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Kapitel 03
再起 02
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天尊が目覚めた翌日。暉曄宮・族長の私室。
赫一瑪はドアの前に立ってノックをした。入室の許可を得るまで沈黙して待った。室内から男女の話し声が聞こえるが、急かさなかった。
ガチャリ。――ドアが開かれて室内から若い侍女が出てきた。
侍女は赫一瑪と出会すや否や、頬を赤らめた。すぐに脇に避けて「どうぞ」と深々と頭を下げた。
赫一瑪は侍女を一瞥して入室した。侍女の衣服にやや皺があることや、その首筋に点々と赤い痕があるのを見落とさなかった。朝早く男の部屋から女が羞じらいながら出て来るなど、昨夜何があったかは察しは付く。
赫暁は姿見の前に立って身支度の最中だった。こちらは流石に肝が据わっている。自室に若い娘を引き入れて夜を明かしたあと、実の息子に直視されても悪びれた素振りは一切無かった。
「お疲れがなさそうで何よりです」
「俺は無傷だったからな。久し振りの戦闘で昂ぶったくらいだ」
「そのようで」
赫暁は実の息子からの皮肉の返しをハハッと笑って受け流した。
首にタイを引っ提げてクルリと赫一瑪のほうへ身体の正面を向け、赫一瑪の頭部から足許まで目線を上下に動かした。
「お前のほうこそ充分に回復したか?」
「耀龍があの場で施した措置がよかったらしく、今は傷痕も痛みもなく」
「涼しい顔をしていたがやはり痛かったか」
「…………」
赫暁は悪戯っ子のようにクハハッと笑った。
赫一瑪は反論こそ口にしなかったが、赫暁に視線で無言の抗議を送った。
「父上は無傷でお疲れもないとのこと。一両日宮を空けられ滞った分の御公務を取り返していただかねば」
「補佐殿は手厳しい」
赫暁はハハハと笑って姿見のほうへと向き直り、首に引っ提げているタイに手をかけた。赫一瑪の迎えがもう少々遅ければ、甘い睦言を囁き合いながら可愛らしい細い指に支度を委ねられただろうに。自分で締めるタイとは、息苦しいだけで味気ない。
「まあ、そう急かすな、一瑪。俺にも考えることがある。次は念入りな細工が必要だ。細工は流々仕上げを御覧じろ、ってな」
「……次、とは」
赫暁は赫一瑪からの問いかけに答えなかった。
シュル、シュル、とタイの衣擦れの音がするなか、鏡に映る自分の像を見詰めて不敵にニヤリと口角を引き上げた。
――天を、俺の息子を、虚仮にしやがって。この俺を舐めやがって。俺の息子を幼い頃から虐げ、挙げ句の果てがこれか。己に近い血からたまたま《邪視》が出現したことがそれほど気に食わんか。たったそれだけのことが殺したいほど許せんか。
そうだ、テメエはそういう男だ。クソみてぇなプライドだ。よく分かった。もう手心は加えん。踏ん反り返っているその椅子から、必ず引きずり下ろしてやる。
§ § § § §
耀龍の館。
訪問した麗祥は、侍女によって耀龍の部屋のひとつに案内された。
そこは耀龍の勉強部屋のようなものだった。日中もカーテンを閉め切り、柔らかな照明が室内を照らす。部屋の四隅のひとつに書類机。反対側の壁際に向かって本棚が等間隔にズラリと並ぶ。
耀龍は書類机に就いていた。机上にいくつも書物の山を積み上げ、その間から読書に勤しむ姿が見えた。
麗祥がコツコツコツ、と靴音を鳴らして書類机に近づき、耀龍は机上に拡げた書物から目線を引き上げた。
麗祥は書類机の前で足を停め、自分を見上げる耀龍の顔を見た。顔色が悪いとまでは言わないが、睡眠不足が窺える目許をしている。
「随分と熱が入っていると侍女から聞いたぞ。天哥々のお言葉を気にしているのか」
「オレは元々勉強熱心だよ」
