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第2話 追放通告と、落ちていく場所
しおりを挟むその部屋の空気は、最初から冷たく決まっていた。
王立工房の会議室。
長机が一本、真っすぐに伸びていて、その向こう側に上級職員たちがずらりと並んで座っている。
壁には工房の紋章が掛けられていて、窓から差し込む光は薄く白い。
そして、入口付近に一人だけ立たされているのが、リーナ・フィオレ。
リーナの足元だけ、床の石がやけに固く、冷たく感じた。
靴底越しに、ひんやりとした現実がじわじわと上がってくる。
「では、地下排水管調査の報告に移ろう」
工房長の低い声が響いた。
白髭を整えた初老の男。
目は笑っていなくて、常に数字と報告書の向こう側だけを見ているような、そんな無機質さがあった。
その横に、グラツィオ・ベックが座っている。
彼の前には、すでに何枚かの報告書が積まれていて、その一番上の紙に、乱暴な文字で何かが書き込まれているのがちらりと見えた。
リーナは、喉が渇いて唾を飲み込む。
その音すらうるさく響きそうで、息の仕方を忘れそうになる。
「まず、通常の計測結果だ」
別の測量師が立ち上がり、手慣れた口調で報告を始める。
魔力流量、圧力、排出量のデータ。
数値はすべて規定値の範囲内。
異常なし。
カチ、カチ、と壁の時計の音がやけに大きく聞こえる。
「異常値は検出されず、排水管の状態は良好と思われます」
「ふむ」
工房長が短く頷く。
そこで一区切り。
ここまでは、ただの退屈な報告会だ。いつも通りの、数字だけで完結する世界。
問題は、このあと。
「……以上が、通常の計測結果です」
「ああ、ご苦労。――だが」
工房長の視線がゆっくりと横へと移動し、グラツィオを見た。
「ベック。君の提出した“補足報告”について、説明してもらえるかね」
「はい」
立ち上がったグラツィオは、わざとらしく資料を整え、ゆっくりと机に置き直した。
その仕草一つ一つが、舞台の上の役者みたいに見えて、リーナは肩の筋肉が固くなる。
「本件調査中、見習いの一人が“虚偽申告”と取れる発言を繰り返しました。工房の信用に関わる問題と判断し、今回、正式に報告しております」
虚偽、という言葉が、会議室の空気にすとんと落ちた。
視線が何本も、リーナの身体を刺すように向かってくる。
熱じゃなくて、氷の棘みたいな視線。
その一本一本が、「ああ、やっぱりあいつか」と言っている。
「虚偽申告とは、具体的には?」
工房長が眉をわずかに動かす。
「排水管奥部に、“計器で検出不能な異常な波長がある”との主張です。 当該箇所にて再三確認しましたが、計測器は反応せず、魔力流量・圧力ともに正常値でした」
「……」
工房長の目が、ゆっくりとリーナへ向く。
「フィオレ」
「は、はい」
声が裏返る。
喉の奥がきゅっと締め付けられた。
「君は、地下でそのような発言をしたのか?」
「……しました」
嘘はつけない。
口にすると、改めて自分の立場が滑り落ちていく音が聞こえそうで、それでも。
「でも、虚偽のつもりじゃなくて……本当に、感じたんです。排水管の奥で、脈打つような、いつもの魔力とは違う流れが――」
「“感じた”か」
工房長は、その一言だけを、淡々と繰り返した。
「君の、その“特異な感覚”については、以前から報告を受けている。“計器に出ないものが見える”、“声が聞こえる”……そうだったな」
会議室の空気が、微かにざわつく。
上級職員たちの顔に、一瞬だけ「またか」という表情が浮かぶのが見えた。
リーナは拳を握る。
指先の感覚がなくなるほど力を込めても、心臓のドクドクいう音は止まってくれない。
「……はい。でも、それは、勝手に言い出してるわけじゃなくて。 配管が軋む音とか、魔導灯が焦げる匂いとかと一緒に、その“違う流れ”が来るんです」
必死に、言葉を紡ぐ。
自分でも、うまく説明できている自信はない。
でも、黙っていると、全部嘘だったみたいになるのが怖かった。
「今回だって、いつもよりずっと強くて……。 あのまま放っておいたら、何かが起きるような、そんな感じが――」
「だが、何も起きてはいない」
グラツィオの声が、すかさずかぶさった。
「調査後、排水管の異常は報告されていない。魔導灯も爆発していない。事故もない。 つまり、彼女の“異常感知”とやらは、結果として現実と結びついていないということです」
「それは……まだ、これから――」
「“これから”を根拠に工房を動かせと?」
冷笑が、会議室に広がった。
「工房は、予知夢の集まりではない。数字と現象を扱う場所だ」
誰かが小さく笑う声がした。
皮肉を含んだ息の音。
それが一つ二つ増殖していき、やがて静かな薄笑いに変わる。
「フィオレ」
工房長の呼ぶ声は静かなのに、部屋のどこよりも重かった。
「君の体質が本物かどうか、私には判断できない。だが、ここは王立工房だ。 “計器が反応しないものは存在しない”――それが、この場所の原則だ」
