マインハールⅡ

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Kapitel 03

心臓の誓約

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 パチッ、パチパチ……。――焚き火に焼べられた小枝たちが弾けた。
 天尊ティエンゾンとアキラ、ソルウィは同じ焚き火を囲んだ。
 天尊はアキラを自分の前に座らせ、ふたりでひとつの毛布のような分厚い布にくるまった。毛布のなかでアキラを腕のなかに囲っていた。ソルウィの言うとおりに、泉から上がったアキラの身体は濡れてはいなかったが、体温が低かった。何日も眠り続けたから代謝が落ちたのかもしれない。
 ソルウィは天尊とアキラにホーローのようなコップを手渡した。アキラには紅茶を、天尊にはそれにアルコールを加えたものだった。
 コップを受け取ったアキラが「ありがとうございます」と言うと、ソルウィがニコッと微笑んだのが黒いベールから垣間見えた。
 アキラがソルウィに対して初見で抱いた印象は、不思議な人だった。アキラからすると天尊も充分に魔法のような力を使うが、ソルウィはそれともまた異なると感じた。
 コッコッ、と天尊がアキラのコップを爪で叩いた。

「飲んだほうがいい。身体が温まるぞ」

「う、うん」とアキラはハッとしてコップに口を付けた。
 ソルウィが出してくれた紅茶は、仄かに甘い味がした。砂糖の甘味とは異なる、後に残らない味。天然の優しい甘味を感じた。
 天尊はアキラが飲み物を飲み下したのを確認し、ソルウィのほうへ目線を移した。

「世話になった。代金はいくらだ」

「金は要らんよ」

「…………」

 天尊はあからさまに怪訝な表情をして無言になった。
 ソルウィは肩を揺すってフッフッフッと笑った。

「いいね、その納得しない顔。まじないには相当の対価が必要だと理解している。私が教えたとおりに」

「まじないじゃなくても対価が生じるのは当然だ」

「そうだ、対価は必要だ。だが金は要らん」

 ソルウィはアキラに目線を向けた。

「お前がエンブラの娘に入れこむなど面白い。その理由を教えておくれ、坊や」

「ソルウィ。アキラの前で俺を坊やと呼ぶな。そんなものが対価になるのか」

 天尊は面白くなさそうに表情を険しくしてぶっきら棒に言い返した。
 ソルウィは天尊とアキラを、目を細めてじっくりと眺めた。
 慈しみ深いが故に犠牲になる運命にある者、愛する存在を手にかける宿業を背負う者、そのふたつがまるでひとつのようにくっついている様が実に興味深い。

「なるとも。私がいま最も興味深いもの、私の好奇心を満たしておくれ」




 天尊はソルウィに望むものを与えた。アキラとの出逢いからこうなった経緯、自分がどう考えて行動し、何を感じたか、赤裸々に、素直に、嘘偽りなく語った。アキラは天尊が要求されて逆らわないのが少々意外だった。しかし、それは対価だから当然だった。ソルウィが望んだものを支払わなくては不当だ。
 ソルウィのほうも天尊の話を聞いて満足そうだった。坊やと呼んで若造扱いをするくせに、その若造の情熱を茶化さなかった。
 斯くして対価の精算が完了し、ソルウィは腰を持ち上げた。

「さてと、私はそろそろ眠るとしよう。お前たちはどうするね。屋根があるところがよければ我が憩いの荒ら屋に招待するが、客人を迎える用意はしておらんよ」

 そう言ってソルウィが手の平で指し示す方角へ目を凝らすと、小さな小屋があった。木々が生い茂った森のなかにあり、灯りが点っていないから、そこに小屋があるなど言われるまで気がつかなかった。

「今夜は風がなく、さして寒くもない。火があれば凍えるということはない。お前の寝床はどこでも構わんだろう。お嬢さんも、そうやって抱かれておれば我が家のベッドより寝心地がいいかもしれないね」

