、都合よく美化される。嘘で包み直される。……私はそれが嫌」

 カイエンが低く頷く。
「貴女は、鎖を嫌う」
「許しも断罪も鎖よ」
 リシェルは扇子を指で弄びながら言う。
「私はただ、嘘に触れたくないだけ」

 ヴァルトが少しだけ笑った。
「なら、我々が鎖を断ちます」
「断つのも鎖よ」
 リシェルは微笑む。
「切った瞬間、切った側が正義の顔をする。私はその顔が嫌い」

 エルナが舌打ちする。
「めんどくさ」
「ええ、面倒」
 リシェルは嬉しそうに言った。
「でも面倒な人間ほど、嘘を長生きさせない」

 その瞬間、部屋の空気が一つに固まった。
 誓いというほど大げさな言葉を使わなくても、彼らはもう離れない。
 離れない理由が、それぞれの胸にできたから。

 カイエンは“怖いほど美しい”から目を逸らせない。
 ヴァルトは“剣より正しい”から背を向けられない。
 ルフランは“未来を扱う”姿に救われたから離れられない。
 エルナは“怖がっていい”と言われたから残れる。

 リシェルはその中心で、微笑んでいる。
 王冠を載せるためではない。
 王座に就くためでもない。
 ただ、嘘に触れずに生きるために。

 夜明けが近い。
 黒が薄くなって、銀が増える。
 でも彼女の黒は薄くならない。
 黒蜜の黒は、光に溶けない。

「行きましょう」
 リシェルが言う。
 その声は甘い。
 甘いのに、背中を押す。

「次で終わる。終わらせるのは私じゃない。……彼ら自身よ」

 そして四人は頷く。
 誰も声を荒げない。
 誰も拳を振り上げない。
 ただ、同じ方向を向く。

 嘘が自分の重さで沈む瞬間を、見届けるために。
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