ベスティエンⅢ

熒閂

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#24:Die schmerzlose Bestie

The teardrop of the Goddess 01

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「やっ……」

 どさっと地に伏した渋撥シブハツの頭部から赤い血が流れ出るのが、少し離れたレイにも見えた。瞬間、呼吸が停まって声が上手く出ない。
 やめて。やめてください。そんなに血を流したら死んでしまう。
 神様、あの血を止めてください。その分わたしの血をいくら使っても構わないから。
 やめて。やめてください。これ以上あの人を傷つけないで。
 壊れてしまう。あの人が壊れてしまう。あの人から熱が失われてしまう。

「やぁぁああああっ‼」

 絹を裂くような悲鳴。脳裏に幾重にも谺する悲痛な叫び。その声を聞いただけで心臓が扇ぎ、寒気が全身を襲う。人が今際の際にどうにか絞り出すような喉を裂かんばかりの叫びを今生で聞くなんて、此処は地獄か奈落の底か。陽が沈んで影と闇とが融け合う時刻、今まさに此処は生ける人の業が織り成す生き地獄だ。
 絶望を目に捉えることができたならきっと、渋撥から流れ出るあのような浅黒い色をしているのだろう。一秒一秒夜が近づいてきて、血の色と闇の色が混ざり合ってゆく。
 あれは絶望の色だ。あれは悲嘆の色だ。あれは苦悶の色だ。嗚呼、絶望が滲み出て拡がってゆく。
 恐い。未だかつてこれほどまでに恐いことはなかった。このような底無しの恐怖は知らない。此処が地獄でも現世でも、あなたを失うことが自分の手足を失うよりも恐い。

「っ……ちゃ……ハッちゃ……! ハッ……ハッちゃ……!」

 禮は上手く息が吸えず、ハッハッと短い呼吸を繰り返した。全身の震えがとまらない。指先も喉も唇も眼球さえも震えて制御することができない。体が震えて上手く息ができない。息苦しい。言葉なんか出てこない。言葉を押し退けて涙がボロボロと零れ出た。見開いた瞳から止め処なく溢れ出た。落涙も体の震えも自分の意思ではどうにもならない。ただただ泣いて頽れるしかなかった。
 禮の数年来の友人である少女たちも、このような禮を知らなかった。これほど取り乱した姿を見るのは初めてだった。王子と賞賛され、皆から愛され、勇敢で優しく朗らかな禮とはまるで別人だった。禮本人だって自分のこのような一面など今の今まで知りもしなかった。
 涙ながらに泣き叫ぶことが何だ。形振り構わず取り乱すことが何だ。一武人としてのプライドが何だ。あの人が助かるのなら何にだって成り下がる。神様に縋りもするし呪いもする。
 そうか、これが〝女〟としての姿だ。ただひとりの男に命懸けで恋をすることを誓った。
 強く脆くしなやかで儚く、美しい。激しく優しく切なく悲しく、美しい。泣いて泣いて泣き崩れて尚、美しさ以外には何もない。

 ゴッキィンッ!
 大塔ダイトーは、地面に突っ伏している渋撥の頭部にもう一度金属バットを叩きつけた。
 鈍い嫌な音がした。巌石のような巨躯は身動ぎしない。血溜まりが音もなくアスファルトの上を拡がってゆく。
 剃刀花のような男――――噴き出す鮮血のように真っ赤な衣を纏った死神は、風化した眼窩が窪んだ髑髏などではなく、生々しい肌色の皮が張りついた人間の顔をしていた。

「オッオイ。サスガにもうヤバイんじゃねーか……? いくらあの近江オーミでもドタマにマトモにバット喰らったらタダじゃ済めねーだろ」

「頭ハチ割られて全然動かねー。血もスゲー出てるしよ……ガ、ガチで死んでんじゃね……?」

「まっ、まさか。大塔さんでもそこまでは」

「イヤ、大塔さんは近江を殺したいだろ。あの事件あってからは仇だから――――」

 ガラァンッ、と大塔の手からバットが落ちた。
 緋色の男たちはピタリと口を噤んだ。この場の空気は大塔の一挙手一投足が支配していた。大塔が渋撥の後頭部を睨んで黙りこむと、誰も口を開けなかった。
 カラカラカラカラカラ、と大塔の手から離れた金属バットが、アスファルトの上を転がってゆく音が響いた。
 沈黙は、否応なしに緊迫感を高めた。恐ろしい事実でも言葉にしている内はまだよかった。口を開いていれば不安を発散できる。言葉にすれば誰かがそれを否定してくれる。次々生まれてくる不安を、次々と肯定しながら否定してくれる。
 倉庫の隙間から潮風が入りこんできた。頬を撫ぜて首元に絡みついた。生温かい感触は気持ちが悪い。生臭い潮の香は不快だ。
 死は無ではなく、絶望は零度ではない。死は生臭く、絶望は人肌に似た生温かい温度を持つ。死も絶望も悲嘆も未練も後悔も、物質を無に帰す現象ではなく、確然と其処に横たわって在るのだ。