 アキラの頬はカーッと赤くなった。天尊との再会が嬉しくて失念したが、人前で密着しているなど冷静になったらかなり恥ずかしい。

「今夜は星が綺麗だ。恋人たちが語らうにはいい夜だよ」

 そう言い置いて、ソルウィはアキラと天尊にくるりと背中を向け、小屋に向かって歩き出した。





「寒くはないか」

「う、うん……」

 天尊はふたりでくるまった毛布のなかでアキラを柔らかく抱き締めた。天尊のほうが体温が高く、アキラは密着した肌から温かさを感じた。

「あの……ティエンに言わなくちゃいけないこと、あるんだけど」

「何だ」と聞き返した天尊は、はたと或る可能性に思い当たって苦々しい表情を浮かべた。

「まさか他に男がいるとかじゃないだろうな」

 アキラは「違うよ」とアハハと噴き出したが、天尊は大真面目だった。その可能性をすぐに思い浮かべるほど、アキラは思いがけず愛くるしい少女に成長していた。

「ティエンにもう一度会えて本当に嬉しい。また元気な姿を見られてよかった。消息不明って聞いてたから心配だったよ」

「心配をかけてすまなかった」

 アキラは天尊に背中を預けて泉のほうへ目線を遣った。
 風もなく静かな夜。泉の水面は鏡のように澄み渡っている。夜空に出現した大きな月を映し出し、水底に生えた結晶が仄かに青緑の光を放っている。幻想的で美しい空間にふたりきり。
 ――よかった。この前ほどはひどくない。今度はちゃんとさよならできる。

「…………。これからも元気でいてね」

「それはどういう意味だ?」

「バイバイ、ティエン」

 天尊はアキラの肩を掴んで自分のほうに振り向かせた。
 アキラは伏し目がちで天尊のほうを見なかった。

「待ってくれ。本当にどういう意味だ。これからは前みたいにミズガルズでアキラと一緒に――」

「ダメ。ティエンとは暮らせない」

 天尊は思わず「何故だ」と口走り、自分でも莫迦かと思った。別れを切り出されるに、見放されるに、拒絶されるに、充分すぎる仕打ちをしたではないか。許されたと勘違いするなどおめでたい思考だ。

「俺が化け物だから、か……ッ」

「違う。ティエンのことを化け物だなんて思ってない。あれはティエンじゃないモノで、ティエンの所為じゃない。ティエンにもどうにもできないことだって、ちゃんと分かってる」

「じゃあなぜ俺と一緒にいられないなんて言う? そんなことを言わないでくれ」

「ティエンにもどうにもできないことだから……仕方がないんだよ」

「仕方がない……?」

銀太ギンタを危ない目には遭わせられない。わたしはティエンの為にどうなってもいいと思ったけど、銀太ギンタまで巻きこめない」

 アキラは顔を引き上げて天尊の目を見て言った。恋しいあなたよ帰ってきて、とあんなにも悲嘆したくせに、別れを告げるときは涙ひとつ見せない。
 天尊はアキラから強い意志を感じ取った。アキラは献身的な女だ。大切なものの為なら自分の身すら捧げる女だ。間違っても弟を犠牲にして自分の恋に燃え尽きるような女ではない。
 それが分かっているから半ば愕然とした。何を言ってもアキラを心変わりさせることができない気がした。
 ――それは残酷な台詞だ。俺はお前以上のものなど何も持っていないのに、お前には俺よりも大事だいじなものがあると言っているのと同義だ。

「ッ……俺を捨てないでくれ……!」

「捨てるんじゃないよ。わたしはティエンのこと好きだよ。たぶん、離れても、これから先もずっと」

「傍にいるなと言うなら、捨てるのと同じだ!」

「この一年、傍にいなかったけど、わたしはティエンを好きだったよ」

「俺はアキラの傍にいたい!」

 天尊にはアキラに縋りついて愛を乞うしか手立てがなかった。アキラの両肩を捕まえ、無様なくらい正直な心根をぶつけた。

「何でもする。何でも捧げる。頼むから一緒にいられないなんて言わないでくれ。俺はアキラを愛している。もうアキラ以外は愛せん。アキラも俺を好きだと言ったじゃないか」

「……好きだよ。ティエンがわたしのこと好きになってくれて嬉しかった。でも……ごめんね、ティエン」

 ――ごめんなさい。許して許して。ティエンが好き。ティエンが大切。自分よりも。これは本当。でも、銀太を犠牲にすることはできない。あの子が幸福になれない未来なんて耐えられない。
 アキラは眉間に皺を寄せて困ったような表情で唇を噛んだ。
 天尊の必死な願いを聞き入れてあげられないことがつらかった。自分の恋心を殺すのも、つらかった。初めて人を好きになった。初めて自分自身がどうなってしまってもいいって思った。たぶんもう、これ以上の恋なんてできない。この恋以外は必要ない。最初で最後の恋でいい。

