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第5話「小さな襲撃と、目を覚ます指先」
しおりを挟むその日、空はやけに晴れていた。
雲ひとつない青。
風は少し冷たくて、でも陽射しはちゃんとあったかい、のんきな午後。
こういうときに限って、フラグは立つ。
「ねぇリュミエ、この世で一番幸せな時間ってさ、昼下がりのおやつじゃない?」
ミナが、パン屋の裏庭で焼き立てのクッキーを頬張りながら、勝手な人生論を語っていた。
クッキーの甘い匂いと、小麦粉の白と、空の青。
全部まとめて“平和”という言葉に詰め込めそうな光景だった。
「わかるけど、いきなり人生スケールで語られるとクッキーが重くなる」
「重くていいの。幸せは重い方がいいの」
「名言っぽいけどクッキー見ながら言わないで」
笑い合って、かじって、ぽろぽろこぼして。
そんな他愛のない時間の真ん中で――空気が、変わった。
遠くから、金属同士がぶつかる音がした。
カン、カン、と乾いた音。
次に、誰かの怒鳴り声。
そして――聞き慣れない、低い唸り声。
「……今の」
クッキーを持つ手が止まる。
胸の奥の“別の何か”が、先に反応した。
嫌な匂いが、風に混じった。
焦げた獣の毛と、鉄と、湿った土。
「ミナ、家の中に入って」
「え? なに、どうしたの――」
「いいから!」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
ミナがびくっと肩を震わせる。
「……わ、わかった。でもリュミエは?」
「様子見てくる。絶対、外に出ちゃダメだからね」
ミナは唇を噛んで頷き、家の中へ駆け込んだ。
扉が閉まる音を背中で聞きながら、リュミエは裏庭から表へと走る。
広場の方から、はっきりと悲鳴が聞こえた。
◇
視界が開けた瞬間、空気が変わった理由を理解した。
村の手前――畑と森の境目のあたりで、黒い塊がうごめいていた。
狼と猪を混ぜてさらに一回り大きくしたような魔物たち。
角の生えた犬。
牙が異様に発達した猿。
それらが、群れになって村へとなだれ込もうとしている。
「魔物だ! 中に入れ! 家に入れ!」
門番のランツが怒鳴っていた。
村人たちは荷物を放り出し、子どもを抱え、必死に建物の中へ逃げ込んでいく。
――小規模な魔物の群れ。
セイルが言っていた「異常発生」のうちのひとつ。
その現物が、今まさに目の前で暴れている。
その前に――先頭に立つ、見慣れた背中が四つ。
「アレンさん!」
思わず名前を呼んでいた。
勇者は振り返る暇もなく、剣を振るっている。
「くそっ、思ったより多いな!」
アレンの剣が、一体の魔物をまとめて薙ぎ払う。
しかし、倒したそばから、新しい個体が前へ出てくる。
ロウは村の門の前に立ち、盾を構えていた。
彼の周りだけ、見えない壁があるみたいに魔物が近づけない。
それでも数が多く、じりじりと押されている。
セイルは少し下がった地点で詠唱を続けていた。
足元に描かれた魔法陣が光り、準備している魔法が大規模だと一目でわかる。
だからこそ、詠唱には時間がかかる。
カグラの姿は見えない。
でも時折、木陰や屋根の上から、音もなく魔物が一体ずつ崩れ落ちる。
一見すると、“勇者パーティが前線に立って村を守っている”――それだけの光景。
けれど、リュミエの目には、もっと別のものが見えた。
(動き方が、変だ)
魔物たちの目は血走り、涎を垂らしている。
暴走しているように見えるのに――その動きには妙な規則性があった。
先頭が突撃し、盾にぶつかってはじかれ、その隙間を狙って素早い個体が滑り込む。
重い個体がわざと正面からぶつかり、機動力のある個体が側面を狙う。
……それは、偶然の一致にしてはできすぎていた。
「っ……!」
ロウの盾が、一瞬だけ押される。
その隙間に、牙をむき出しにした狼型の魔物が滑り込んだ。
「させるか!」
アレンが飛び込んで斬り払うが、その一瞬の乱れで、隊列が崩れる。
ロウは村の入口から下がれない。
アレンは中央の押し返しに手一杯。
セイルは大魔法の詠唱の途中で、位置を変えられない。
