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第1話 測れない波長を視る少女
しおりを挟む王立工房の朝は、いつだってうるさい。
石畳の廊下を伝ってくる金属音。魔導炉の低い唸り。水晶計測器の起動音が、チリチリと空気を震わせる。
その全部が、リーナ・フィオレには少しだけ他人事に聞こえていた。
「おーい、フィオレ。また一人で壁見てボーっとしてんのか?」
背後から、からかうような声が飛んでくる。
振り向けば、癖のない栗色の髪に端正な顔立ち、きちんと糊の効いた制服――カイル・エンバートが、いつもの涼しい笑みを浮かべて立っていた。
「ボーっとしてない。測ってたの。壁、じゃなくて」
「はいはい、“目に見えない波長”ってやつだろ?」
カイルは軽く肩をすくめてみせる。その仕草が、昔は冗談で済んでいたものなのに、今は小さな棘みたいに胸に刺さる。
「……笑うなら、用事ないでしょ?」
「笑ってないって。ほら、今日の地下調査、集合時間ずれるかもしれないって連絡来てたから」
「地下調査……」
その言葉に、リーナの背筋が少しだけ伸びる。
王城地下の魔導排水管の調査。
魔力の流れが詰まったり、淀んだりしていないかを測量する、工房にとっては重要な仕事だ。
本来なら、見習いの自分が呼ばれるのは栄誉のはず――なのに、胸の奥には不安の方が濃くて、喉がきゅっと狭くなる。
「……どうせ、私が呼ばれたのは、“変な波長がないか確認しろ”って名目だよ」
自嘲を込めて呟くと、カイルは一瞬だけ、気まずそうに視線を逸らした。
「リーナ、その……今日、あんまり変なこと言うなよ。派閥、今かなりピリピリしてるからさ」
「変なこと、ね」
胸の奥で、ちいさく何かが軋んだ。
変だと決めつけたのは誰だ。
測れないからって、存在しないと決めたのは誰だ。
――でも、口には出せない。
ここは王立工房。
ここで「変」だと認定されることは、そのまま「不要」だと宣告されることに近い。
「……気を付けるよ。ありがと、カイル」
そう答えると、彼は安堵したように笑った。その笑顔が、ひどく遠く見える。
◇
集合場所は、工房の南側にある魔導昇降機前だった。
すでに数人の測量師と、護衛の兵士が集まっている。
その中心で腕を組み、苛立たしげに足先を鳴らしているのが、工房長代理――グラツィオ・ベックだ。
短く刈り込まれた黒髪に、油じみた白衣。
鋭い鷲鼻の下には、常に誰かを見下しているような薄い唇。
リーナを見る目には、いつものように露骨な嫌悪が浮かんでいた。
「おせぇぞ、フィオレ。測定器より感覚の方が優れてるって自慢するなら、時間ぐらい秒単位で合わせてみろ」
「……申し訳ありません。時計が少し進んでいて」
「言い訳は聞いてない」
ピシャリと切り捨てられる。
そのやり取りを、周りの測量師たちは面白がるように眺めていた。
「またベックに目ぇつけられてるな、あいつ」
「そりゃそうだろ、“計器に出ないものが見えるんです”とか言い出す見習いだぞ?」
「この前も、“工房の廊下が泣いてる”とか訳の分からないこと言ってたしな」
ヒソヒソ声が耳に刺さる。
リーナは聞こえないふりをして、胸元のバッジをぎゅっと握りしめた。
――王立工房見習いの証。
初めて貰った日、うれしくて眠れなかった。
今は、ただ重い。
「全員揃ったな」
グラツィオが手を叩くと、昇降機の魔導陣が淡く光を帯びた。
床がふわりと震え、ゆっくりと沈んでいく。
石壁が上下を入れ替え、地上の明るさが遠ざかる。
代わりに、湿った冷気と、古い土と鉄の匂いがまとわりついてきた。
リーナは、自然と息を詰める。
――下から、何かが、上がってくる。
魔力の流れ。
工房で扱う整えられた魔力とは違う、もっとざらついた、野生のような気配。
そして、その奥――
トクン。
心臓の鼓動に似た、でも自分のものとは明らかに違うリズムが、足元のはるか下から響いてきた。
(……あった。やっぱり、ここにも)
