マインハールⅡ

熒閂

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Kapitel 03

再起 01

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 ――長い間、気持ちのいい夢を見ていた。かなり気分のいい夢だ。
 何もかも自分の好きにできる万能感。どれだけ動いても、どれだけ飛んでも、どれだけネェベルを使いまくっても、少しも疲れない。それどころか無限に力が湧いてくる。邪魔なものは何だってぶち壊せる圧倒的な力を持っていた。

 ――「帰ってきてよ」――

 誰かに呼ばれた気がして夢から醒めた。
 夢だと気づいたのはつい先ほど。夢が夢であったことを口惜しく感じながら現実に引き戻された。

 天尊ティエンゾンはベッドの上で目を覚ました。
 長い夢を見ていた感覚はあるが、肉体に倦怠感は無かった。むしろ、爽快な目覚めといってよい。ノリの利いたシーツの感触、適度な室温、シミひとつない天井や壁紙、ベッド脇の窓から差しこむ陽光。天尊の経験上、明るく清潔な空間で目を覚ますのはかなりよい環境だ。
 何処だ此処は、と当然の疑問が頭に浮かんだ。手足に拘束はない。ネェベルを抑制する牆壁が展開された感覚もない。つまり、自由の身だ。いつかは夢から醒めるのは当然だとしても、自由を得られる理由は分からなかった。
 天尊は周囲に人の気配を察知し、上半身を起こした。
 数人の女たちが部屋の隅で縮こまっていた。身形からして高貴な家に給仕する侍女だ。

「誰だ、貴様らは」

 天尊から声をかけると、彼女たちは問いかけに答えることもなく一目散に部屋から出て行った。
 天尊はスルリと何かが皮膚に擦れる感触がした。そして、自身の霜髪が途轍もなく伸びたことに気づいた。

「何だこの様は」

 天尊の有様はちぐはぐなものだった。
 皮膚は黒から生来の肌色に戻り、体表を覆っていた黒い鱗は剥げ落ちて跡形も無くなった。黒曜石の牙や爪は抜け落ちてから再生し、今となっては只人のそれと変わらない。しかし、霜髪の長さはベッドの上に広がるほど長く、その瞳には紫水晶の輝きを湛えていた。
 パタパタと、部屋の外から足音が近づいてきた。
 天尊は顔を上げて部屋のドアが開かれるのを待ち構えた。先ほど出て行った侍女たちが人を呼んだのだろう。話くらいはできるはずだ。
 ドアを開いたのは耀龍ヤオロンだった。
 耀龍はベッドの上の天尊を目にするなり、ドアノブを握ったまま一瞬停止した。そのあと、早足でベッドに近寄った。

天哥々ティエンガコ――……起きたんだ」

 耀龍は眉間に皺を寄せて眉尻を下げ、何とも言えない安堵の表情を見せた。
 耀龍は薄手の丈の長い衣服を身に纏っていた。それは着やすい部屋着のような恰好だったから、天尊は此処は耀龍の館だと推察した。

「ん? ああ」と天尊は何てことは無いように答えた。

「その顔、俺はだいぶ眠っていたようだな。この恰好は何だ」

 天尊は自分の長い霜髪を掴んで耀龍に見せた。
 耀龍には天尊の問いかけに答える余裕は無かった。天尊から顔を背けてグッと奥歯を噛んだ。喜びが込み上げてきて涙腺が弛みそうだった。

「どうした、お前」

「ちょっと待って。いま泣きそう」

 耀龍は天尊に抱きついた。
 天尊は怪訝そうに顔を顰めた。兄弟の情はあるが、男に抱きつかれても嬉しくはなかった。

「離れろ。シャワーを浴びたい」

「少しは喜びに浸らせてよ」

 それは天尊らしい言い草だった。耀龍は兄が戻ってきたのだと実感した。フフッと笑って天尊から離れた。


 天尊が散髪をしてシャワーを浴び、無精髭を剃り終わり、着替えを済ませ、身綺麗に整えた頃、部屋に麗祥リーシアンが駆けつけた。
 麗祥も天尊を目にして最初、耀龍と同じような反応を見せた。懐かしいような、安堵したような、気の緩んだ表情。顔面の造形も普段見せる表情も似ていないが、そういう仕草は似ているものだな、と天尊はやや感心した。
 しかしながら、麗祥には耀龍とは異なり兄の矜持がある。感激しても弟の前で天尊に抱きつくようなことはしなかった。表情もすぐに平静に戻した。
 天尊は姿見の前に立ち、シャツの袖口のボタンを留めながら、鏡に映る自分と対面した。紫水晶の瞳とかち合うのは自分でも違和感があった。