耀龍は麗祥からプイッと顔を背けた。
その面白く無さそうな仕草を見て、麗祥はフフッと笑みを零した。
耀龍は麗祥から笑われたのも、兄貴風を吹かせられたようで面白くなかった。書類机に頬杖を突いて書物をパタンと閉じた。
「ルフトとヴィントはどうした」と麗祥。
「ミズガルズに戻したよ。アキラがあの状態のままで、天哥々と鉢合わせたらどうなるか分かんないから」
「かなり熱心に姑娘に仕えているようだったが、よくすんなりとミズガルズへ参ったな」
「すんなりとはいかなかったけど……」
麗祥の言うとおり、ルフトとヴィントは耀龍に提案されたからではなく、受けた恩義を返すためだけでなく、アキラを脅威から命懸けで護った。アキラの昏睡状態が続く間も心から案じている様子だった。ルフトなどは、アキラの情況を毎日耀龍に詰問した。責め立てたと言ってもよい。そのようなふたりをアキラから引き離してミズガルズへ送り返すのは、縁花を矢面に立てての半ば力尽くだった。
麗祥は書類机の脇を擦り抜けて部屋の突き当たりの窓際に立った。カーテンを剥ぐって窓外を見た。天尊が耀龍の館を発って一日弱、天尊が目指した目的地の正確な場所も知らない彼は、窓外を眺めても何かを推察することはできなかった。しかし、憂慮は自ずと沸いてくる。
「天哥々は辿り着かれただろうか」
耀龍は前髪を掻き上げてフーッと溜息を吐いた。
「《ウルズの泉》か……。思いつきもしなかった」
「思い至らずとも仕方があるまい。あそこは私たちでは行けない場所だからな」
それに……、と麗祥は目線を窓外から引き戻して耀龍を振り返った。
「天哥々もあのようなものを頼るのは本意ではないはずだ」
コンコン。――ドアがノックされた音。
「耀龍様」と縁花の声。耀龍は「何ー?」と気の抜けた返事をした。
「綾武劍様のお越しです」
綾武劍――――赫=ニーズヘクルメギルの当代族長の第二子にして耀龍と麗祥の兄のひとり。
彼は暉曄宮に居を構えてはいなかった。長兄とは異なり、一族の要職ではなく遠方での任務に就いている。実の兄弟でありながら、直接顔を合わせるのは随分と久し振りだった。
縁花がドアを押し開き、軍服姿の男が室内に入ってきた。まず目に入るのは、金糸混じりの紅の髪の毛。燃える焔のように逆立っている。長身かつ逞しい体付きで胸を張り、軍人らしい威容。
カツン、カツン、と彼は悠然と軍靴の踵を鳴らして耀龍に近づいた。
麗祥は素早くスッと頭を下げた。
「これはこれは、綾哥々。出迎えにも参らず申し訳ございません」
「いや、構わんさ。私こそ前触れもなく参ってすまない。いつ遑が取れるか分からん身だ。前触れを出す時間も惜しくてな」
綾武劍は笑顔で気にするなとヒラヒラと手を振った。外見は軍人然としているが、表情は柔らかく好青年だ。弟たちもこの兄は長兄とは別格に接しやすいことを分かっている。
「今頃遅いよ、綾哥々~。大変だったんだから」
「大変で済んだか。それは重畳。《邪視》に遭遇してそれで済ませた者は、赫の歴史にもそうはいまい」
綾武劍は、あっはっはっ、と口を開けて笑った。書類机に就いている耀龍の頭に手を載せてポンポンと撫でた。
耀龍は少々ブスッとして頬杖を突いた。
「綾哥々と話してると緊張感がない」
「父様に似て大らかな方だからな」
「今回の事態、幼いお前たちを戦闘に駆り出すこととなり済まなかった」
兄からそう言われた耀龍の表情は、さらに不機嫌さが増した。
「幼いって、綾哥々の記憶のなかでオレたちいくつで止まってるの、ねえ?」
「綾哥々は遠方にいらっしゃるから情報の更新が難しいのだ」
「いやいや、お前たちがいくつになっても可愛いものだ。私は兄なのだから。父上に《大剣グラム》を届けたはよいが、すぐに役目に戻れと命じられてな。助力も叶わなかった。不甲斐ない兄を許してくれ」