「全部……オドレの所為や。オドレが悪い」

 大塔は憎らしい男に向かって吐き捨てた。

「オドレが〝あの人〟の言うとおり、跡継いで赤菟馬セキトバの総長になっとけば……〝あの人〟は死なずに済んだ」

 大塔の脳内は過去で占められていた。足許に拡がる真っ赤な血溜まりを見詰め、そのなかにすらその姿は在った。視界の端々に、記憶の隅々に、まだいる。まるで生きているみたいに〝あの人〟を思い出す。
 かつて大塔ダイトー轍弥テツヤはあの人に見出され、研磨され、追従し、心酔した。力も時間も誇りも、何を引き替えにしても惜しくなかった。人生のすべてを懸けた。事実、あの人を亡くすと共に正気を失った。
 あの人を、俺のすべてを奪ったのは、目の前で跪いている木偶だ。

「何もかんもオドレの所為や!」

 ドスッ、ドボォッ、ゴキッ!
 大塔は渋撥の肉体を蹴りこんだ。サンドバッグのようにうんともすんとも言わない肉の塊を何度も何度も蹴り飛ばした。
 反応がないのは本当にただの肉の塊と化してしまったということではないのか。緋色の男たちの背筋が途端に冷えた。しかし、大塔はそこに考え至らないのか、最初からそうなってしまってよいと腹をくくっているのか、攻撃を已めようとしなかった。

「あの人はオドレの所為で死んだんや! オドレみたいなクソの所為で! あの人はオドレが殺したんや! 何とか言えや人殺しがァッ!」

「大塔さんもうそれ以上は! マジで死にますよソイツ!」

 見ていられなくなったひとりの男が大塔を羽交い締めにした。それを皮切りに数人の男たちが大塔を止めに入った。
 或る者は大塔にしがみつき、また或る者は言葉で説得しようと、必死になった。普段の大塔はどちらかと言えば冷静な男だ。冷徹と言ってもよい。普段の姿を知っている彼らには、現在の大塔は越えてはいけない一線を見失ってしまったように見えた。

「ブチ殺すッ! 今殺す! コイツだけは必ず俺の手でブチ殺したるんじゃぁああッ!」

 大塔はしがみついてくる男たちを振り払おうとしながら喚き散らした。
 気違いじみたこの慟哭が、粗末な鋼鉄製の檻の中を谺して、薄っぺらい天井を突き破っていけばよい。
 天に打ち上げて轟け。天に打ち上げて響き渡れ。この声があの人に届くように。この怨嗟をあの人が知るように。
 あの人が蘇ることは決してないということは承知した。いくら神様を呪っても、譬え悪魔に魂を売り渡しても、あの人は決して還ってこない。しかし、然らばこの魂ある限り、怨敵だけは許しはしないと心に決めた。

 ――音が…………遠い。遠くで気違いみたいにギャアギャア喚いとるのは大塔のボケか。

 大塔はイカレとる。もうこの世のどこにもいてへん〝アイツ〟を追いかけとる内にイカレてしもた。
 気違いの大塔に同情なんざするか。死ぬまで勝手に好きなことのたまっとれ。大塔になんぼ化け物や人殺しと罵られても、譬えアイツ本人に墓のなかからお前の所為やと恨み言言われてたとしても、俺はアイツの為になんざ死んでやれへん。
 命と力の使い方は決めた。敵からも味方からもバケモン言われてきたが、ようやっと使い途を見つけた。それが正しいか間違っとるかなんかどうでもええ。俺が命懸けるのは禮の為だけや。
 泣くな、禮。俺の為なんかに泣くな。何があっても俺が守ったるさかい……お前に泣かれるのはかなん――……

