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第19話:甘露の罠、完成
しおりを挟む罰って、派手な雷みたいなものだと思われがちだ。
でも本当の罰は、霧だ。
静かで、薄くて、いつの間にか肺の奥まで入り込んで、息の仕方を変えてしまう。
王都は、霧の中にいた。
王太子の名は薄れた。
聖女の涙は届かなくなった。
そして策略家の甘い秩序は、まだ甘いまま空中に漂っている。
甘いものほど腐るのが早い。
腐り始めた匂いは、鼻のいい者にしか分からない。
でも一度分かると、もう戻れない。
ノワゼル伯爵邸の朝。
窓辺に光が差し込む。
光が差し込むほど、影がくっきりする。
影がくっきりすると、隠していたものが輪郭を持つ。
リシェル・ノワゼルは、紅茶の湯気を見つめていた。
湯気は上に昇って、消える。
消えるものはきれいだ。
でも嘘は、消える前に必ず何かを汚す。
ルフランが星図を机に広げていた。
彼の指先が、ある一点をなぞる。
星の線が交差する場所。
交差はいつも、決着の形になる。
「破滅の星は……今日、沈みます」
ルフランの声は静かだ。
静かだから、確定に聞こえる。
エルナが短刀をしまい、肩を回した。
「つまり、やっと終わる?」
「終わるわ」
リシェルは微笑む。
「終わらせるのは私じゃないけれど」
ヴァルトが入ってくる。
手には封筒が三つ。
封蝋は違うが、匂いは同じ。
紙の匂い。
紙の匂いは、人を殺すことがある。
「整いました」
ヴァルトは短く言った。
「闇資金の導線。聖女の施しの中継。王太子の帳簿。……そしてダルマント卿の“口”」
リシェルは封筒に触れない。
触れないことで、まだ鎖を渡さない。
「出すの?」
エルナが聞く。
「今日は出すよね?」
リシェルは首を傾げた。
甘い仕草。
でも答えは甘くない。
「出さない」
「は?」
エルナが眉を吊り上げる。
「じゃあ何のために整えたの?」
「整えたから、出さなくていいの」
リシェルは淡々と言う。
「整っているという事実だけで、人は焦る。焦れば喋る。喋れば自爆する」
カイエンが影の位置から言った。
「……本日、ダルマントが動きます」
「ええ」
リシェルは微笑む。
「彼は勝ちたい。勝ちたい人ほど、急ぐ」
その日の昼。
王宮ではなく、王都の中央区。
貴族の私邸――ダルマント邸の大広間で、秘密裏の集会が開かれた。
名目は“混乱収拾の協議”。
実態は“次の権力の席替え”。
出席者は、王太子派閥から距離を取った貴族たち。
聖女に疑いを抱き始めた聖職者たち。
そして、金の匂いを嗅ぎつけた商人たち。
誰もが正義ではなく安全を求めている。
安全を求める者ほど、強い言葉に縋る。
グレイオス・ダルマントは壇上に立ち、微笑んでいた。
彼の微笑みは甘い。
甘いから、人は安心する。
安心した人間は、頷きやすい。
「諸君」
グレイオスは穏やかに言った。
「王都は今、危機にある。だが危機は、秩序を再構築する好機でもある」
秩序。
その単語は、今の王都にとって麻薬だ。
不安な時代ほど、人は秩序という言葉に酔う。
「我々は血を流さず、混乱を終わらせる」
グレイオスは続ける。
「民衆には新しい“信頼”を。貴族には新しい“規範”を。王宮には新しい“透明性”を」
透明性。
言葉がきれいすぎて、逆に怖い。
きれいな言葉は、だいたい何かを隠す。
貴族の一人が手を挙げた。
「ダルマント卿。王太子殿下の件は、どう処理する」
「調査中という形で、遠ざける」
グレイオスは即答した。
「王家の名誉を守るためにな」
別の者が問う。
「聖女は?」
「病だ」
グレイオスは淡々と言う。
「神の負担が大きすぎた。哀れだが、退くべきだ」
病。
彼は人を、言葉で死なせる。
病という言葉で、責任を消す。
そして彼は、最後にリシェルの名を出した。
「そして――ノワゼル伯爵令嬢、リシェル」
その名に、場がざわつく。
崇拝と恐れの混ざったざわつき。
「彼女は象徴となる」
グレイオスは言い切った。
「彼女の優雅さは民衆を鎮め、彼女の沈黙は貴族を従わせる。彼女は――我々の器だ」
器。
またその言葉。
その言葉が出た瞬間、空気が微妙に歪む。
器という言葉は、持ち上げながら人を物にする。
その歪みを、見逃さない人間がいた。
聖職者の一人が、ゆっくり眉を寄せる。
「……器、ですか」
彼は低い声で言った。
「それは、神に選ばれた器という意味で?」
グレイオスは微笑んだ。
この問いを“取り込める”と思った。
取り込めると思った瞬間、彼は余計に喋る。
「神も秩序も同じだ」
グレイオスは軽く言った。
「必要なのは象徴だ。象徴は、人々の不安を一つにまとめる」
その言い方が、決定的に冷たい。
信仰を道具扱いした言い方。
聖職者の目が冷える。
商人の一人が、隣に囁く。
「今の、まずくないか?」
まずい。
空気が“ずれる”。
ずれた空気は、雪崩の前兆だ。
そこへ、扉が開いた。
騎士団の制服を着たヴァルトが入ってくる。
彼は礼儀正しく一礼し、淡々と言った。
「失礼いたします。監査官より書類の提出要請がありました」