「いいえ、何もお気になさらないでください。綾哥々には南の防備がございますから。どうぞお役目を第一に」
綾武劍は、窓際に立っている麗祥をチョイチョイと手招きした。麗祥が近くに寄ってくると、その頭を撫でてやろうと手を伸ばした。
麗祥はそれをスッと回避した。
…………。――無表情の麗祥と笑顔の綾武劍との間に、しばしの沈黙が流れた。
「本日の用向きは?」
麗祥は綾武劍に冷静に尋ねた。
弟から遇われた綾武劍は、残念そうにフッと笑みを零した。
「《大剣グラム》の回収……の、ついでに事の顛末を聞きたくてな。《邪視》の脅威をその目で見たお前たちの口からな」
耀龍と麗祥は、綾武劍に求められたとおり、今回の出来事について包み隠さず説明した。弟たちにとって綾武劍は、最も大らかで気安い兄だ。幼い頃からたまにしか顔を合わさなかった分、ただただ寛容かつ鷹揚な人物で、叱られたこともない。或る意味、天尊よりも恐れがなく、父や長兄よりも心を許していた。
弟たちから話を聞いた綾武劍は、肩を揺すって笑った。
「お前たちが父上や一大哥に口答えできるようになるとは……フフフ。これからは見逃さんよう、里帰りを増やさねばならんな」
イラァ💢 ――耀龍と麗祥は子ども扱いされて心外だった。
「そういうことじゃなくて。オレは父様ヒドイよねって言ってるの」
耀龍は不服そうに口を尖らせ、綾武劍は「分かった分かった」と宥めた。
「そうだな。父上の御決断、戦法は、天の恋人と親しくするお前たちには納得のいかないものだったというのは分かる。しかしな、そう父上を責めるな。今回は父上も後がなかったのだ」
「父様にそのようなことがございますか?」
麗祥は否定的に尋ねた。
綾武劍は、アハハハッ、と声を上げて笑って腕組みをした。
「父上の信頼は実に厚いな。お前たちは父上にできないことはないとでも思っているらしい。貴族の世で栄光ある時代を築き続けるとは、そう生易しいことではないぞ。地位や権力、武力を振り翳すだけでは、必ず争いが生まれる。肝要なのは、調和だ。対等な会話と取り引き、それによって築かれる信頼関係が何より重要なのだ」
それから綾武劍は、父・赫暁が《大剣グラム》を手にできたのも信頼関係の賜物だと語った。
シグルズルの一族に伝わる家宝の一――――《大剣グラム》。この世にふたつとない至宝、威力は絶大、神話級の名剣。出せと言われておいそれと門外に出すものではない。
シグルズルは、綾武劍の生母であり赫暁の妻の実家。当代の当主は、綾武劍の祖父にして赫暁の義父。《大剣グラム》を振るうのが赫暁であり、運搬に携わるのが綾武劍であり、承諾したのが当代当主であること。これこそが信頼だ。
「信頼に必要なのは約束だ」
「約束……?」と耀龍は聞き返した。
「約束を交わし、守る。そのような単純なことの繰り返しによって、信頼は築かれるのだ、弟たちよ」
そして、父と祖父は《大剣グラム》貸与について固い約束を交わした、と綾武劍は続けた。彼が約束の運び手であるが故に知っている事実だった。
――《邪視》を平伏せしめること叶わねば、必ずその手で狩れ、と。
「つまり、父上は《邪視》を封じられねば、自らの手で天を殺さねばならなかったということだ」
「シグルズルの御祖父様は、何故そのような条件を……?」
麗祥は眉根を寄せて綾武劍に尋ねた。
綾武劍は少々困ったように苦笑を漏らした。
「赫随一の武人・赫暁が、伝説の《大剣グラム》を手にしてまでも御せない邪竜――……そのような存在を、お前たちは如何する。一族を守る責務を負う長たちにとって、滅すべき脅威だとは思わんか」
耀龍と麗祥は口を噤んだ。
何も知らない頃であったなら、ただただ兄を慕う幼い弟であったなら、いいえそんなことはない、とすぐさま否定していただろう。しかし、《邪視》の圧倒的な力と、純粋な邪悪性を目にしたあとでは、否定することは難しかった。