 天尊はアキラの手を柔らかく捕まえた。
 アキラはその手を拒みはしなかった。自分で別れを決めておきながら、この温かくて大きい手が恋しかった。

「そんな顔をさせてすまん。すべて俺の所為だ。俺のこの忌々しい力の所為だ。大丈夫だ。アキラが怖れるようなことにはならん。させん、絶対に」

「ティエン……?」

 天尊はアキラを安心させるように微笑みかけた。アキラの手を自分の胸の上、心臓の真上に置いた。




「――――誓う。俺はアキラの為に生きる。決して、アキラの意に真に背く行いはしない。この誓約を破ったとき、絶命する」

 アキラは天尊の声が脳味噌に反響し、何かに心臓を掴まれた感じがした。

「本気……?」

「嘘を言っていると思うか」

「……本気、だと思う」

 何故かそこに疑いはなかった。天尊が何かしたのか、しなかったのかも分からない。しかし、自分でも理由が分からないが、この約束は本物であるとアキラは確信した。本物の気配がした。
 天尊はハハハと笑った。

「アキラに嘘つきと罵られなくてよかった」

「そんなことより、絶命するって――」

「大したことじゃない。命の使い方はとうに決めていた。俺にとっては何も変わらない。アキラに別れを切り出されるなら死んだも同然だ。それに、アキラも俺の為に命を懸けてくれた」

 天尊は悔いのない表情をしていた。むしろ、何かが吹っ切れたような晴れやかな表情だった。約束を撤回させることはできないのだろうな、とアキラは感じた。
 そうだ、天尊は約束を必ず守る男だ。一度決めてしまった心を変えさせるなどできはしない。ふたりともに、胸を焦がす恋心をなかったことにしてしまえなかったから、このような岸辺に行き着いた。
 天尊はアキラの小さな顔を両手で固定して上から覗きこんだ。長くて白い睫毛から、紫水晶アメティーストの双眸から、熱い視線から、有りっ丈の想いを注ぎこんだ。

「もう一度言う。アキラを愛している。俺と一緒にいてくれ」

「うん。わたしも……一緒にいたい」

 天尊はアキラを抱き締め、アキラも天尊の鎖骨に顔を埋めた。




  § § §




 翌朝。
 天尊とアキラは、ソルウィの小屋を訪ねた。此処を発つ前に礼と別れを言う為だ。
 ソルウィは荒ら屋と言ったが、丸太を積み上げた二階建てのコテージ。軒にはドライフラワーや野菜が吊されている。煙突から白い煙が上がっている。朝食の煮炊き中かもしれない。コテージの脇には小さな畑があった。リスのような小動物が駆け抜けて木の実を落っことし、色鮮やかな蝶がヒラヒラと舞う。こぢんまりとゆったりとした暮らしが想像された。
 ソルウィは丁度、コテージ脇の畑に朝の水遣りをしているところだった。天尊とアキラに気づいて作業の手を停めて振り向いた。
 近づいてきた天尊の姿を見るなり一瞬押し黙った。

「――――……。おお、坊や、坊や」

「アキラの前で坊やと呼ぶなと言った」

「誓約を立てたね、ティエンゾン。お前がそんな殊勝なことをするとは」

「お前も奇跡を期待するなと言った。俺もそんなものは信じん」

 ソルウィはフフフと笑った。
 尊大な男が殊勝な心がけ。自己犠牲で危うく成立する愛情表現。恋慕は人格も人生も変える。善くも悪くも。

「己で立てた誓いは必ず守るのだぞ」

「無論だ」

 天尊からの返答に迷いはなかった。

「誓いを軽んじないことだ。古の英雄の多くはそれで命を落とした」

「俺はそんなものじゃない」

 英雄になりたいなど思ったこともない。死にたくない一心で生き残った。自分を蔑んだ者共の思いどおりになりたくない憎しみを糧にした。ただただ生き存えた末に、女神のような女に出逢った。それだけで人生は悪くはないものになった。
 たったひとりの女神に尽くすという誓約は、己の人生を充足させるものだ。




  § § §




 暉曄宮きようきゅう耀龍ヤオロンの館。
 天尊ティエンゾンはアキラを連れて耀龍に借りている自分の部屋に戻った。帰還の報せを受けた耀龍がすぐに部屋に駆けつけた。
 アキラはテーブルセットのソファに腰かけていた。耀龍はアキラの隣に座り、顔色を観察したり脈を測ったりした。