「お前たち、俺が正気に戻ったとよく分かったな。この目で」

 天尊は姿見のほうを向いたまま弟たちに語りかけた。

「本物の《邪視ブゼルブリク》と相見えましたから」

「分かるよ。天哥々ティエンガコとはぜんぜん違う。アレは絶対に天哥々ティエンガコじゃない」

 麗祥と耀龍の返答は素早かった。
 それからふたりは、自分たちが知り得る情報を天尊に説明した。天尊が不当に拘禁されていたこと、自分たちが天尊の居場所に辿り着いた経緯、そして《邪視》覚醒から沈静化に至るまでの顛末。すべて天尊の身に起こったことだ。知る権利がある。しかし、或る点のみは意図的にぼやかして伝えた。


「……そういうことか」

 天尊は独り言のように零した。

「あんまり驚いてないね?」

「目覚めて自分の様を見れば何となく想定はできる。この目だからな」

「《邪視ブゼルブリク》が覚醒したのは御祖父様の計略であり、そこに天哥々ティエンガコの意思はありません。《邪視ブゼルブリク》による被害は天哥々ティエンガコの故意あってのことではありません。故に天哥々ティエンガコには何の責も――」

「分かっている。俺は過度に自分を責めるほどお人好しじゃない」

 麗祥は、鏡越しに見た天尊の表情は実に不機嫌そうだったが、自責の念が無いと知ってホッと安堵した。

「俺をいいようにしやがって、あのクソ老い耄れ」

「御祖父様にお会いになったのですか?」

「ハッ。会ったなんてモンじゃない。動物園に珍獣を見に来たツラだった。イヤ、あのジジイにとって俺はいいとこ実験動物だ。胸糞悪い」

 耀龍と麗祥は顔を見合わせた。

「伺いたいのですが。天哥々ティエンガコは《邪視ブゼルブリク》が覚醒してる間、記憶や意識はおありでないのですね?」

「正直、記憶はほとんどない」

「ところどころは記憶がある? どこから憶えてるの? 憶えてるのって何?」

 天尊は片眉を引き上げてふたりのほうを振り返った。

「何だ、その確認は。何故そんなことを訊く」


 耀龍の館・客室のひとつ。
 耀龍と麗祥は、特に理由を話さず天尊をそこへ案内した。天尊はやや不思議に思いながらもふたりに従った。
 客室の入り口や室内には侍女が控えていた。掃除が行き届いて空気は新鮮であり、花も飾ってある。此処は客室なのだから、招かれた客人がいて使用中なのだと天尊はすぐに見当が付いた。しかし、耀龍の館の客人に自分が引き合わされる理由まではまだ察しが付かなかった。
 客人は応接テーブルにいなかった。耀龍から、部屋の奥、寝室まで立ち入ることを許された。寝室には天蓋付きのベッド。香が焚かれていた。客人は女性だ。
 天尊は天蓋付きのベッドに視線を伸ばした。薄いレースのカーテンの向こうに、ひとりの少女が横たわっているのが見えた。
 耀龍は天尊にベッドに近づくように言った。天尊はベッドのすぐ脇に立って少女の寝顔に目を落とした。
 少女のあどけない寝顔は、血の気がなく蒼白。瞼を閉じた陶器人形のようだった。
 じっと見詰めている内に、面立ちに思い当たった。天尊は少女の前髪を真ん中辺りで掻き分け、顔を近づけてその造形をまじまじと覗きこんだ。

「この少女は――……アキラか」

 ――「ティエン。帰ってきてよ」――
 夢の終わりを告げる少女の声音。
 そうだ、あの声は「ティエン」と呼んだ。天尊自身がそれを許した女はひとりだけ。
 あの声に呼ばれたから、万能の夢から現実に戻ってきた。あの声が聞こえたから、自分が何であるか思い出した。邪悪の顕現、大いなる力の奔流、神代の邪竜などではなく、天尊であると。


「…………。髪が伸びたな……綺麗になった」

 天尊は眠っているアキラの頬を指先で撫でた。愛おしそうに目を細め、それきりしばらく黙りこんだ。少しずつさまざまな角度からアキラの寝顔を眺め、その眼差しでずっと愛を囁いているようであった。
 耀龍も麗祥も天尊に話さなければいけないことがあったが、時を急かさなかった。天尊とアキラとが離れ離れになって約一年間。彼らにとってはたった一年間でも、引き離されたふたりにとっては恒久に思われたことだろう。一年間どころか、一時はもう二度と逢うことはないと悲観したふたりが、愛を取り返した。