喉の奥を掠める、不安と同時の、どうしようもない高揚。
見たくない。でも、見たい。
知りたくない。でも、知ってしまいたい。
気づけば、昇降機の床を握る手に力が入っていた。
「顔色悪いぞ、フィオレ。酔ったのか?」
隣のカイルが小声で問いかけてくる。
リーナは首を振った。
「違う。ただ……少し、うるさい」
「うるさい?」
「うん。下から、たくさん、声がする感じ」
カイルは苦笑して、肩をすくめた。
「そういうの、グラツィオさんの前で言うなよ。マジで」
「わかってる」
分かっているのに、黙っているのが苦しい。
自分の中にある“何か”を、なかったことにしろと言われ続ける感覚は、少しずつ肺の空気を奪っていく。
◇
魔導排水管のメイン通路は、想像以上に広かった。
石造りの半円形の天井。
壁面には青白い魔導灯が一定間隔で埋め込まれ、中央には人が二人並んで歩けるほどの排水路。
その両脇に、測量用の足場と補助通路が延びている。
空気は重く、湿って、冷たい。
水の流れる音に混じって、鈍い鼓動のような波が、絶えず足元から押し寄せてくる。
(……ここ、前より悪化してる)
以前にも一度、この排水路の簡易調査に来たことがある。
そのときも、胸の奥がひどくざわついた。
でも、今はそれどころじゃない。波が太く、深く、はっきりしている。
(まるで、目を覚ましかけてるみたい)
リーナは思わず、通路の石壁に指先を触れた。
ひやりとした感触と一緒に、薄く震える波長が皮膚を伝ってくる。
『――まだ、ここにいる』
そんな言葉が、聞こえたような気がした。
「フィオレ、勝手に動くな」
グラツィオの叱責が飛ぶ。
リーナは慌てて手を離し、隊列に戻った。
数名の測量師が、壁に埋め込まれた魔導管に計測器を当てていく。
水晶が淡く光り、符号の浮かぶ板に数値が流れた。
「魔力流量、規定値内です」
「異常なし――っと」
「こっちもですね」
それぞれが淡々と結果を読み上げる。
数字は、整っている。
工房が決めた「正常値」の範囲内に、きちんと収まっている。
けれど、リーナには、その数字と、肌で感じる現実がちぐはぐに見えた。
(違う。こんな、静かなはずない)
足元から届く鼓動は、さっきよりも早くなっている気がする。
まるで、誰かが必死に「ここにいる」と叫んでいるみたいに。
喉が渇いて、舌が上顎に張り付いた。
ここで言えば、きっとまた笑われる。
「計器に出ないものは、存在しない」。
それが、この工房の絶対のルールだ。
――でも。
あのときだって。
工房の廊下の魔力配管が軋んで、悲鳴みたいな音がしていたのを聞いたとき。
私は黙っていられなくて、報告して、結局「異常なし」の一言で片付けられた。
そして数日後、魔導灯の爆発事故で、下級職員が何人も怪我をした。
(……嫌だ。あんなの、もうやだ)
胸の奥で、何かが決壊する音がした。
「工房長代理」
リーナは一歩、前に出た。
白衣の背中が苛立たしげに振り返る。
「なんだ」
「ここ、魔力の“違う流れ”があります。計器には出てないかもしれないけど、排水管の奥に……何か、大きな、脈打つものが」
言葉を選ぶ暇はなかった。
頭に浮かんだままを、息を吐くように吐き出した。
隊員たちの視線が、一斉に集まる。
空気がわずかに冷えた。
「……またか、フィオレ」
グラツィオの声は、氷みたいに薄かった。
「“違う流れが見える”“声が聞こえる”。お前の感覚は、いつもそうだ。で? その結果が、これまで一度でも計測器で裏付けられたことがあったか?」
「この前の廊下の配管は――」
「あれは老朽化による事故だ。計測器は異常を示さなかったし、お前の妄想と結びつける意味はない」
妄想。
その言葉が、胸の中心に突き刺さる。
「……妄想じゃ、ありません」
絞り出すように言うと、周囲から小さな溜息と笑いが漏れた。
「出たよ、“妄想じゃありません”」
「計器に出ない異常があったら、こっちが困るっての」
「派閥争いで忙しいときに限って、こういうのが騒ぎ起こすんだよなぁ」
