悪役令嬢と呼ばれた私に裁きを望むならご自由に。ただし、その甘露の罠に沈むのはあなたですわ。

タマ マコト

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第18話:王太子、名前だけが残る

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 裁かれるのは、まだ救いだ。
 裁かれるなら、痛みの形がある。
 痛みの形があるなら、叫べる。泣ける。反論できる。
 でも――無視は形がない。
 形がないものは、逃げ場もない。

 王宮の朝は、いつもより薄い色をしていた。
 霧が石畳に張り付いて、衛兵の靴音だけが妙に響く。
 いつもなら賑やかな回廊が、今日は静かすぎる。
 静かすぎるのは、皆が“空気を読む”からだ。

 空気は言う。
 ――今日、王太子が終わる。

 玉座の間ではなく、評議の間。
 派手な儀式にしない。
 大衆に見せない。
 “調査中”という言葉で包み、形だけ整えて、静かに消す。
 それが貴族社会のやり方だ。
 血を流さずに殺す。

 アデリオス・ヴァルステインは、評議の間の入口で立ち尽くしていた。
 正装の外套。王家の紋章。
 それなのに背中が妙に頼りない。
 頼りないのは衣装じゃない。
 中身が空洞になっている。

 彼の横にいた側近が、小さく咳払いをした。

「殿下……本日は“形式的な確認”です。深刻にお考えにならず――」
「黙れ」
 アデリオスは低く吐き捨てる。
 声に力がない。
 怒りのふりをしているだけだ。

 側近は顔を引きつらせ、視線を逸らした。
 逸らす視線が、もう“見捨て”だ。
 彼は分かっていないふりをしている。
 分かってしまったら、崩れるから。

 扉が開く。
 中には、重臣たち。騎士団の代表。帳簿官。記録係。
 誰も笑っていない。
 誰も怒っていない。
 怒りがない空間ほど、人は追い詰められる。

「王太子殿下」
 年老いた宰相が淡々と言った。
「お入りください」

 淡々とした敬語は、刃だ。
 丁寧だから、拒絶できない。

 アデリオスは一歩、踏み出す。
 踏み出した瞬間、視線が降り注ぐ――はずだった。
 だが違う。
 視線は降り注がない。

 誰も彼を見ていない。
 見ているのは資料。
 帳簿。
 紙。
 彼は“人”として見られていない。

 それが最初の一撃だった。

 議長席の前に立つ。
 本来ならここで、王太子として堂々と話すべきだった。
 でも今の彼は、言葉を探している。
 正義を探している。
 言い訳を探している。
 そして何より――自分を救う言葉を探している。