「さて、その姑娘と天の命を天秤に掛けたなら、お前たちはどちらを選んだ?」
赫一瑪はドアの前に立ってノックをした。入室の許可を得るまで沈黙して待った。室内から男女の話し声が聞こえるが、急かさなかった。
ガチャリ。――ドアが開かれて室内から若い侍女が出てきた。
侍女は赫一瑪と出会すや否や、頬を赤らめた。すぐに脇に避けて「どうぞ」と深々と頭を下げた。
赫一瑪は侍女を一瞥して入室した。侍女の衣服にやや皺があることや、その首筋に点々と赤い痕があるのを見落とさなかった。朝早く男の部屋から女が羞じらいながら出て来るなど、昨夜何があったかは察しは付く。
赫暁は姿見の前に立って身支度の最中だった。こちらは流石に肝が据わっている。自室に若い娘を引き入れて夜を明かしたあと、実の息子に直視されても悪びれた素振りは一切無かった。
「お疲れがなさそうで何よりです」
「俺は無傷だったからな。久し振りの戦闘で昂ぶったくらいだ」
「そのようで」
赫暁は実の息子からの皮肉の返しをハハッと笑って受け流した。
首にタイを引っ提げてクルリと赫一瑪のほうへ身体の正面を向け、赫一瑪の頭部から足許まで目線を上下に動かした。
「お前のほうこそ充分に回復したか?」
「耀龍があの場で施した措置がよかったらしく、今は傷痕も痛みもなく」
「涼しい顔をしていたがやはり痛かったか」
「…………」
赫暁は悪戯っ子のようにクハハッと笑った。
赫一瑪は反論こそ口にしなかったが、赫暁に視線で無言の抗議を送った。
「父上は無傷でお疲れもないとのこと。一両日宮を空けられ滞った分の御公務を取り返していただかねば」
「補佐殿は手厳しい」
赫暁はハハハと笑って姿見のほうへと向き直り、首に引っ提げているタイに手をかけた。赫一瑪の迎えがもう少々遅ければ、甘い睦言を囁き合いながら可愛らしい細い指に支度を委ねられただろうに。自分で締めるタイとは、息苦しいだけで味気ない。
「まあ、そう急かすな、一瑪。俺にも考えることがある。次は念入りな細工が必要だ。細工は流々仕上げを御覧じろ、ってな」
「……次、とは」
赫暁は赫一瑪からの問いかけに答えなかった。
シュル、シュル、とタイの衣擦れの音がするなか、鏡に映る自分の像を見詰めて不敵にニヤリと口角を引き上げた。
――天を、俺の息子を、虚仮にしやがって。この俺を舐めやがって。俺の息子を幼い頃から虐げ、挙げ句の果てがこれか。己に近い血からたまたま《邪視》が出現したことがそれほど気に食わんか。たったそれだけのことが殺したいほど許せんか。
そうだ、テメエはそういう男だ。クソみてぇなプライドだ。よく分かった。もう手心は加えん。踏ん反り返っているその椅子から、必ず引きずり下ろしてやる。
§ § § § §
耀龍の館。
訪問した麗祥は、侍女によって耀龍の部屋のひとつに案内された。
そこは耀龍の勉強部屋のようなものだった。日中もカーテンを閉め切り、柔らかな照明が室内を照らす。部屋の四隅のひとつに書類机。反対側の壁際に向かって本棚が等間隔にズラリと並ぶ。
耀龍は書類机に就いていた。机上にいくつも書物の山を積み上げ、その間から読書に勤しむ姿が見えた。
麗祥がコツコツコツ、と靴音を鳴らして書類机に近づき、耀龍は机上に拡げた書物から目線を引き上げた。
麗祥は書類机の前で足を停め、自分を見上げる耀龍の顔を見た。顔色が悪いとまでは言わないが、睡眠不足が窺える目許をしている。
「随分と熱が入っていると侍女から聞いたぞ。天哥々のお言葉を気にしているのか」
「オレは元々勉強熱心だよ」
耀龍は麗祥からプイッと顔を背けた。
その面白く無さそうな仕草を見て、麗祥はフフッと笑みを零した。
耀龍は麗祥から笑われたのも、兄貴風を吹かせられたようで面白くなかった。書類机に頬杖を突いて書物をパタンと閉じた。