「少し痩せたけど、身体に異常は無さそう」

「そうか。ならよかった」

 天尊は耀龍の言葉を聞いて小さく安堵の溜息を吐いた。

ロン。アキラを頼む」

天哥々ティエンガコは?」

「親父と話をしてくる」

(ゲッ。父様に)

 天尊からそう言われた耀龍は、咄嗟に顔色を変えた。

「父様と直接? ふたりきりで?」

「何だ。何か問題でもあるのか」

 天尊は口を挟むなという視線を耀龍に送った。
 アキラは小首を傾げた。

「ティエンのお父さんに?」

「アレでも軍人だ。俺より階級がずっと上のな。このままアスガルトを離れて、また命令違反だと無理矢理連れ戻されるのは御免だ。面倒だが筋を通して上官殿と話を付けることにした」

「それは簡単にできること?」

 アキラからの問いかけに天尊は確答しなかった。
 アキラは麗祥リーシアンが天尊を連れ戻しにやって来たとき、天尊がしたことの重大性を思い知った。天尊の職務について何も知らないが、命令違反を犯すことは強硬手段を執るに足る事由であり、必ず罰せられることなのだと認識した。
 天尊から愛の告白を受け、一緒にいたいと乞われたことは、嬉しいことだ。アキラとしてもそうなれば喜ばしい。だから、そんなことをしないでとは言わなかったが、また大変なことになるのではないかという不安は大きい。
 アキラは自分の前に立つ天尊にそっと手を伸ばし、衣服の袖をキュッと握った。弱ったように眉尻を下げて上目遣いに天尊に視線を注いだ。

「無理、しないでね?」

(かわ……ッッ‼)

 天尊のネェベルがブワッと一気に上昇した。

「ッ……!」

 人間でありアキラは何も感じないが、耀龍は無言で後退った。
 天尊はすぐさまハッと我に返って自身の感情の昂ぶりを抑え、耀龍は無言で批判的な視線を向けた。
 耀龍には正直、天尊の現状がよく分からない。制御不能だった《邪視》が突如として沈静化した理由も、それを維持できている理由も、説明できない。何の刺激で再び《邪視》が覚醒するとも分からない。非常に心臓に悪いから、むやみやたらと興奮するような言動は控えてほしい。

「少しくらいの無理ならする。アキラと一緒に暮らす為だ」

 天尊は顔の筋肉を緩めて、微笑んだ。
 自然と湧き出すような、滲み出すような、穏やかな笑み。アキラは天尊の表情を見て、内臓がキュッと締まるような感覚がした。一緒に暮らしていたのにそれは初めて見る表情であり、初めての感覚だった。

(ティエンってこんな顔だったっけ?)

 天尊は父親の許へ向かい、耀龍がアキラを部屋に送ることとなった。
 アキラと耀龍は館の廊下を横並びに歩いた。

「ティエンのお父さんとの話って、上手くいくと思う?」

 アキラは天尊たちの父親・赫暁ファシャオの人柄をまだよく知らない。ふたりきりで話したのは短い時間だが、一筋縄ではいかない印象を受けた。天尊が自分と暮らしたいというのは、簡単に首を縦に振る話なのだろうか。赫暁についてもこの世界の常識についても知らないことが多すぎて、不安が膨らむばかりだった。
 アキラから尋ねられた耀龍は、ゆっくりと足を進めながら宙を見遣った。

「…………。暉曄宮が壊れないといいなって思う」

「えッ」

(父様がアキラを口説こうとしたのが天哥々ティエンガコにバレたら大ゲンカだよねーたぶん)




  § § §




 部屋に戻ったアキラは、耀龍から食事を摂るように勧められた。数日間意識がない間も栄養補給はされていたらしいが固形物を口にしていない。水分を摂り、消化によいものを口にし、少々の甘いものを楽しんだ。
 それから、湯浴みをして侍女から髪を整えられ、人前に出られる綺麗な衣服に着替えた。アキラは天尊にベッドから連れ去られたから、湯浴みをするまで寝衣だった。アキラとしては彼らが寝衣としているくらいの軽装が煌びやかでなく動きやすく好みなのだが、此処の世話になる以上は彼らの指示に従うのが道理だろう。
 アキラが再び侍女によって着替えを促されて寝衣になる頃になっても、天尊からは何の音沙汰もなかった。耀龍から付けられた侍女たちが下がる時間となっても情況は変わらなかった。
 アキラは灯りが消された部屋でベッドに入って瞼を閉じても、一向に眠れなかった。胸のざわつきをこのままにして眠りたくなかった。