それは、分かっていた。
耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だ。
それでも、その言葉が今ほど、胸を刺したことはなかった。
「“感じる”だけでは足りん。 フィオレ。君は、それを数字で示すことができるのか?」
リーナは、唇を噛んだ。
血の味が、じわりと広がる。
「……今の計器では、できません」
「ならば、“存在しない”のと同じだ」
工房長の言葉は、淡々としていた。
感情が混じっていない分だけ、残酷だった。
リーナの中で、何かがきしむ。
自分の胸に響いている鼓動は、ずっと前からそこにあった。
誰にも見えない、誰にも聞こえない波長。
それを否定されるたびに、自分の存在の輪郭まで一緒に削られていくみたいで、怖かった。
「本来なら、今回の件は口頭注意で済ませるつもりだった」
工房長の視線が、資料の山へと移る。
「だが――」
その言葉に、空気がまた一段冷たくなる。
「現在、工房は北部派との予算争いで敏感になっている。 地下排水管に異常があるという噂が外へ漏れれば、それだけで王城工学の信用が揺らぎかねない」
グラツィオが、ここぞとばかりに口を挟む。
「事実、フィオレは以前にも“廊下の配管が泣いている”などと意味不明な表現を用い、下級職員に無用な不安を与えました。 その後の事故との因果関係を持ち出して、自分の能力を正当化する試みも見せています」
「事故は、本当に……!」
リーナの声が反射的に出た。
「事故の前から、違和感があったんです。あれを止められたかもしれないって、今でも……!」
「結果として、止められていない」
グラツィオの視線は、冷たく細い。
「お前の主張はいつもそうだ。“感じていた”“視えていた”“聞こえていた”。 だが、それは全部、“あとから言う”だけだ。誰も、証明できない」
「……っ」
言葉が詰まる。
否定したいのに、否定できない。
自分の“後出し”みたいなみっともなさを、分かっているから余計に苦しかった。
彼は他の若手測量師たちと一緒に立っていて、拳を握りしめている。
唇が何度も動いて、「やめろ」とか「言い過ぎだ」とか言おうとしているのに、声になっていないのがはっきり分かった。
「スケープゴートが必要なのだよ」
工房長のその一言で、すべてが決定事項になってしまった。
その言葉はあまりにも正直で、あまりにも冷酷だった。
「外部との関係を保つためには、“原因”と“対処”を提示しなければならない。 今回の件については、“虚偽の異常申告を行った見習いを処分した”という形が、最も分かりやすい」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
リーナの声が、反射的に高くなった。
「私、虚偽のつもりじゃなくて、本当に――!」
「虚偽とは、“事実と異なる申告”という意味だ」
工房長は淡々と言う。
「君の主観がどうであれ、客観的な計測結果と一致しない以上、君の申告は“虚偽”であり、“誤情報”だ」
誰かが、机の上のペンを指で弾いた。
カチン、と乾いた音が鳴る。
それが、判決の鐘に聞こえた。
「本日をもって、お前を魔導測量師見習いから解任する」
世界が、すっと色を失う。
「以後は城内掃除係として働け。配属先は――城のゴミ集積所だ。 魔導測量の現場には、二度と関わるな」
“二度と”という言葉が、やけに鮮明に聞こえた。
工房の白い灯りの下で、机の木目がぼやける。
喉の奥が熱いのに、声が出ない。
胸の中心を、何か冷たい手が内側から掴んでいるみたいだった。
「……それは、降格、という……」
「降格と呼ぶには、生ぬるいかもしれないな」
グラツィオが肩をすくめる。
「だが、城内に居場所を残してやるだけ、まだ温情だろう。 虚偽申告は場合によっては謀反予備として処罰対象だ」
「謀反、なんて……!」
「“城の基盤を揺るがすデマを流す”という意味で言っている」
グラツィオの目は笑っていなかった。
ただ、自分が優位な場所にいる人間特有の、冷えた余裕だけがそこにあった。
リーナは、自分の指先が震えているのに気づいた。
(これが、決まりなんだ)
いつか来るかもしれないと、薄々思っていた日。
でも、本当に来てしまうとは思っていなかった日。
「……了解、しました」
掠れた声でそう答えるしかなかった。
反論すればするほど、自分の居場所をさらに狭めていく気がした。
この部屋の全員が、“ほら見ろ、やっぱり厄介者だ”と決めつける視線を、もうこれ以上浴びていたくなかった。
工房長が手を振る。
「制服とバッジを返却しなさい。替わりに、掃除係の制服を支給する」
側に立っていた事務官が、銀色の盆を差し出した。
その上には、淡い灰色のエプロンが丁寧に畳まれている。
リーナは、胸元のバッジに手を伸ばした。
魔導測量師見習いの証。
初めて胸に付けたときの誇らしさと、家族に見せた時の母の涙ぐんだ顔が、一瞬で蘇る。
指先が、バッジの縁をなぞった。