 宰相が文書を読み上げ始める。

「王太子アデリオス・ヴァルステインに関し、王宮内の管理品に関する不備、資金の流れに関する疑義、ならびに保管文書の毀損未遂――」

 毀損未遂。
 火をつけたことを、そう表現する。
 表現が軽い。
 軽いのに、致命的だ。
 “殺す”と言わずに殺すのと同じ。

「これらについて、正式な調査が必要と判断される。よって当面、王太子殿下は職務を停止し、政務から離れていただく」

 職務停止。
 政務から離れる。
 言葉は柔らかい。
 でも意味は一つ。

 消えろ。

 アデリオスの喉が鳴った。
 乾いた音。
 それは恐怖の音だ。

「……待て」
 彼は声を出した。
「職務停止? そんな……俺は王太子だぞ」

 宰相は目を上げない。
 上げないまま言う。

「ええ。ですから形式的に、王家の名誉を守るために」
 名誉。
 守る名誉は、彼の名誉ではない。
 王家の名誉だ。
 彼は王家の“汚点”として処理される。

「俺が……汚点だと?」
 アデリオスの声が震える。
「違う! 俺は正義のために……!」

 正義。
 その単語を言った瞬間、重臣の一人が小さく眉を動かした。
 それだけ。
 それだけで、アデリオスの胸は焼ける。

 正義という言葉が、場に馴染まない。
 馴染まない言葉は、笑われるより残酷だ。
 誰も笑わない。
 誰も否定しない。
 ただ、無関心。

 帳簿官が淡々と付け足す。

「調査中のため、詳細はここでは」
 それは、“ここで喋るな”という意味だ。

 アデリオスは拳を握った。
 爪が掌に食い込む。
 痛みがある。
 痛みがあるのに、現実が遠い。

「……フィオナは?」
 彼は縋るように尋ねた。
「聖女は、何か言っているのか?」

 宰相は一瞬だけ顔を上げた。
 その目は冷たい。

「聖女殿の件も、同様に調査対象です」
 同様に。
 同じ穴の狢だと言われたようなもの。

 アデリオスの背筋が硬直する。
 誰も助けない。
 誰も守らない。
 守られるはずだった肩書きが、誰も守らない。

 そして彼は、最後の希望にしがみつく。

「……なら、リシェルを呼べ」
 アデリオスは言った。
「リシェルが、俺の名誉を――俺の正しさを証明すればいい。あいつが頭を下げれば……!」

 その瞬間、部屋の空気がほんのわずかに変わった。
 重臣たちの間に、微かな“嫌悪”が走る。
 嫌悪は怒りではない。
 “みっともない”という温度の低い感情。

 宰相が淡々と言う。

「ノワゼル伯爵令嬢は、本件の参考人ではありません」
「参考人じゃない?」
 アデリオスの声が跳ねる。
「何を言ってる! あいつが――あいつが全部の原因だろ!」

 原因。
 彼はまだ、悪役令嬢の物語に縋っている。
 縋らないと、自分の罪が自分のものになるから。

 だが宰相は冷たい。

「原因は、調査によって判断されます」
 それは“感情で決めるな”と言っている。
 でもアデリオスは感情しか残っていない。

 彼は突然、前に身を乗り出した。

「頼む……! 一度でいい、リシェルに会わせろ!」
 頼む。
 王太子の口から出る言葉じゃない。
 それがどれほど惨めか、本人だけが分かっていない。

「俺は……俺は、あいつに……!」
 言葉が詰まる。
 何を言いたいのか分からない。
 謝りたいのか。責めたいのか。縋りたいのか。
 全部だ。
 全部を、リシェルに“処理してほしい”。