カイルは黙っている。
いつもみたいに「リーナの感じるものも、一応記録しておいたら?」って言ってくれない。
口を開きかけて、ぐっと飲み込むように横顔の筋肉が動いたのが、かえってはっきり見えた。
(……ああ、そうだよね)
今、彼が私の味方をすれば、彼まで「変なやつ」の側に立たされる。
彼は優秀な測量師で、上の派閥からも期待されていて、将来が約束されている。
その未来を、私の「視えるかもしれない何か」のために賭けろ、なんて言えるはずがない。
「フィオレ」
グラツィオが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
革靴が石を踏むたび、重い音が響く。
「いいか。工房の仕事は“再現できる数字”だ。目に見えないものを見た気になることじゃない。 お前の感覚が本物だとしても、それを示せないなら、ここでは“ないのと同じ”なんだよ」
言葉は理屈としては正しい。
でも、それはあまりにも、冷たい。
「じゃあ、ここで、何かが目を覚ましても。 計器が反応しなかったら、“何もなかった”ってことにするんですか?」
気づけば、声が震えていた。
喉の奥が熱くて、涙が滲む。
必死に瞬きをしても、視界の端が滲んでいく。
グラツィオの目が、あからさまに苛立ちで細くなった。
「感情論は要らん。……ったく、だからお前みたいなのを現場に出したくなかったんだ」
そう吐き捨てると、彼は隊員たちの方へ振り返った。
「記録に“異常なし”と記載しろ。フィオレの感覚については――“従来通り、計測器の裏付けなし”と付記しておけ」
「了解しました」
紙と羽ペンの音が、容赦なく未来を決めていく。
リーナは、自分の胸の中で鳴り続ける鼓動と、紙の上に「異常なし」と記されていく現実のギャップに、軽く酔いそうになった。
(違う。ここには、本当に――)
トクン、とまた一つ、大きな波が押し寄せる。
足元の石が、ほんの少しだけ震えた気がした。
「……今の、感じましたか?」
思わず口をついて出た言葉に、グラツィオは振り返りもしなかった。
「感じてない。全員の計器も無反応だ。以上だ」
冷たい一言が、会話の幕を引く。
誰もそれ以上、リーナの方を見ようとしない。
まるで彼女の存在ごと、視界から削り取ってしまうかのように。
◇
調査は、予定よりもずっと早く切り上げられた。
地上への昇降機の中、誰も口を開かない。
魔導炉の唸りと、鎖の軋む音だけが響く。
リーナは、ずっと俯いていた。
自分の靴先ばかりを眺めて、さっきから胸にたまっているものを、どうやって呑み込めばいいのか分からない。
「……リーナ」
小さな声が落ちてきた。
顔を上げると、カイルが困ったような笑みを浮かべていた。
「さっきの、あんまり気にすんなよ。ベックさんも、今、上との板挟みで余裕ないしさ」
「うん」
「お前の“感覚”だって、俺は……完全に嘘だとは思ってないし。ただ、今はほら、計器が――」
「ねぇ、カイル」
リーナは、彼の言葉をそっと遮った。
「もし、逆だったらどうしてた?」
「逆?」
「もし、世界の方が“私が感じるもの”を前提に動いてて、今の計器が“よく分かんないけど反応してる”って立場だったら。 それでも、計器の方だけ信じる?」
カイルは言葉に詰まった。
沈黙が、昇降機の狭い空間を満たす。
やがて、ぎこちない笑みが浮かんだ。
「……そんな世界、想像つかないよ」
「だよね」
リーナは、笑った。
自分でも驚くほど、あっさりと。
ああ、そうか。
想像もできない世界のことなんて、彼にとっては“ないのと同じ”なんだ。
昇降機が地上階に到着する。
扉が開き、光が差し込む。
「リーナ、あとでさ――」
「私、工房長に呼ばれてるから」
カイルの言葉を遮って、リーナは一足先に昇降機を降りた。
背中に追いすがるような視線を感じたけれど、振り返らなかった。
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