(……戻ってこなかったな、ティエン。話が終わったら会いに来てくれると思ったんだけど。お父さんとモメたりしてないかな。話が上手く進んでないだけ? それとも、また閉じこめられたり……)

 時間が経てば経つほど不安が大きくなる。やはり大変な無理をさせているのではないか。親子で喧嘩になってはいないだろうか。天尊は無事でいるだろうか。再会を果たして気持ちを確認し合っても、また離れ離れになるのではないかと不安で堪らない。だって、一度引き離されたのもふたりの意思ではなかった。

 アキラの足は自然と天尊の部屋へと向かった。静まり返った館を足音を立てないように進んだ。
 天尊の部屋から自分の部屋まで耀龍と歩いたから道順は頭に入っている。来客用の部屋同士だからそう離れてはいない。廊下には等間隔に点々と灯りが点っており、夜間でも迷うことはなかった。
 天尊の部屋の前まで辿り着いたが、ノックはしなかった。会いに来るタイミングを逸するほど父親と話しこんでいたならきっと疲れている。負担を掛けたくはなかった。

(ティエン、部屋のなかにいるのかな……)

 アキラは天尊の部屋のドアを背にしてカーペット張りの床に座りこんだ。膝を抱えて組んだ腕に頬を載せた。
 ドア一枚隔てた向こうに天尊がいると思うと、なんとなく少しホッとした。そうか、安堵したのかと自覚すると、知らない間に知らない土地へ連れてこられ、自分で思っているよりも気を張っていたのだなと気づいた。
 天尊が怖ろしい怪物になってしまうなんて最悪の事態を乗り越えたのに、知らない人に囲まれている程度のことにまだ緊張しているなんて、自分でも少々可笑しかった。
 耀龍も麗祥も気遣ってくれているのは分かる。天尊の弟であり協力者であるのに、心をすべて預けて頼り切れない。信頼できないということではなく、これは自分の性分だ。

(早く家に帰りたいな……)

「こんなところでどうしたッ」

 もう少しだけ気分を落ち着けたら部屋に戻ろうと思っていたのに突然声をかけられた。
 アキラはビクッとして顔を引き上げた。
 天尊が廊下の先から足早に近づいてきた。アキラが立ち上がるよりも早く、目の前にやって来て片膝を突いた。

「どうしたんだ。何かあったのか、誰かに何かされたか」

 天尊は慌ただしく尋ねた。
 アキラは過剰に心配させてしまったことが気恥ずかしくなって顔を背けた。

「ティエン、部屋のなかにいなかったんだ。何でもない。ごめん……っ。自分の部屋に戻る」

「本当に何もないんだな?」

 アキラは天尊のほうに顔を向けずコクコクと頷いた。

「ちょっと……寂しかっただけ」

 やはり天尊がいると気が緩むのかもしれない。ポロリと本音が出てしまった。
 天尊の手が反射的にアキラに伸びた。しかし、宙に浮いてピタリと停まった。

「触れてもいいか?」

「う、うん? 何で今さら?」

「冷静になって面と向かうと少しな……。俺はアキラを傷つけてしまったから」

 天尊の表情には深い悔恨が滲んでいた。
 アキラは天尊の表情を晴れさせたくて、まだ恥ずかしさが残っているのに懸命に作り笑顔を見せた。

「ティエンの所為じゃない、よ」

 天尊はドアノブに手をかけてドアを開いた。アキラの膝の裏と背中に腕を差し入れて軽々と抱え上げた。アキラを抱えて部屋のなかへ入り、スタスタと寝室に進み、ベッドの上にアキラを降ろした。一度アキラの視界から消え、ドアを閉めてすぐに戻ってきた。
 アキラは自分の前に立った天尊を見上げた。