 ヴァルトがその場にいた。
 騎士団としての立場で、沈黙している。
 でも彼の沈黙には意思がある。
 ――リシェルは、ここに来ない。
 来させない。

 宰相が淡々と告げる。

「面会は必要ありません」
 必要ない。
 その一言で、アデリオスの世界がひび割れた。

 必要ない。
 王太子が必要とされない。
 それは彼にとって死と同じだった。

 アデリオスは唇を震わせ、叫びそうになって、喉が詰まった。
 叫んでも意味がない。
 叫びはもう、誰にも届かない。
 届かない叫びは、自分の耳だけを傷つける。

 宰相は書類に印を押した。
 ぱちん、と乾いた音。
 紙の上の音なのに、首が落ちる音みたいに響く。

「以上です。殿下、こちらへ」
 衛兵が一歩前へ出る。
 手を伸ばさない。
 伸ばさないのに、逃げ道は消える。

 アデリオスは振り返った。
 重臣たちの顔を見回す。
 誰かが目を合わせてくれると思った。
 誰かが“殿下”と呼んでくれると思った。

 でも、誰も見ない。
 見ない。
 見ない。
 視線が彼を避ける。

 その瞬間、彼は理解した。
 自分が裁かれたのではなく、無価値になったのだと。

 王宮の回廊。
 アデリオスは衛兵に挟まれ、歩かされる。
 歩く足音は響くのに、周囲は静かだ。

 通りすがりの貴族がいた。
 かつて彼に媚びた男だ。
 アデリオスはその男の名を呼ぶ。

「……おい。お前」
 男は一瞬、足を止めそうになり、止めない。
 止めないまま、扇子で口元を隠し、視線を逸らして通り過ぎた。

 挨拶がない。
 礼もない。
 “殿下”がない。

 それだけで、心臓が冷える。

 別の夫人たちが、遠くで囁いている。
 囁きの内容は聞こえない。
 でも聞こえる。
 “王太子”ではなく、“あの人”と言っている匂いがする。
 名前が薄れる匂い。

 アデリオスは耐えきれず、叫んだ。

「リシェルを呼べ! リシェルに会わせろ!」
 叫びは回廊に反響する。
 反響するだけで、誰にも届かない。

 ヴァルトが現れた。
 表の騎士として、冷静に頭を下げる。

「殿下」
「お前……お前なら分かるだろ!」
 アデリオスは縋るように言う。
「リシェルを……あいつを連れてこい! 俺は……俺は――!」

「必要ありません」
 ヴァルトは淡々と言った。
 宰相と同じ言葉。
 同じ言葉は、壁になる。

「ふざけるな!」
 アデリオスは怒りで顔を歪める。
「俺は王太子だぞ! 命令だ!」

 命令。
 その言葉が、もう虚しい。
 命令は通らない。
 通らない命令ほど、惨めなものはない。

 ヴァルトは目を伏せずに言う。

「リシェル様は、殿下を裁く役ではありません」
「裁く……?」
 アデリオスは息を止める。
「じゃあ……あいつは俺を許すのか?」

 許す。
 彼はまだ、リシェルの手の中に答えがあると思っている。
 答えが彼女から出なければ、終われないと思っている。

 ヴァルトは一拍置いて、静かに答えた。

「許しも断罪も、鎖だと」
 その言葉は、リシェルの言葉を借りたものだった。
「リシェル様は、鎖を渡しません」

 アデリオスの顔が、ゆっくり崩れた。
 理解したくない理解が、胸に落ちる。

「……俺は、何も得られないのか」
 声が掠れる。
「俺は……謝られることも、憎まれることも、許されることも……」

 何もない。
 何も与えられない。
 それが、彼の罰だ。

 ヴァルトはそれ以上言わず、ただ道を空けた。
 空けた道は、追放の道だ。

 その夜、ノワゼル伯爵邸。

 リシェルは窓際で紅茶を飲んでいた。
 カイエンが影にいて、ルフランが星図を閉じ、エルナが短刀を磨いている。
 いつもの夜。
 いつもの静けさ。

 ヴァルトが帰ってきて、短く報告する。

「殿下は……政務から外れました」
「そう」
 リシェルはカップを置く。
 淡い反応。
 勝利の歓声はない。

 エルナが眉を寄せる。

「会いに来た?」
「会いたがっていた」
 ヴァルトは言う。
「だが、会わせなかった」

 カイエンがリシェルを見て、問いを落とす。

「……会いますか」
「会わない」
 リシェルは即答した。
 即答だから、迷いがない。

「なぜ」
 カイエンの声は責めない。
 ただ確認だ。

 リシェルは微笑む。
 甘い微笑み。
 でも冷たい。

「会ったら、彼は救われる」
 リシェルは淡々と言う。
「恨まれるなら、まだ生きられる。許されるなら、やり直せる。……でも私は、彼の物語を完結させたくない」

「完結」
 ルフランが小さく呟く。
 星読みの言葉は時々、詩みたいだ。

「彼は、私の言葉で終わりたいのよ」
 リシェルは続けた。
「“お前が悪かった”と言われたい。あるいは“許す”と言われたい。どちらでもいい。私に裁かれて、役を終えたい。……でも私は裁かない」

 エルナが小さく息を吐く。

「残酷」
「残酷じゃないわ」
 リシェルは微笑んだ。
「公平よ。彼の嘘は、彼のもの。私の手で処理しない」

 カイエンが低く言う。

「……殿下は、孤独になります」
「ええ」
 リシェルは頷く。
「孤独は、愚かさを完成させる。私を呼び出した日、完成した。そして今日、名前が死んだ」

 エルナが顔をしかめる。
「名前が死ぬって、えぐ」
「えぐいのは、嘘よ」
 リシェルは淡々と言う。
「嘘は人の名前を殺す。本人が気づかないだけ」

 窓の外、王都の灯りが揺れていた。
 揺れは噂の揺れ。
 でも今夜の噂は、怒りではなく“飽き”に近い。
 飽きは最強だ。
 飽きられた者は、戻れない。

 ルフランが星図を見ずに言った。

「……星は、名を落としました」
「落ちたのね」
 リシェルは微笑む。
「次は、甘い秩序が崩れる番」

 誰も歓声を上げない。
 誰もざまぁを叫ばない。
 ただ、静かに確定していく。

 裁かれない罰。
 呼ばれない名前。
 見られない視線。
 それが、王太子アデリオスの“落ち方”だった。
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