「アキラがここにいるということは、俺の所為だろうな。また迷惑をかけたな……」

 天尊はアキラの寝顔を見詰めたまま申し訳なさそうに呟いた。
 その様子を見て、耀龍と麗祥は天尊に有りの儘を伝えなくてよかったと思った。
 ふたりの弟たちが天尊に経緯を説明する際に意図的に伏せた或る一点、それこそがアキラのことだった。己のしがらみがために何の力も無いアキラを巻きこみ、手にかけようとし、あまつさえ大怪我を負わせたなど、意識が無かったとはいえ、事実を知ったなら後悔と自責で冷静ではいられないだろうから。天尊といえども、知らないことの責任を負うほどお人好しではないなどとは言っていられなかったはずだ。

「随分と顔色がよくないな。アキラはいつ目覚める?」

 天尊からの問いかけに、耀龍は内心ドキッとした。連れてきたからには訊かれることを覚悟していたが、やはり気まずかった。

「その、実は……アキラは……《邪視ブゼルブリク》が覚醒してからずっと、眠り続けてる」

「《邪視ブゼルブリク》が沈静化する直前に意識を失い、それきり目を覚ましません」

「ずっとだと? 期間は」

 天尊が振り返りながら尋ね、耀龍と麗祥は背筋を伸ばした。

「5日間です。天哥々ティエンガコ

「理由は」

「そもそも人間エンブラはアスガルトの環境下では覚醒時間が短い傾向にあるんだ。仮説のひとつとして、それに加えて今回の件でケガもしたし、体力も気力も使い果たして疲労が蓄積したからじゃないかなって」

「ケガ?」

「それについては、オレが修復したから心配は要らないよ。痕も残ってない」

 耀龍は自分の失言に気づいて一瞬ギクッとしたが、すぐさま取り繕った。

「ケガは治ったのに5日間も睡眠をとって疲労が回復しないだと? アキラはアスガルトに来て以来、それほど長く眠るのが常態だというのか。何時間睡眠をとって何時間覚醒していられる」

 耀龍と麗祥はやや顔を伏せて天尊と目を合わせようとしなかった。

「《邪視ブゼルブリク》の件以前は、毎日数時間は覚醒しておりました。さすがにこれほど眠り続けたことはなく……」

「ほかに考えられる原因は」

「それは今の段階ではちょっと……」

「このままにしておいて、目覚める可能性はあるのか」

「ごめん。初めてのことだから確かなことは言えない。だけど、アスガルトにエンブラを看れる医者なんていないし、今の状態のままミズガルズに戻ったって覚醒する確証はないし、しばらくこのまま様子を見るしか……」

「つまり、お前にできることは何も無いということだな」

 天尊から端的に放言され、耀龍は押し黙った。確かに事実ではあったが無情に感じられた。無能と断じられたに等しかった。
 耀龍は反論しなかったが、麗祥が思わず口を開いた。

天哥々ティエンガコ。それはあまりな仰有りようです。ロン姑娘クーニャンを館に招き、庇護下に置いてよく気を配っておりました。姑娘クーニャンの現状は決してロンの所為ではありません。今もミズガルズやエンブラに詳しい知識でもって手を尽くしております」

 天尊は眉間に深い皺を刻んで苦々しい表情を浮かべた。
 弟たちに冷淡に接するのは八つ当たりであると自覚があった。これが職務であったなら、何を言われても単なる事実確認である、俺の期待に応えられない貴様が無能なのだ、と断じられる。しかし、自分の宿業にアキラを巻きこんだことは否定しようがなく、現状を引き起こした要因が自身にあることは明白だった。

「……そうだ。アキラがこうなったのは俺の所為だ」

 耀龍と麗祥は弾かれたように顔を上げた。

「違ッ……天哥々ティエンガコの所為じゃない!」

「そのようなことを申し上げたいのではありません天哥々ティエンガコ!」

 弟たちは、いいえ、いいえ、ごめんなさい、と懸命に訴えた。幼子が恐ろしい父親に許してくれと乞うているようだった。
 天尊は耳を傾けなかった。彼らに怒りを覚えたわけでも、謝罪をさせたいわけでもなかった。
 アキラにかけられたシーツをむんずと掴んではぐり上げた。アキラの背中と両膝の裏に手を差し入れ、そっとベッドから抱え上げた。アキラの身体は血液が通っていないかのように冷たかった。まるで本当に陶器人形か、死体のように。
 奥歯をギリッと噛み締めて脳裏に一瞬過った嫌な想像を振り切った。
 天尊がアキラを抱えて部屋の出入り口に向かって動き出し、耀龍と麗祥は慌ててあとを追った。

「お待ちください、天哥々ティエンガコ

「どこ行くのッ?」

「このままにしておいても目覚める確証は無いんだろう」

「それはそうだけど、だからって診せられる医者に心当たりなんてあるの?」

「医者じゃない」

 天尊は足を停めて耀龍と麗祥のほうを振り返った。

「《ウルズの泉》へ行く」
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