「お父さんとの話、終わった?」

 天尊は白から顔を逸らして口を一文字に結んだ。

「ダメだったの?」

「…………。途中だ」

 そう……、と白は小さな声で零したが落胆はなかった。
 何もかも自分の思うとおりになるなどとは考えていない。難しいこともすんなりいかないことはある。それでも、これまで遠い遠い距離に離れていたことを思えば、目の前にいる分、何とかなるような気がした。一度絶望を知ったからこそ、生半可な困難くらいなら希望はゼロではないと思える。
 白は天尊の顔を下から覗きこみ、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「子どもみたいなことして、ごめん」

 天尊は、部屋の前で待っていたことだなとピンと来た。

「謝るな。俺が悪い。心細い思いをさせてすまなかった。待たせたな」

「ずっと待ってたわけじゃないよ。部屋のなかにティエンがいると思ってたから……ちょっと近くに行きたかっただけ」

 天尊はやや目を大きくした。

「……俺が恋しかったということか?」

 アキラはかあっと頬を赤くして咄嗟に顔を片手で押さえた。
 少しでも傍に行きたかった、顔を見たら安心する、行動も感情も、恋しかったのかと問われたら否定できる要素が無い。言葉で再確認されたら顔を隠したくなるくらい恥ずかしかった。

「あまり可愛いことを言うな。この部屋にはいま俺たちふたりしかいないんだぞ」

 天尊はアキラの頬を指の外側でなぞった。
 アキラは擽ったかったが、頬が熱くて顔を上げられなかった。

「寝室でそんなことを言われたら理性が保たん」

「えッ」

「当然だろう。俺はアキラを愛している。夜更けに恋人同士が寝室にふたりきりだ。理性は強いほうだが、惚れた女にこうも可愛い真似をされたら我慢が効かなくなる」

(恋人同士になるってそういうことか~~ッ)

 アキラはさらに頬が火照り、思わずぎゅ~っと力いっぱい瞼を閉じた。互いに気持ちを伝え合ったが、その先の具体的な想定はしなかった。
 ギッ。――天尊がベッドに片膝を載せた。
 アキラは、天尊の顔が真正面から近づいてきて、反射的に上半身を後ろに引いた。天尊に肩に手を置かれ、その重みで背中からベッドの上に倒れた。
 天尊はアキラの上に覆い被さり、その赤くなった顔を眺めた。この情況にアキラが困っているのは察したが、こういう体勢になった以上、退く気も無かった。

「どこまでなら許す?」

「ど、どこまでって……⁉」

「アキラが嫌がることはしたくない」

 本音は今すぐにすべてが欲しい。愛の告白をして受け容れられた。一緒にいると約束を結んだ。愛情も未来も手に入れられたなら、次は髪も肉もすべてが欲しい。奪うことは簡単だ。しかし、この手で一度身体も心も傷つけておきながら、深いところに許しなく踏み入るなどできなかった。
 アキラは意識的に天尊と目線を合わせないようにしつつ、宙を見詰めて逡巡した。天尊の問いかけが男女の触れ合いの段階を意味するのは分かる。しかし、何処まで許すのが適当なのかなど、分かろうはずがなかった。
 アキラは一度きゅっと唇を噛んでから、気合いを入れて再び口を開いた。

「……キス、とか……?」

「グッ!」

 ぼんっ。――天尊はベッドの上に握り拳を落とした。
 天尊としても、異性経験の乏しいアキラが許容できるラインなど自分の願望のかなり手前であろうと覚悟はしていたが、実際に提示されると素直に落胆した。
 いやいや、莫迦か俺は、とすぐに思い直した。落胆するなど烏滸がましい。嫌われて恨まれても仕方がないほどのことをしたのに、素手で触れて、口吻まで許されたのは僥倖だ。
 僥倖が与えられたなら、機会を逃さない内にさっさとものにしてしまうべきだ。目の前の無抵抗の獲物を見過ごすのは、本物の莫迦だ。
 天尊はアキラの顎に指を添えた。
 天尊と目が合い、アキラの心臓はドクンッと大きく跳ねた。天尊の期待するレベルに達していなくても、何も知らない子どもではない。今から起こることの予想は充分にできる。しかし、肉体は想定に追いつかない。心臓がバクバクバクッと大きく鼓動した。
 アキラは顔を耳まで赤くして瞼も唇もかたく閉じた。全身もぎゅうぎゅうに強張った。真っ暗な視界で天尊が小さな笑みを零したのが耳に届いた。
 身体に覆い被さる重みがじわじわと増し、天尊が顔を近づけてくる気配がした。もう逃げられないと覚悟し、ただ待つしかできなかった。自分から何かをする余裕なんて無かった。