「ルフトとヴィントはどうした」と麗祥。
「ミズガルズに戻したよ。アキラがあの状態のままで、天哥々と鉢合わせたらどうなるか分かんないから」
「かなり熱心に姑娘に仕えているようだったが、よくすんなりとミズガルズへ参ったな」
「すんなりとはいかなかったけど……」
麗祥の言うとおり、ルフトとヴィントは耀龍に提案されたからではなく、受けた恩義を返すためだけでなく、アキラを脅威から命懸けで護った。アキラの昏睡状態が続く間も心から案じている様子だった。ルフトなどは、アキラの情況を毎日耀龍に詰問した。責め立てたと言ってもよい。そのようなふたりをアキラから引き離してミズガルズへ送り返すのは、縁花を矢面に立てての半ば力尽くだった。
麗祥は書類机の脇を擦り抜けて部屋の突き当たりの窓際に立った。カーテンを剥ぐって窓外を見た。天尊が耀龍の館を発って一日弱、天尊が目指した目的地の正確な場所も知らない彼は、窓外を眺めても何かを推察することはできなかった。しかし、憂慮は自ずと沸いてくる。
「天哥々は辿り着かれただろうか」
耀龍は前髪を掻き上げてフーッと溜息を吐いた。
「《ウルズの泉》か……。思いつきもしなかった」
「思い至らずとも仕方があるまい。あそこは私たちでは行けない場所だからな」
それに……、と麗祥は目線を窓外から引き戻して耀龍を振り返った。
「天哥々もあのようなものを頼るのは本意ではないはずだ」
コンコン。――ドアがノックされた音。
「耀龍様」と縁花の声。耀龍は「何ー?」と気の抜けた返事をした。
「綾武劍様のお越しです」
綾武劍――――赫=ニーズヘクルメギルの当代族長の第二子にして耀龍と麗祥の兄のひとり。
彼は暉曄宮に居を構えてはいなかった。長兄とは異なり、一族の要職ではなく遠方での任務に就いている。実の兄弟でありながら、直接顔を合わせるのは随分と久し振りだった。
縁花がドアを押し開き、軍服姿の男が室内に入ってきた。まず目に入るのは、金糸混じりの紅の髪の毛。燃える焔のように逆立っている。長身かつ逞しい体付きで胸を張り、軍人らしい威容。
カツン、カツン、と彼は悠然と軍靴の踵を鳴らして耀龍に近づいた。
麗祥は素早くスッと頭を下げた。
「これはこれは、綾哥々。出迎えにも参らず申し訳ございません」
「いや、構わんさ。私こそ前触れもなく参ってすまない。いつ遑が取れるか分からん身だ。前触れを出す時間も惜しくてな」
綾武劍は笑顔で気にするなとヒラヒラと手を振った。外見は軍人然としているが、表情は柔らかく好青年だ。弟たちもこの兄は長兄とは別格に接しやすいことを分かっている。
「今頃遅いよ、綾哥々~。大変だったんだから」
「大変で済んだか。それは重畳。《邪視》に遭遇してそれで済ませた者は、赫の歴史にもそうはいまい」
綾武劍は、あっはっはっ、と口を開けて笑った。書類机に就いている耀龍の頭に手を載せてポンポンと撫でた。
耀龍は少々ブスッとして頬杖を突いた。
「綾哥々と話してると緊張感がない」
「父様に似て大らかな方だからな」
「今回の事態、幼いお前たちを戦闘に駆り出すこととなり済まなかった」
兄からそう言われた耀龍の表情は、さらに不機嫌さが増した。
「幼いって、綾哥々の記憶のなかでオレたちいくつで止まってるの、ねえ?」
「綾哥々は遠方にいらっしゃるから情報の更新が難しいのだ」
「いやいや、お前たちがいくつになっても可愛いものだ。私は兄なのだから。父上に《大剣グラム》を届けたはよいが、すぐに役目に戻れと命じられてな。助力も叶わなかった。不甲斐ない兄を許してくれ」
「いいえ、何もお気になさらないでください。綾哥々には南の防備がございますから。どうぞお役目を第一に」
綾武劍は、窓際に立っている麗祥をチョイチョイと手招きした。麗祥が近くに寄ってくると、その頭を撫でてやろうと手を伸ばした。
