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第20話:彼女は微笑んで、そこにいる
しおりを挟む王都は、何事もなかった顔をするのが得意だった。
あれほど騒いだ断罪の夜も、施療院の祈りが空振りした昼も、王太子の名が薄れていった朝も。
すべてが、街の石畳の隙間に吸い込まれたみたいに、翌日には「まあ、そんなこともあったわね」で流される。
人は忘れたい。
忘れたい理由は、罪悪感じゃない。
面倒だから。
面倒な現実は、紅茶に砂糖を入れて薄めたくなる。
王宮の回廊は今日も磨かれている。
磨かれすぎて、映るのは床に映る自分の顔だけ。
誰も、過去の影を見たがらない。
そんな王都の上に、噂だけが漂っていた。
悪役令嬢だったはずのリシェル・ノワゼル。
いつの間にか「不当に貶められた令嬢」にされ、今では「黒い聖女みたいな何か」として囁かれている。
――怖いほど優雅。
――泣かないのに、残酷。
――裁かれなかったのに、全部が終わった。
――あの人を敵に回すな。
――味方にできるならしたい。
噂は、また別の鎖を作ろうとしていた。
崇拝。期待。神格化。
それらは優しい顔をしていて、一番厄介だ。
ノワゼル伯爵邸の庭は、静かだった。
朝露が葉先に光って、薔薇の棘は黙って鋭い。
空は高く、風はまだ冷たい。
冬の入り口に似た匂いがする。
リシェルは庭の小道を歩いていた。
黒に近い葡萄色のドレス。
香りは控えめ。
背筋は真っ直ぐで、足取りは音がしない。
まるで世界の上を滑るみたいに歩く。
その少し後ろ、影にカイエンがいる。
彼は今日も音を立てない。
音を立てないのに、存在だけは確かで、リシェルの呼吸に合わせて空気が守られている。
さらに少し離れた木陰にエルナ。
短刀は見えない場所にしまっているが、指先の癖で分かる。
いつでも抜ける。抜かない。
抜かないことが、いまの強さだ。
門の近くにはヴァルト。
騎士団の制服ではなく、きちんとした礼服。
彼は“表”の顔を整えながら、視線だけで全体を見ている。
そして屋敷の窓際、ルフラン。
星図は持っていない。
けれど彼の目は、いつも空の裏側を見ている。
この距離感が心地いい。
誰も跪かない。
誰も命令しない。
でも誰も離れない。
庭に、使者が来た。
馬車の車輪の音が静かに止まり、黒い外套の男が門をくぐる。
王宮からの使者――ただし騎士団の制服ではなく、文官の服。
剣ではなく紙で人を動かすタイプ。
ヴァルトが前に出る。
「ノワゼル伯爵令嬢への用件は」
「評議会より」
文官は丁寧に頭を下げ、封蝋の押された文書を差し出した。
「正式な提案です」
提案。
その単語は、甘い罠の匂いがする。
リシェルは受け取らない。
ヴァルトが代わりに受け取り、内容を確認する。
紙を開く音が、庭の静けさを裂いた。
ヴァルトの眉がわずかに動く。
読み進めるほど、その眉の動きが硬くなる。
「……特別顧問」
ヴァルトが低く言った。
「王宮監査に関わる調停役。期限は一年。評議会の直轄……」
エルナが鼻で笑う。
「うっわ。鎖じゃん」
「ええ」
リシェルは微笑む。
甘く、冷たく。
「綺麗に磨いた鎖」
文官は、笑顔を崩さない。
崩さないのが仕事だ。
「伯爵令嬢のご助力があれば、王都は安定します」
「安定」
リシェルは言葉を反復する。
鏡みたいに。
「それは、誰にとって?」
「民にとってです」
文官は迷わず答える。
「そして王家にとって。貴族にとっても」
“あなたにとって”が、最後まで出てこない。
出てこないのに、提案は“あなたのため”の顔をしている。
そういう矛盾が、いちばん嘘臭い。
リシェルは歩み寄り、文官の目を見た。
目は優しい。
でも優しさは、相手を許す優しさではない。
相手を逃がさない優しさだ。
「つまり、私を便利に使いたいのね」
「そのような――」
文官が慌てて言葉を探す。
探すほど、嘘が露出する。
リシェルは微笑んだまま、声を柔らかくする。
柔らかい声は、相手に喋らせる。
「否定しなくていいわ。正直でいいの」
「……伯爵令嬢は、王都の象徴になり得る方です」
文官はついに言った。
「人々はあなたを……必要としています」
必要。
その単語は、鎖の金具だ。
必要と言われると、人は逃げられなくなる。
エルナが小さく舌打ちする。
「必要って言葉、嫌い」
「私も」
リシェルは同意するでもなく、淡く笑った。
「必要という言葉は、たいてい“責任”とセットだから」
カイエンが影の位置から、低い声で言う。
「リシェル様。危険です」
彼の危険は、剣の危険ではない。
役割の危険。
鎖の危険。
「分かってる」
リシェルは頷く。
そして文官へ、丁寧に訊いた。
「私がその役を受けたら、私は裁けるの?」
「裁ける……?」
文官が目を瞬かせる。
「監査の調停役なら、誰かを裁く権利が付くでしょう」
リシェルは淡々と言う。
「あなたたちは、私を“裁く側”にしたいのよね」
文官は言葉を失う。
裁く側にする――それは“権限”として魅力的な響きだ。
でも同時に、リシェルにとっては最悪の鎖だ。
彼女は以前から言っている。
許しも断罪も鎖。
裁く側に立てば、その鎖を握ることになる。