(心臓、痛い痛い痛い……ッ)

 心臓が痛いくらいに鼓動して、呼吸が停まって、時間を長く感じて、もう遂には早くして、と願った。
 フッと柔らかくて生温かいものが唇に触れた。
 感触にしてしまえばそのようなもの。いや、本当はよく分からない。心臓がギューッと握られたみたい。顔が熱い。頭も熱い。何も考えられない。こんなことをするなんて自分ではないみたい。

 唇と唇が離れると、アキラは天尊の胸板を押し返した。同時に、恥ずかしくて顔をできる限り背けた。
 天尊は自分が重たいのかと思い、ベッドに手を突いて上半身を浮かせた。

「心臓、痛いっ……てば」

 天尊は笑顔で、そうかと零した。
 ――ちょっと楽しそう? 何で。
 アキラは胸が痛くて呼吸が苦しいから、天尊の上機嫌を少々恨みがましく思った。自分ばかりが苦しい思いをしているみたいだ。怪我をしたときですら恨みなど沸いてこなかったのに、何故だか今は天尊が憎らしい。

「もう一度だ」

「ええ……っ」

「アキラ。待て。逃げるな」

 天尊はアキラの顎を捕まえて自分のほうへ向かせた。
 アキラは顔を真っ赤にして瞳にはうっすらと涙が浮いた。恥ずかしさもあるが動悸が治まらず、ずっと心臓が痛い。

「もうダメッ」

「ようやくアキラに触れる許しが出たのにそれはないぞ」

「もうダメだってばっ。ダメッ……」

 天尊は再びアキラに覆い被さり、唇と唇とを合わせた。
 触れ合った頬の熱がいじらしい。組み敷いた肉体の柔らかさが愛らしい。無駄だと知りつつ男の身体を懸命に押し返そうとする様も可憐。ダメだと禁じる声さえも甘い。――――形作るすべてが、愛しい。
 未来永劫、この身命が尽きるまで愛おしい。




  § § §




 アキラの部屋。
 アキラは窓辺に腰かけてボーッと空を眺めていた。
 本日も天尊は父・赫暁との話し合いに行った。順調なのかそうでないのか、アキラには分からない。否、昨夜の天尊の態度を思い出すに、おそらく順調に進んではないのだろう。上手くいっているのであれば、天尊は自信満々であろうから。

(今日は天気よくないな……)

 灰色の雲が多くて青天が覗けない。昼間だというのに薄暗く、今にも降り出しそうな天候だ。
 アキラが空を眺めてぼんやりとそのようなことを考えていると、空がピカッと閃いた。
 ズドドォーーンッ!
 突如、落雷の轟音が館を揺らした。ビリッビリッと身体にまで響く大きな落雷だった。
 キャアーッ、と侍女たちが悲鳴を上げた。

「雷……まさか」

 窓辺から離れて部屋の出入り口に向かおうとしたアキラを、侍女たちが食い止めた。

「おおぉ、小姐シャオヂエ小姐シャオヂエ。お外においでになってはいけません。危のうございます」

「外どうなってるんですか今」

「御館様と无天尊ウーティエンゾン様が大変お怒りあそばして……」

 アキラは自分の前に立ち塞がる侍女たちを掻い潜り、部屋の出入り口へと走った。




「自分の力も制御できんのにミズガルズへ行くだァ? このバカ息子が!」

「だから、できるっつってんだろうがクソ親父ッ」

 ――上空では、赫暁と天尊が飛び回って掴み合ったり殴り合ったり、時にはネェベルの光線や光球を投げつけ、互いを罵り合った。
 庭に面した館の廊下では、館の主・耀龍と赫一瑪ファイーマが上空にいるふたりを見上げていた。赫一瑪は変わらず無表情。耀龍は若干ハラハラしていた。とばっちりで自分の館を壊されたのでは堪らない。

一大哥イーダーガ。父様がアキラを口説いたって天哥々ティエンガコに言った?」

「言わぬ」

「じゃあ知らなくてもケンカになっちゃったかー」

 耀龍は嘆息を漏らして指先で前髪をいじる。

「オレの館の上でケンカするのやめてほしい……。一大哥イーダーガ、アレ止めなくていいの?」

「あの程度であればよかろう。人死にが出るでもない」

「え~。とめてよ~。父様と天哥々ティエンガコに割って入るなんてオレ無理だもん」

 パタパタッ、と廊下を駆ける足音が聞こえ、耀龍はそちらを振り向いた。
 アキラが数人の侍女にあとを追われながら全力で駆けてきた。貴人は慌てて走ることなどしない。高貴な家に仕える侍女たちは、お待ちください、お待ちください、とアキラを追うのに必死だった。