カグラは見えない位置で何体か仕留めているが、全体を覆うには数が多すぎる。
ほんの少し。
“戦線が崩れる”予兆が、空気に乗った。
その瞬間――
カチリ、と。
リュミエの中で、“何か”が噛み合った。
視界の色が変わる。
恐怖の音が遠のき、代わりに全体の動きが輪郭だけ残して浮かび上がる。
魔物の位置。
勇者たちの位置。
村の門、丘、家々の配置。
村人の逃げる動線。
風向き。
一瞬で、全部が“盤面(ボード)”に変わった。
(遅い。アレンさんは真ん中すぎる。ロウさんは守り一辺倒で出せてない。セイルさんは位置が低い。カグラさんは――あそこか)
木の上。
薄い影。
そこからなら、特定の範囲は完璧に射程に入る。
そして――群れの中で一体だけ、動きが違う個体がいた。
牙も角も、他と大差ない。
でも、そいつだけ、ほんの一歩だけ後ろにいる。
周囲の魔物の動きを見て、“隙間”を作る動線で動いている。
(リーダー格)
そこを落とせば、群れ全体の動きが乱れる。
それが骨の髄まで染み込んだ感覚として、リュミエの中にあった。
足が、前に出た。
「リュミエ! 出るな!」
誰かの制止が聞こえた。
でも、もう遅い。
ざく、ざく、と土を踏みしめる。
戦場と村の境目。
恐怖は、思ったほどなかった。
代わりにあったのは――妙な懐かしさ。
「……やだな」
自分の口から漏れたのは、そんな小さな本音。
でも声は、不思議なほど落ち着いていた。
「アレンさん!」
叫んだ瞬間、勇者がこちらを振り向いた。
その目に浮かぶのは、「危ない!」という怒りと心配。
その怒りを、リュミエの次の言葉が上書きする。
「右から回ってください!」
「は?」
「右です! あの大きい岩の陰を使って! こっちに下がると村が巻き込まれます!」
指先が、自然に動いた。
地面に簡単な線を引き、空中に“理想の動き”を描く。
アレンの視線が、一瞬その軌跡を追った。
「……なるほど!」
彼は迷わなかった。
言われた通り、正面から一歩退き、右側の岩場へと回り込む。
「ロウさん!」
次に呼んだのは、村の門を守る騎士。
「村の入口から絶対に動かないでください! でも、今より一歩前へ!」
「一歩……?」
「そうです! 今の位置だと、魔物があなたを抜けたあと、勢いのまま村に入っちゃう! もう一歩前なら、ぶつかった瞬間に勢いが殺せます!」
ロウは一瞬だけ眉を寄せ――すぐに足を踏み出した。
盾が、わずかに前へ突き出される。
次に突っ込んできた魔物が、その盾に全体重をかけてぶつかった。
鈍い音。
だが、今度は、ロウが押されない。
踏み込みの角度が変わったことで、衝撃が足元から地面へと逃げた。
ほとんど反射的に、ロウはそのまま前蹴りを入れ、魔物を押し返す。
「……確かに、こっちの方が止めやすい」
ロウ自身が驚いていた。
「セイルさん!」
詠唱中の賢者の名を呼ぶ。
彼の周りには、まだ魔物が近づけないようにロウが防衛線を張っている。
「そのまま詠唱続けてください! でも発動地点を、あの丘の上に変えて!」
「丘?」
「あそこです! 村を巻き込まずに、魔物だけをまとめて焼けます!」
リュミエが指差した先――村の少し外れに、小さな丘がある。
そこを起点に広域魔法を展開すれば、村との境界線で炎を止められる。
セイルの目が、きらりと光った。
「……なるほど。座標変更、可能だ」
彼は詠唱を途切れさせることなく、魔法陣の構造を書き換えていく。
足元に描かれていた光の輪が、一部だけピリッと弾け、向きを変えた。
「カグラさん!」
最後に、見えない暗殺者に向けて叫んだ。
木々の上、屋根の上、影の中――どこにいるかは正確には見えない。
それでも、声は届くと確信があった。
「一番後ろにいる“あいつ”! 周りより半歩下がってるやつ! あれが合図出してます! あれを落としてください!」
一瞬、風が止まった気がした。
次の瞬間、森の影の一部がふっと動く。
音もなく、黒い影がひとつ滑り込む。
木の枝を蹴り、屋根の端を踏み、魔物の群れの真上へ。
カグラは、そのまま音もなく降りた。
狙いは、群れの中でわずかに後ろにいた一体。
その魔物が、何かの合図を出すために口を開きかけた瞬間――細い刃が、その首元を走った。