麗祥はそれをスッと回避した。
…………。――無表情の麗祥と笑顔の綾武劍との間に、しばしの沈黙が流れた。
「本日の用向きは?」
麗祥は綾武劍に冷静に尋ねた。
弟から遇われた綾武劍は、残念そうにフッと笑みを零した。
「《大剣グラム》の回収……の、ついでに事の顛末を聞きたくてな。《邪視》の脅威をその目で見たお前たちの口からな」
耀龍と麗祥は、綾武劍に求められたとおり、今回の出来事について包み隠さず説明した。弟たちにとって綾武劍は、最も大らかで気安い兄だ。幼い頃からたまにしか顔を合わさなかった分、ただただ寛容かつ鷹揚な人物で、叱られたこともない。或る意味、天尊よりも恐れがなく、父や長兄よりも心を許していた。
弟たちから話を聞いた綾武劍は、肩を揺すって笑った。
「お前たちが父上や一大哥に口答えできるようになるとは……フフフ。これからは見逃さんよう、里帰りを増やさねばならんな」
イラァ💢 ――耀龍と麗祥は子ども扱いされて心外だった。
「そういうことじゃなくて。オレは父様ヒドイよねって言ってるの」
耀龍は不服そうに口を尖らせ、綾武劍は「分かった分かった」と宥めた。
「そうだな。父上の御決断、戦法は、天の恋人と親しくするお前たちには納得のいかないものだったというのは分かる。しかしな、そう父上を責めるな。今回は父上も後がなかったのだ」
「父様にそのようなことがございますか?」
麗祥は否定的に尋ねた。
綾武劍は、アハハハッ、と声を上げて笑って腕組みをした。
「父上の信頼は実に厚いな。お前たちは父上にできないことはないとでも思っているらしい。貴族の世で栄光ある時代を築き続けるとは、そう生易しいことではないぞ。地位や権力、武力を振り翳すだけでは、必ず争いが生まれる。肝要なのは、調和だ。対等な会話と取り引き、それによって築かれる信頼関係が何より重要なのだ」
それから綾武劍は、父・赫暁が《大剣グラム》を手にできたのも信頼関係の賜物だと語った。
シグルズルの一族に伝わる家宝の一――――《大剣グラム》。この世にふたつとない至宝、威力は絶大、神話級の名剣。出せと言われておいそれと門外に出すものではない。
シグルズルは、綾武劍の生母であり赫暁の妻の実家。当代の当主は、綾武劍の祖父にして赫暁の義父。《大剣グラム》を振るうのが赫暁であり、運搬に携わるのが綾武劍であり、承諾したのが当代当主であること。これこそが信頼だ。
「信頼に必要なのは約束だ」
「約束……?」と耀龍は聞き返した。
「約束を交わし、守る。そのような単純なことの繰り返しによって、信頼は築かれるのだ、弟たちよ」
そして、父と祖父は《大剣グラム》貸与について固い約束を交わした、と綾武劍は続けた。彼が約束の運び手であるが故に知っている事実だった。
――《邪視》を平伏せしめること叶わねば、必ずその手で狩れ、と。
「つまり、父上は《邪視》を封じられねば、自らの手で天を殺さねばならなかったということだ」
「シグルズルの御祖父様は、何故そのような条件を……?」
麗祥は眉根を寄せて綾武劍に尋ねた。
綾武劍は少々困ったように苦笑を漏らした。
「赫随一の武人・赫暁が、伝説の《大剣グラム》を手にしてまでも御せない邪竜――……そのような存在を、お前たちは如何する。一族を守る責務を負う長たちにとって、滅すべき脅威だとは思わんか」
耀龍と麗祥は口を噤んだ。
何も知らない頃であったなら、ただただ兄を慕う幼い弟であったなら、いいえそんなことはない、とすぐさま否定していただろう。しかし、《邪視》の圧倒的な力と、純粋な邪悪性を目にしたあとでは、否定することは難しかった。
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