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第14話「紋章の発光」
しおりを挟む王城の地下は、永遠に朝が来ない図書館みたいだった。
階段を降りるごとに温度はひとつずつ下がり、灯(あか)りは油の匂いとともに細くなっていく。苔の湿りと革装丁の甘さが混ざった空気。壁に触れれば、指先はすぐ古びた粉で白くなる。
「ここから先は、記録官でも許可が要るはずですが」
ノアが低く言う。私は肩越しに笑って、青鷺紙舗の耳印が押された招状を掲げた。
「“見える化委員会”の副読庫。私たちのためにできた、臨時の扉よ。殿下が“検討”を“設置”に変えざるを得なくなったおかげ」
「皮肉が効いています」
「効かせたの」
鉄の扉は、三重の鍵と浮き彫りの符(ふ)で閉じられていた。鍵番の老人が私たちの招状を丹念に透かし、光にかざし、それからでなければ鎖を外さない。鎖の音は驚くほど軽かった。古いものほど、丁寧に扱われると軽く鳴る。
中は、書物の谷だった。
床から天井まで、毛布みたいに詩句が積もっている。
ラテンに似た古語、王国古来の象形、数字を挟み込んだ魔道士の計算書。紙の縁は波打ち、文字は呼吸をしているみたいに滲んでいる。
「目的の棚は?」
「“詩片(しへん)の部屋”。――運命や誓いに関係する書き物は、だいたいこの辺に集められるらしい」
私たちは油ランプを一つ借り、風のない通路を進んだ。足音が本の眠りを起こさないように、靴底は石から半歩浮かせる。ベラには上で待機してもらった。地下の湿りは喉に悪い。彼女の声は、朝の市場に似合う。
棚の奥――ひっそりと「詩片」と書かれた札が見えた。
そこだけ、空気が澄んでいる。
開いた窓がないのに、風が入れ替わったみたいに。
「……変な感じ」
「湿り気が少ない。魔法的な乾燥か、祈りの余熱か」
ノアが掌で空を掬い、微かに眉を寄せた。彼の指の節は、刃物の柄と紙の端を同じ比重で扱う癖をしている。私は棚から一冊、薄い冊子を抜き取った。表紙は布、背は糸。題名は滲んで読めず、ただ真ん中に小さな輪が押してある。
――輪。
見た瞬間、喉がひゅっと細くなった。
輪が私を見返してくる。
見られている、というより“量られている”。体重計みたいに、意志を乗せろと言われている。
ぱらり、と開いた頁に、詩が散っていた。
単語が粒のように置かれ、行が結ばれず、意味の手前で息を止めている詩。
読もうとしたときだった。
視界の奥――瞳のさらに向こう側が、熱を持った。
小さく、刺青が疼くように。
私は無意識に瞬きをした。ランプの灯が揺れて、頁の文字がふわりと溶けた。溶けて、並び替わる。粒だった言葉が、ひとつの線に連結していく。
「レティシア様?」
ノアの声が遠い。私は息を吸い、頁に寄った。
詩句は、私の瞳の中の何かと呼応している。
私の視界の端、黒の中で、金色の薄い輪がきらりと反射した――鏡がないのに、わかる。
瞳の奥に、輪。紋章。薄く、けれど確かに、発光している。
「見える?」
「……ええ。あなたの目に、輪が映っている。“紋”です」
ノアの声がめずらしく速かった。
私の胸は、怖がっていないわけじゃなかった。むしろ怖い。けれど、怖さは背中を押す手にもなる。
「続ける」
「無理は」
「してる。けど、これは、私の番」
言いながら、笑いが喉の奥で弾けた。震えが混ざる。
前世から続く“他人の原稿”に赤を入れてきた指が、今、自分の物語に初稿を置き始める感覚。
詩は語り始めた。
――運命改変。
――術式は詩の形で世界に縫い込まれている。
――条件は「他者の選択に責任を引き受けること」。
――破滅を押し付けず、その選択の帰結に自ら立ち会うこと。
――誓約は紋を通じて記録され、履行されない場合、同等の代償が術者に降りる。
ランプの炎が、詩句の縁で小さく揺れた。
条件は、ほとんど呪いのようだ。
けれど、私は笑っていた。笑いながら、少し泣きたくなるほど安堵していた。
「やっと……私の番」
声に出したら、胸が軽くなった。
“ざまあ”も“見える化”も、結局どこかで舞台の脚立を運ぶ仕事だった。舞台は好き。けれど私は、客席でも黒衣でもなく、幕を引く側でもなく――今、幕の上に足を乗せる番をもらった。
ノアが静かに手を差し出す。
支えるのではなく、「並ぶ」ための手。
私は指を伸ばし、その手に触れ――そして、息を呑んだ。
ノアの手の甲で、薄い紋が光った。
私の目の奥にあるのと同じ輪。
ただし彼のは、線がより細く、色は灰に近い銀。
静かな湖面に落ちた月の反射みたいな、抑えた光。
「あなた……」
「知らなかった」
彼の言い方は、いつも通りの温度だった。けれど、わずかに指が震えていた。
ノアが驚いている。
世界が一度、音を止めた。
「いつから?」
「今」
「私の、せい?」
「“輪”は選ばない。――たぶん、選ぶのは、選び続けた人間側」
私は頷いた。
思い返せば、私たちはもう何度も“選び”をやっていた。