血飛沫。
叫び声。
それだけ。
リーダー格が倒れた瞬間、群れの動きが乱れた。
統率の取れた隊列は崩れ、各個体が好き勝手な方向へと突っ込んでいく。
「今です、アレンさん!」
「おう!」
岩場に回り込み、側面から構えていたアレンが一気に飛び出す。
剣が弧を描き、散らばった魔物たちの“進行方向”をまとめて切り裂く。
ロウは正面から押し返し、村の入口を一歩も譲らない。
方向性を失った魔物たちは、その盾に弾かれて、丘の方へと追いやられていく。
「セイル!」
「――行きます」
詠唱が、ひときわ強く響いた。
セイルの足元の魔法陣が、光の流れを丘へと繋ぐ。
「“焔環陣(フレイム・リング)”」
低く呟かれた瞬間、丘の周囲に炎の輪が立ち上がった。
赤く、熱く、けれど制御された炎。
魔物たちがちょうど追い込まれた瞬間、その輪が狭まる。
逃げ場を失った群れが、一斉に炎に呑まれた。
叫び声。
獣の、魔物の、焼ける音。
炎は、一歩手前――村の境界線でぴたりと止まる。
家々には、火の粉ひとつ飛び散らなかった。
数呼吸ののち。
輪はふっと消え、そこには黒焦げの魔物の残骸だけが残っていた。
静寂。
誰かが、ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
「……終わった?」
最初に声を出したのは、どこかの子どもだった。
その小さな声を合図にするみたいに、村のあちこちから、安堵と歓声が混じったざわめきが湧き上がる。
「勇者様だ……!」
「助かった……!」
「さすがだ……!」
村人たちが口々に叫び、拍手が起こった。
涙ぐんでいる人もいる。
誰かがロウの盾に駆け寄って礼を言い、誰かがセイルのところに「怪我はないか」と心配しに行き、アレンは子どもたちに囲まれている。
カグラだけは、いつの間にかまた影に戻っていた。
屋根の上から、静かに周囲を見下ろしている。
その真ん中で――リュミエは、ようやく自分の指先を見下ろした。
震えていなかった。
戦いの間、声も、視線も、思考も、すべてが“使い慣れた道具”みたいに動いていた。
(……これ、知ってる)
この感覚。
この呼吸の仕方。
全体を俯瞰して、駒を配置して、戦場を“デザイン”する感覚。
イリス=ノワールが、生きていたとき。
何度も、何度も、何度も繰り返してきたもの。
「は……はは」
笑い声なのか、嗚咽なのか、自分でもわからなかった。
胸が気持ち悪いくらいざわざわしている。
「リュミエ!」
名前を呼ばれて顔を上げると、アレンが駆け寄ってきていた。
汗と血と煤に塗れた顔で、しかし笑っている。
「お前、すげえな! さっきの指示、マジで助かった!」
「……え」
「右から回れって言われなかったら、多分もっと時間かかってたし、セイルの魔法だってあそこまで綺麗に決まってなかった」
「座標指定、完璧でしたよ。あの位置は、私も考えてはいましたが……あの短時間で言語化できたかどうかは怪しい」
セイルがいつもの冷静さで言う。
ロウも、頷いた。
「俺の位置も、結果的に一番良かった。……あの一歩前に出ろという判断は、正しかった」
カグラは何も言わなかったが、フードの奥でじっとリュミエを見ていた。
その視線は、“評価”とも“警戒”ともつかない、不思議な重さがあった。
村人たちが、リュミエにも笑顔を向ける。
「さっき、あんたが叫んでたよな!」
「勇者様たちに指示出してた!」
「すごいわ、リュミエちゃん!」
「い、いや、わたしは別に……」
視界の端が、白くチカチカしてきた。
褒め言葉が、全部、刃物みたいに刺さる。
――戦場を操るのが上手いなんて、何も誇らしくない。
イリスとしては、それが“価値”だった。
でも、リュミエとしては、それはただただ、怖い才能だ。
「……なぁ」
ふいに、アレンの声色が落ちた。
笑っていた顔から、ふっと光が引いていく。
「今の……“感じ”」
誰にともなく呟かれた一言。
それは、勇者パーティの四人だけに通じる言語だった。
セイルが眼鏡の奥で目を細める。
ロウは顎に手を当て、戦場を振り返るように目を閉じた。
カグラは視線を空へ逸らし、唇の内側を噛む。