「ロン。あれってティエンだよね。何してるのッ?」

「親子ゲンカ」

「ええッ⁉」

 耀龍は上空を指差した。

天哥々ティエンガコが父様に話を付けてくるって言ってたじゃん。それがアレ」

 それを聞くや否や、アキラは庭に飛び出した。上空を見上げて「ティエン!」と必死に呼んだ。
 天尊の耳にアキラの声が届き、そちらに目を遣った。その刹那。
 ガキィインッ!
 赫暁の渾身の拳が天尊の顔面にぶち当たった。
 その一撃の威力は凄まじく、天尊は上空で持ち堪えられず殴り飛ばされた。
 ズドォオンッ! ――天尊は地面に叩き落とされた。
 天尊は直ぐさま身体を起こし、上空にいる赫暁を睨みつけた。

「クソ親父が~~ッ!」

 アキラは庭に落下した天尊に駆け寄った。

「ティエン。大丈夫ッ?」

「アキラ。いま近づいたら危ない」

 天尊は片膝立ちの体勢でアキラに言った。
 アキラはしきりに頭を右往左往させて天尊に大きな怪我がないか全身を観察した。

「骨とか大丈夫? ひどいケガしてない?」

 天尊は赫暁に殴られた箇所をグイッと拭い、問題ないと答えた。
 アキラはよしと頷いてスーッと息を吸いこんだ。それから、拳を握ってグーを振り上げた。

「こらあッ! お父さんに乱暴しちゃダメでしょッ」

「ッ……」

 不意に怒鳴られた天尊は、面喰らって押し黙った。

「大ケガしたらどうするの! こんな殴り合いのケンカしてッ……ケンカはそのとき一瞬の感情だけど、ケガを治すのは時間がかかるんだよ。もしも一生もののケガしたらどうするの。そんなの、ティエンもお父さんも絶対後悔するよッ」

「だがッ……」

 口答えしようとした天尊を、アキラはビシッと人差し指で指してそれをさせなかった。眉を逆八の字にした顔を、腰を屈めて天尊に近づけた。

「ティエンはお父さんと話をするって言った。こんなケンカするなんて言わなかった」

「話にならんのは向こうだ」

「ティエンとは一緒にいたいけど、ティエンが家族と仲が悪くなるのはヤダ。そうなるんだったら、わたしはティエンと離れて暮らしても――」

 パシッ、と天尊はアキラの口を手の平で覆った。
 アキラが言おうとした決意は、天尊の聞きたくない言葉だった。アキラは弟の為に縁を絶つことさえ選ぶ女だ。離れて暮らすことくらい決心してしまう。

「……分かった」

 天尊は眉間に皺を寄せて声を絞り出した。

「アキラの望むとおりにする」

 ストン、と赫暁が天尊と白から2メートルほど先に着地した。
 天尊は地面に片膝を突いた体勢からスッと背筋を伸ばし、赫暁に身体の正面を向けて対峙した。アキラの手前、父親と実力行使で争うことは已めたものの、変わらず反抗的な顔付きだった。
 赫暁は自分に対して憤る息子の胸中を見透かしていた。フッフッフッと肩を揺らして笑った。

「お前がこうも簡単に折れるとはな。成る程確かに。或る程度制御はできるようだ」

「チッ!」と天尊は大きな舌打ちをし、アキラは「めっ」と脇から叱りつけて天尊の衣服の袖を捕まえた。

「せっかく再会叶ったのにまた無碍に引き離すのも、愛らしい姑娘クーニャンに酷だ。お前の能力を見こんで、ひとつ任務を与える。任務を果たした暁には、望むよう休暇をやろう」

 赫暁は不敵に口の端を吊り上げた。

「ニーズヘクルメギル少佐――……。直ちに原隊復帰し、北の地へ向かえ。グローセノルデン大公からのご指名だ」




熒閂の最新話はクロスフォリオにて先行公開( https://xfolio.jp/portfolio/ke1sen/series/1023833 )
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