 禮の泣き声が徐々に小さくなり、そろそろやもうかという頃、夜子ヨルコは禮の手を捕まえた。夜子には禮が次にとるであろう行動が分かった。

「禮。あかんえ」

 禮は夜子のほうを振り返った。その目にはまだ大粒の涙が浮いていた。

「あかん」

 夜子は禮の目を見詰めて今一度しっかりと言い聞かせた。
 夜子の目が何もするなと言っているのは禮にも伝わった。禮は制服の袖でグイッと涙を拭った。

「ごめん」

 禮がそう言った瞬間、夜子は手を握る力を強めた。しかし、禮は夜子の手を振り払った。「みんな、ごめん」と言い残してトンッと夜子から一歩離れた。と、思った矢先、その姿は掻き消えた。

「禮! もうちょお待ッ……」

 霞のように消えたかのように見えた禮は、渋撥のほうへ向かっていた。
 最早誰が止めるのもきかない。地を蹴る足を止められない。衝動に突き動かされて風を切る。
 その衝動は女だからなのか。それとも、戦う武器と意思を持った武人だからなか。どちらでもよい。人でなくともよい。単なる戦う為の道具と化しても構わない。この身が、尋常でなく切れ味のよい抜き身の白刃となっても。




「大塔さん! 女がッ……」

 その声で大塔は振り返った。此方に突進してくる蒼い人影。その姿を視界で捉えた刹那、風を巻いてすぐ横を通過していった。
 そう、まるで疾風だ。風と風がぶつかって弾け飛ぶ狭間。蒼い風は、纏わりつく潮の生臭さを切り裂いた。
 大塔が元の向きへと顔を引き戻すと、渋撥の前に少女が立ちはだかっていた。華奢な肩を震わせ、頬に涙の跡を残し、対敵である大塔を睨んでいた。
 恋しい男の為に泣きながら、か弱き身と知りながら楯となる。その姿が女でないというならば何だ。生粋の武人は、戦う為の修羅は、男ひとりの為に涙しない。男の為に泣くのは、女だ。

「オマエはまるで――……女神やな」

 そのような台詞が大塔の口からポロリと零れ出た。皮肉や厭味ではなかった。

「こんなゴミクズの為に涙流して、自分が楯になって助けたる。コイツが何したか知りもせんとおめでたい女や。コイツにはァオマエみたいな女が体張って庇ったる値打ちあれへんで。オマエ、ほんまやったら俺らみたいな人間には縁があれへんエエとこのお嬢さんなんやろ」

 禮に向かって話しかける大塔の口調は落ち着きを取り戻していた。大塔を押さえていた男たちは手を離して半歩離れた。
 大塔は、はあ、と一息吐いた。はだけた特攻服の襟刳りを正した。

「コイツは人殺しや」

「ハッちゃんが何したとしても!」

 禮は有りっ丈の声を張り上げて大塔の言葉を掻き消した。

「ウチにとってはハッちゃんはハッちゃんやから。何言われてもウチはこっから退けへんよ」

 真っ向から宣戦布告。大塔はハッと鼻先で嘲弄した。

「笑けてくるくらいバカ正直な女や。自分の男やったらそんなことせえへんとは言わへんのやな」

 付き合い始めてから日は浅い。よく知り合って付き合ったわけでもない。付き合う前のことなど何も知らない。未だに互いに知らない部分のほうが多いくらいだ。もしかしたら、目の前の敵のほうが渋撥のことをよく知っているのかもしれない。過去に何か罪を犯したかもしれない。悪人なのかもしれない。隠し事があるのかもしれない。
 わたしの前では優しいあなただ。わたしの大好きなあなただ。わたしは、わたしの見たものしか信じない。禍の口から語られる言葉に決して耳を貸さない。
 ――ウチの知らんハッちゃんが怪物や人殺しでも、ウチは、ウチだけは、ウチの知ってる優しいハッちゃんを信じるよ。

「ハッちゃんが何したとしてもどうでもええの。ハッちゃんのこと好きやから」

 大塔は、迷いのない禮の顔を眺め、自然と嘲笑が漏れた。

「ハッ。これやから女は恐い」

 愛情とは厄介なものだ。気高く傲慢で暴力的で独善的で盲目で執念深い。客観的な視点を失わせ、冷静な判断力を奪い、明白な事実さえも無視させる。善悪や美醜や常識をもあっさりと覆す。
 一時の愛や恋に踊らされて化け物すらも受け容れる。なんて愚かな小娘だ。
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