監査官。
その単語で、場が一瞬静まる。
グレイオスの笑みは崩れない。
崩れないが、瞳がほんのわずかに硬くなる。
「提出要請?」
「はい」
ヴァルトは淡々と続ける。
「寄付金の出所に関する確認です。特に南区施療院への多額の支出について」
寄付金。
施療院。
その言葉が出た瞬間、グレイオスの背筋が僅かに動く。
焦りの動き。
焦りは目に見えないはずなのに、鍛えた者には見える。
グレイオスは笑う。
笑って誤魔化す。
誤魔化す時点で、刺さっている。
「素晴らしい。透明性を高めるのは大切だ」
彼は壇上で穏やかに言った。
「もちろん協力しよう。ただし、提出は後日――」
「本日中です」
ヴァルトは遮る。
遮り方が丁寧だから、余計に冷たい。
「監査官は、今夜までの提出を求めています」
場がざわつく。
ざわつきは、疑いのざわつきだ。
「今夜まで……?」
「そんな急に?」
「ダルマント卿、何か隠しているのか?」
グレイオスは笑みを維持しようとする。
維持しようとするほど、顔が固くなる。
固くなるほど、周囲は不安になる。
彼は口を開いた。
ここで彼が黙ればよかった。
でも彼は黙れない。
黙ると、支配が崩れるから。
支配者は、常に言葉で場を握る。
「隠すことなどない」
グレイオスは断言した。
「だが提出の順序は――」
「順序」
聖職者が冷たく繰り返した。
「あなたは今、透明性を語りました。なのに順序を理由に遅らせるのですか」
グレイオスの瞳が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
本性の光。
しかし彼はすぐに微笑み直す。
微笑み直すのが遅い。
遅い微笑みは“作った微笑み”だと分かる。
そこへ商人が追い討ちをかける。
「ダルマント卿。施療院の寄付、確か中継があると聞きましたが」
噂だ。
噂はもう回っている。
整えられた証拠が“出ていない”のに、噂だけが先に走る。
それがリシェルの狙いだ。
グレイオスは息を吸う。
吸った息が甘い。
甘い息は、誇りの匂い。
「君たちは、理解が浅い」
彼はついに言ってしまった。
諭す口調。上からの口調。
「秩序には段取りが必要だ。民衆は愚かだ。だから象徴が必要だ。だから――」
愚か。
その言葉が落ちた瞬間、支持者たちの顔が凍る。
民衆を愚かと言う者が、民衆を救うと言えるのか。
その矛盾が、今ようやく見えた。
グレイオスはさらに言う。
止まらない。
止まれない。
自分の甘さに酔っているから。
「私は裁く側に立つ。だから、疑いなど――」
裁く側。
また言った。
しかも今度は衆人の前で。
沈黙が落ちる。
沈黙は神聖ではない。
終わりの沈黙だ。
誰かが椅子を引く音を立てた。
一人が立つ。
二人が立つ。
立つ者が増える。
増えるほど、場が崩れる。
「……失礼します」
聖職者が冷たく言った。
「あなたの秩序に、神は宿らない」
商人も席を立つ。
「巻き込まれたくない」
貴族も扇子で口元を隠し、視線を逸らして立ち去る。
逃げるのが上手い。
逃げることだけは上手い。
グレイオスの笑みが、ついに割れた。
「待て」
声が低くなる。
「君たち、今の話を……」
誰も聞いていない。
聞いていない背中ほど残酷なものはない。
背中が彼を裁く。
裁くのは法ではない。
利益だ。恐れだ。距離だ。
ヴァルトは最後に、淡々と告げた。
「書類提出は、今夜までです」
そして去る。
追い詰めたのに、追い詰めた顔をしない。
それが“表”の恐ろしさだ。
その夜。
ダルマント邸の書斎で、グレイオスは一人になった。
支持者は散り、使用人は息を殺し、時計の音だけが響く。
彼は机を叩きつけた。
苛立ち。
だが苛立ちの底に、恐怖がある。
「……リシェル」
彼は呟く。
「君が……君が何かしたのか」
その問いは、もう遅い。
リシェルは何もしていない。
彼が勝手に喋って、勝手に嫌われただけ。
同じ頃。
王宮の隅。
フィオナは聖堂のベンチに座り、手を握り締めていた。
祈るふりをして、祈れない。
届かない祈りは、喉の奥で腐る。
王太子アデリオスは、離宮の一室で窓を見ている。
見ているのに、誰も見に来ない。
名を呼ばれない。
それが彼の罰。
そしてノワゼル伯爵邸。
リシェルは窓辺で紅茶を飲む。
いつもの夜。
いつもの渋さ。
ルフランが星図を閉じ、静かに告げた。
「破滅の星は、静かに沈みました」
エルナが息を吐く。
「……終わった?」
「終わったわ」
リシェルは微笑む。
甘いのに冷たい微笑み。
「最初から、彼ら自身の重さだったもの」
カイエンが影の中で頷く。
ヴァルトが目を伏せる。
誰も歓声を上げない。
ざまぁの祝杯はない。
あるのは、霧のような確定だけ。
甘露の罠は完成した。
罠は誰かが作ったものではない。
彼らが自分で舐めた甘さが、自分の喉を締めただけ。
リシェルは選ばない。
裁かない。
許さない。
ただ微笑んで、そこにいる。
それが一番、逃げ場のない終わり方だった。
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