王太子の演説を割り込む選び。
封を切らずに見せる選び。
エミリアの涙に塩を混ぜる選び。
アランの迷いに刃を止める選び。
誰かの選択を否定せず、帰結を一緒に背負わせるように、輪を回してきた。
「この術式、使う?」
ノアの灰が問いを投げる。
私は頁に指を置きながら、応えた。
「“見せかけ”の救いには使わない。――他人の選択を“自分のため”に歪めない。
ただ、崩落の縁に立つ人が一歩を踏み外す瞬間、その足元に踏み石を置けるなら。
置いた石で私が足をくじくなら、それは受ける」
「代償が降りる」
「降りなきゃ嘘」
ノアは短く、笑った。その笑いは、しずく一粒の湯気みたいに消えた。
「術式の形、覚えます」
「お願い」
詩句は、線図に変わっていく。
輪が三つ。中心に“誓い”、左に“選択”、右に“帰結”。
輪と輪を、短い詩のフレーズで繋ぐ。
“見える化の曼荼羅”みたいだ。
私には言葉が、ノアには距離と角度が、得意な道具として見える。
「一度使えば、もう戻れない種の魔法です」
「戻らないために、ここまで来た」
「あなたの“悪役性”は、これで衣装ではなく肌になります」
「肌なら、あたためられる」
私が返すと、ノアは小さく首を振って笑い、それから真顔に戻った。
「誰に、最初に使う」
その問いは、詩よりも私の内側を並び替えた。
誰に。
王太子は“制度”に、アランは“自覚”に、エミリアは“役割”に、ルシアンは“実験”に、それぞれ絡め取られている。
運命改変は、選択の軌道をわずかに曲げるだけ。押し流す魔法じゃない。
曲げた分だけ、私の骨が折れる。
それでも。
「――エミリア」
言ってから、胸がひりりとした。
泣く練習は上手で、数える練習が足りない聖女。
“被害者役”の面が軋み始めた彼女。
彼女自身が選ぶ瞬間に、私は横に立つ。
倒れたら、一緒に地面へ落ちる準備をして立つ。
「同意が要る」
「ええ。術式は“強制の言葉”を拒む。――これは教育の延長線」
「あなたの言う“教育”は、いつの間にか“誓約”に変わっていた」
「知らないふりは、もうできない」
頁の端が、私の親指に小さな切り傷を作った。
血が滲む。
ランプの灯で赤が黒く見える。
私は親指を唇に当て、鉄の味を飲み込んだ。
この味は嫌いじゃない。
封を切るときの味。
物語が次の段に進むときの味。
詩の最後に、小さな注記があった。
――輪の術者は、孤立を嫌う。二人以上で誓えば、代償は分割され、効果は安定する。
――ただし、二人のうち片方が裏切った場合、代償は裏切られない側へ集約する。
私はノアの手の甲を見た。彼の輪は、私の輪より静かな分、光が深かった。
湖の底にある月。
触れれば、波紋が広がる。
「一緒に、立ってくれる?」
「職務です」
いつもの答え。けれど今夜、その言葉は“誓い”の別名に聞こえた。
私は笑って、輪に指を重ねた。
術式の“入り口”が開く。
頁の輪が、私たちの輪に一致する。
詩のフレーズが、口の裏で転がる。
古語が、舌に馴染む。
世界のホチキスを、一回だけ“外す”ための言葉。
「レティシア様」
「なに」
「――あなたは悪役ではない」
また、それだ。
私はやっぱり否定しない。
否定したら、輪が一瞬だけ揺らぐ気がした。
“悪役”という名札は、私の手の中で意味を変えている。
誰かに押されたレッテルじゃなく、私が選ぶ“役割”の札。
札は、めくれる。
めくる責任も、引き受けられる。
「上に戻ろう」
「はい」
本を閉じると、発光は静かに沈んだ。
けれど消えたのではない。
まぶたの裏に、輪が残っている。
見開きのままの詩が、心の棚に立った。
階段を上がる途中、遠くから鐘が二つ、落ちた。
地上の空気は冷たいのに、胸の真ん中は温い。
輪が温度を持っているのだろう。
“誰かの選択に責任を引き受ける”なんて、危険な条件のくせに、やさしい。
扉の外、ベラが待っていた。
頬を赤くして、私の顔とノアの手を見比べる。
彼女は何も訊かなかった。
訊かないで、私の手をぎゅっと握った。
その握り方に、決意が混ざっている。
輪は、言葉のいらない仲間にも届く。
「帰ろう。――夜明けまでに、紙芝居の“誓い”の台本を直したい」
「題は?」
「『選ぶって、どうするの?』」
ベラが笑い、ノアが灰の目で頷く。
私たちは石段を上がり、朝のない地下から、朝のある地上へ出た。
風が頬に強く当たり、空が大きい。
王都は相変わらず騒がしく、重く、眩しい。
でも、私の見る世界は、ほんの少し輪郭が変わった。
輪がある。
私と、ノアの間に。
私と、街の間に。
私と、これから選ぶ誰かの間に。
今度は、押し付けない。
押し出さない。
並ぶ。
立ち会う。
転べば、一緒に膝をつく。
起き上がるまで、手を放さない。
――やっと、私の番だ。
長い編集後記は終わり。
本文を、書き始める。
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