握った瞬間、鎖は自分にも巻きつく。
リシェルは、微笑んで言った。
「それは“選ぶ”ことですわね」
文官が息を呑む。
ヴァルトの肩が少し動く。
カイエンの気配が静かに緊張する。
エルナは腕を組んで、目だけで見ている。
リシェルは続けた。
「私は……選びません」
文官の顔が引きつる。
選ばない。
そんな答えは想定されていない。
権力の提示は、誰もが飛びつく前提で設計されているから。
「ですが……」
文官は必死に言う。
「あなたが受けなければ、また誰かが不当に裁かれるかもしれない。貴女ほど公正な方は――」
公正。
崇拝の匂いが混ざってきた。
崇拝は期待を生む。期待は鎖になる。
いつかの夜に固めた誓いが、ここで試される。
リシェルは、優しく首を振った。
「公正なんて、私は持っていないわ」
文官が驚く。
ヴァルトも、少しだけ目を細める。
エルナが「うんうん」と小さく頷いた。
「私はただ、嘘に触れたくないだけ」
リシェルは淡々と言う。
「嘘に触れたくないから、裁かない。裁かないから、役も持たない」
「役を持たない……?」
文官は理解できない顔をした。
理解できないのが普通だ。
世界は役で回っている。
役を拒否する人間は、世界の外に立つ。
でもリシェルは、外へは行かない。
去らない。
残る。
残って、役を拒否する。
それが一番、世界の嘘を嘘のまま晒す。
リシェルは文官に向けて、丁寧に言った。
「提案はありがたく受け取ります。……でも答えは変わりません」
そしてほんの少しだけ、声を甘くする。
「あなたたちが望む“象徴”には、なりませんわ」
文官は、唇を噛む。
噛んだ唇の赤が、彼の焦りを隠せない。
「……では、せめて」
彼は最後の抵抗をした。
「王宮で、あなたの言葉を一言。民衆の不安を鎮めるために。あなたが“終わった”と言えば……」
終わった。
その言葉が、リシェルの胸の奥で冷たく鳴った。
彼らは“終わった”ことにしたい。
終わったことにして、忘れたい。
忘れて、また次の嘘を始めたい。
リシェルは微笑む。
その微笑みは、柔らかいのに残酷だ。
「終わったのは、彼らの嘘よ」
ゆっくり言う。
「王都の癖は、終わったふりをして、何も学ばないこと。……私はそれを止める役も持たない」
文官は何も言えなくなった。
紙を握りしめ、浅く頭を下げる。
そして去っていく。
去り際に背中が少し丸まっているのが見えた。
権力の甘さが効かなかった時、人は背中から萎む。
門が閉まり、庭に静けさが戻る。
風が薔薇の葉を揺らす。
葉の擦れる音は、小さな拍手みたいに聞こえた。
エルナが肩をすくめる。
「で、また敵作った?」
「敵じゃないわ」
リシェルは微笑む。
「ただ、期待を切っただけ」
「期待切るのって、普通は嫌われるんだけど」
「嫌われてもいいの」
リシェルは淡々と言う。
「嫌われる方が、崇拝よりずっとマシ」
ヴァルトが静かに言った。
「……王宮は、まだ貴女を必要とするでしょう」
「必要とするなら、勝手にすればいい」
リシェルは扇子を開く。
ぱさ、と軽い音。
「私は私のままでいる。必要という言葉に、私を縛らせない」
カイエンが、少しだけ近づいた。
影が寄る。
彼の声は低く、真剣だった。
「怖くありませんか」
問いは単純。
でもその単純さが、胸に刺さる。
リシェルは一瞬だけ目を伏せ、庭の土の匂いを吸い込んだ。
薔薇の香り。湿った土。朝露の冷たさ。
五感がある限り、彼女は“ここ”にいる。
「怖いわ」
リシェルは正直に言った。
「でも怖いから、選ばない。選んだら鎖になる。鎖になったら、私は私じゃなくなる」
エルナが小さく笑う。
「相変わらず面倒」
「ええ、面倒」
リシェルも笑う。
その笑いには、勝った誇りじゃなく、息ができる安心がある。
ルフランが窓際から庭へ出てきた。
彼は空を見上げる。
星は昼に見えない。
でも彼は見えない星を見る。
「星は、もう動きません」
ルフランは静かに言った。
それは予言の終わりの言葉だった。
未来の筋道が、これ以上分岐しないという意味。
リシェルは頷いた。
「ええ。だから、ここにいるの」
その言葉は、宣言じゃない。
ただの事実。
事実は、嘘より強い。
庭に風が通り抜ける。
遠くで教会の鐘が鳴る。
王都は今日も、何事もなかった顔で動き始める。
新しい噂を作り、古い噂を忘れ、また次の誰かを祭り上げようとする。
でも――
この庭の中心にいる人は、祭り上げられない。
リシェルは歩き出す。
小道の先へ。
薔薇の棘を避けるように、でも恐れずに。
背後でカイエンが影として寄り添い、エルナが少し離れて歩き、ヴァルトが門の方を見張り、ルフランが空の裏側を見つめる。
誰も跪かない。
誰も命令しない。
それでも、この距離は崩れない。
王都は忘れる。
けれど彼女は忘れさせない。
声高に語らないからこそ、存在だけで嘘の輪郭を残す。
そして彼女は微笑む。
甘く、冷たく、軽く。
まるで黒蜜が陽に照らされても溶けないみたいに。
彼女は王冠を被らなかった。
だから誰にも裁かれず、
誰にも選ばれず、
今日も微笑んで、そこにいる。
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