(さよなら)
心の中でだけ呟いて、それをそっと外す。
外した瞬間、胸元が風にさらされたみたいに、スカスカになった。
バッジを盆に置くと、代わりにエプロンを受け取る。
布地は本当に驚くほど薄くて、頼りなくて、触っただけで端からほつれてしまいそうだった。
それを抱きしめる腕が、少し震える。
――ここがあなたの居場所です。
そう突きつけられたみたいで、息がうまく吸えない。
「退室してよろしい」
工房長の声はそれだけだった。
誰も「ご苦労だった」とも、「残念だ」とも言わない。
扉までの数歩が、やけに長く感じる。
一歩進むたびに、床の石が別の世界へ通じる階段みたいに見えた。
扉を開けると、廊下の空気がふっと流れ込んでくる。
そこには、カイルがいた。
壁にもたれかかるように立っていて、扉が開く音にびくりと肩を揺らす。
すぐに顔を上げて、リーナを見た。
「リーナ……!」
彼の視線が、リーナの胸元から腕へと移る。
そこにあるのは、工房のバッジではなく、灰色のエプロン。
その瞬間、カイルの顔色が目に見えて変わった。
「それ……マジで、解任って……」
「うん。今日から、掃除係だって」
リーナは、できるだけ平気なふりをして笑ってみせた。
頬が引きつる。
自分の笑い声が、自分の耳にだけひどく空々しく響く。
「ちょっと待てよ、それはおかしいだろ。虚偽って……お前、本当に感じてたんだろ? 今からでも説明し直せば――」
「カイル」
名前で呼ぶと、彼は口をつぐんだ。
廊下には人の気配がある。
遠くで誰かが書類を運んでいて、誰かが雑談をしている。
その全部が、妙に遠く感じる。
「私、もう決まったことをひっくり返せるほど、偉くないよ」
「でも、俺は――」
「庇わなくていいから」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
怒鳴りたいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ、これ以上、彼の口から“何もできない”って言葉を聞きたくなかった。
「さっきだって、本当は何か言いたかったんでしょ。 でも、言わなかったよね」
カイルの喉が動く。
何度も何度も、何かを飲み込むみたいに。
「……ごめん」
しぼり出すような謝罪だった。
その一言に、いろんな意味が詰まっているのが分かる。
庇えなかったこと。
自分の立場を優先したこと。
彼女の“視えるもの”を信じきれなかったこと。
全部、分かる。
だからこそ、余計に刺さる。
「謝るくらいなら」
言葉が、喉の手前で一瞬引っかかる。
それでも、押し出した。
「私じゃなくて、地下の排水管に謝ってあげてよ」
「……え?」
「“異常なし”って書類にサインした人たちに。 もし、本当にあそこに何かがいて、誰かが怪我したりしたら、私より先に、その人たちが責任取るべきなんだから」
自分の言葉に、少しだけ苦い笑いが混ざる。
言ってしまったあとで、「ああ、また嫌なこと言ったな」と思う。
でももう遅い。
カイルは、何も返せなかった。
唇が震え、視線が揺れ、拳が強く握られる。
それだけで、彼の中にある後悔や罪悪感は十分伝わってきた。
それでも、もう、どうにもならない。
「じゃあね、カイル」
リーナはそれだけ言って、彼の横をすり抜けるように歩き出した。
少しだけ肩が触れた。
彼の温度が、一瞬だけ伝わってきて、すぐに離れていった。
背中に、声は飛んでこなかった。
廊下の端まで歩いて、曲がり角で一度だけ振り返る。
そこには、まだカイルが立っていて、拳を握ったまま動けずにいた。
その姿を見てしまうと、胸の奥の何かがぐしゃぐしゃに崩れそうで、リーナは慌てて前を向いた。
エプロンの布地が、腕の中でしわくちゃになる。
(……落ちていくんだ、私)
工房から、地下へ。
見習いから、掃除婦へ。
測量師の制服から、薄い灰色のエプロンへ。
階段を降りるみたいに、少しずつじゃなくて、一気に突き落とされた気分だった。
それでも。
心の一番奥、誰にも触れられない場所で、あのときの“鼓動”がまだ鳴っている。
――トクン。
――ここにいる。
排水管の奥で感じた、あの不気味な、でもどこか哀しい波長。
誰にも信じられなかった“声”。
(……もしかして)
ゴミ集積所には、もっとたくさんあるのかもしれない。
誰にも見えない。
誰にも気づかれない。
“要らないもの”ってラベルを貼られて、まとめて捨てられた何かが。
工房から切り離される痛みと一緒に、そんな直感だけが、胸の底でかすかに光っていた。
薄っぺらいエプロンを抱きしめながら、リーナはまだ見ぬ“落ちていく先”を想像する。
そこが、真っ暗な底なのか。
それとも――捨てられた光が、静かに息をしている場所なのか。
答えは、まだ分からない。
でも、彼女はもう、そちら側へ歩き出すしかなかった。
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