「この戦場支配……まるで――」
言葉の先は、誰も口にしなかった。
けれど、四人の頭の中に浮かんでいた名前は、同じだった。
〈影蜘蛛(シャドウスパイダー)〉。
戦場を地図盤に変え、敵味方の動きをまとめて掌に乗せていた、“黒幕”。
報告書でしか知らないその手口が、今目の前で再現されていた。
「……違う」
リュミエの口から、かすれた声が漏れた。
「違います……わたし、そんな、怖いこと、してない……」
否定したかった。
それが自分の本能だと認めたくなかった。
「リュミエ」
アレンが、一歩近づく。
瞳は真剣で、そこには“疑い”と“心配”が混ざっていた。
「今の判断は、確かに黒幕みたいだったかもしれない。でも――」
そこで一度言葉を切り、彼は少しだけ笑った。
「誰も死んでねぇよ」
その一言が、肺に落ちた。
「……え?」
「お前が指示出した結果、守られた命がある。村のやつらも、俺たちも。……それが全部だろ、今のところ」
軽く言っているのに、その声には妙な説得力があった。
セイルも静かに頷く。
「“同じ手口”でも、目的が違えば、評価は変わります。私たちが今見ているのは、“人を殺した黒幕”ではなく、“人を救った村娘”です」
「……でも」
ロウが低く付け加える。
「救い続ければ、いつか“黒幕”じゃなく、“指揮官”として受け入れられる日が来るかもしれん。……俺は、その可能性を信じたい」
カグラは、しばらく黙っていた。
やがて、風に紛れるくらい小さな声で呟いた。
「……少なくとも、さっきの声は、“楽しんでる”声じゃなかった」
その一言に、リュミエの喉がぎゅっと締まる。
「黒幕は楽しんでたのか?」
アレンが、ぽつりと聞いた。
問いは、半分自分に、半分彼らの記憶に向けられている。
「さぁな。顔を見たやつはいない」
カグラはフードの影で目を伏せた。
「でも、命令はいつも、無機質で、冷たくて。……あいつの指示が飛ぶたびに、誰かが死んでた」
リュミエの胸に、悪夢の少女の姿が浮かぶ。
黒い糸を操り、街を燃やしていた、無表情の自分。
その少女は、楽しんでいたわけじゃない。
でも、悲しんでもいなかった。
(わたしは……今、どう見えてたんだろう)
人を救うために指示を飛ばしていた、つもり。
でも、そこに混じる“快感”を、自分は完全に否定できない。
自分の言葉ひとつで、戦況がひっくり返る瞬間。
盤面が、自分の描いた形にはまる瞬間。
(やめてよ……そんな感覚、いらないのに)
目の奥が熱くなった。
泣きそうになるのをこらえて、リュミエは深呼吸をする。
「……わたし」
声は震えていたけど、それでも絞り出す。
「たまたま、頭に浮かんだだけで。次も同じようにできるかなんて、わかんないし」
「それでいい」
セイルが穏やかに言う。
「今は、“できてしまった事実”だけで十分です。分析は、そのあとゆっくりすればいい」
「分析とかやめてください、怖い」
「賢者の性分なので」
「それ二回目ですよ」
皮肉を言い合いながらも、空気は少しだけ落ち着いていった。
村人たちはまだ勇者たちに感謝を伝え続けている。
子どもたちは、「かっこよかった!」と目を輝かせている。
リュミエは、その輪の少し外で、戦場の残り香を吸い込んだ。
焦げた獣の匂い。
鉄の匂い。
でも、さっき感じた“異様な鉄臭さ”は、少し薄くなっていた。
(……終わった)
ほんの“小さな襲撃”。
けれど、その中で“目を覚ました指先”は、確かに前と違う場所に立っていた。
イリスとしての自分。
リュミエとしての自分。
二つの名前が、胸の中でぶつかり合い、まだ決着はつかない。
勇者たちの目にも、“鍵”としての彼女と、“ただの村娘”としての彼女の像が重なって見え始めていた。
――これは、ほんの序章。
炎も、涙も、笑いも、まだ入り口。
前世の黒幕と今世の村娘が交差する物語は、ここでいったん息をつき、
そして、次の“扉”へと手を伸ばし始める。
カチリ、と。
見えない何かが、またひとつ噛み合う音が、誰にも聞こえないところで鳴っていた。
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