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#24:Die schmerzlose Bestie
Great Cygnus flluters 03
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赤菟馬の脅威が去ったあと、一気に人がいなくなった倉庫内はシンと静まり返っていた。
和々葉と椛は、地べたにストンと座りこんだ。緊張から解放され、ふたりして抱き合ってポロポロと涙を流した。
伊予も腰が砕けてへなへなとへたりこんだ。
夜子は伊予の肩をポンポンと軽く叩いた。
「伊予は泣けへんのやね。ほんま気ィのしっかりした子ォや」
「夜子に言われたないよ、こんなときまで平気な顔して! 夜子のほうこそどんな心臓してんのッ」
「平気やおへんえ。ウチも必死やったもの。今はみんな無事やったさかい安心してるんえ」
伊予は、夜子に柔らかく微笑まれると何故だか涙腺からじわりと涙が湧いて出た。
制服の袖でグイッと拭って渋撥のほうへ目線を移動させた。
「お兄はん、頭大丈夫なんかな。あんなに血だらけになって……」
伊予の目から渋撥への批難や軽蔑は完全に消え失せ、信頼や尊敬が芽生えていた。大勢の敵の前でも媚びず、少女たちを見捨てず、勇壮に戦う姿を目撃し、素直に見る目が変わった。現金な話だが、自分の目で見る以上に説得力のあることなどない。
「ウチらみんな、渋撥はんになんぼ感謝しても感謝しきれへんね」
「うん。ウチらの為ちゃうけどね」
「禮はその辺の男はんよりもえろう強いけど……渋撥はんはそんな禮でも体張って守ってくれはる、ええ男はんえ」
「うん」
「あんな必死になってくれはる男はん、他にはいはらへんえ」
「うん……」
伊予は噛み締めるように返事して頷いた。
ギギギギギギギギギ。
錆びた鉄が擦れ合う耳障りな音。
少女たちは、これが倉庫の扉が開閉する音であることをもう知っている。赤菟馬の連中が気紛れに引き返してきたのではないかと、心臓がドッドッドッと早鐘を打った。
「近江さーん! 無事ですかーー!」
倉庫内に飛びこんできたのは、聞き覚えのある美作の声だった。
美作は渋撥の姿を発見すると一目散に駆け寄ってきた。そのうしろから鶴榮が歩いて近づいてくる。
「おー、派手にヤラレたなあ」と鶴榮。
「夜子が呼んだ助けっちゅうのは鶴のことか」
美作は渋撥の真っ赤な顔面を間近で見て慌てふためいたが、鶴榮はそこまで動じた様子はなかった。渋撥が人並み外れて頑丈であることを知っているから、命に別状はない無事である確信でもあったのか。
「うわっ、ハチ割られてますやん近江さん! うわわっ、顔もヒドイことになってる~っ!」
渋撥は、視界を右往左往する美作が煩わしくなってチッと舌打ちをした。
「今頃になってノコノコ出てきよって。役立たずが」
「ヒドイッ! これでも最速で駆けつけたんでっせ」
鶴榮はすぐに渋撥から、その傍に立っている禮へと目線を移した。
「禮ちゃんは、ケガは?」
「ウチはあれへんよ。ハッちゃんが守ってくれたから」
「へえ、撥が……」
鶴榮は、少女たちをチラリと見遣った。一見する限り、少女たちは殴られたような形跡も他の怪我も見当たらず、ほぼ無傷だ。
赤菟馬の連中が渋撥に対して少女たちを人質にしたことは容易に想像できる。渋撥は満身創痍、人質は無傷。つまり、渋撥が足手まといを見捨てなかったということだ。プライドの高い王様が、いいように嬲られても耐え忍び、何かを守るという行為をやり遂げたことに感心した。
「ハチ割られてそんだけ血ィ流してよう生きてンなあ、オマエ」
「今日、生まれて初めて死にたない思た」
聞きようによっては世捨て人みたいに絶望的な台詞。しかし、鶴榮はその一言に一条の光明を見出した。禮が渋撥を愛してなかろうが、相思相愛でなかろうが、運命の女でなかろうが、極論どうでもよい。禮の為に行動する限り、渋撥は人らしくしていられる気がした。
鶴榮はパンッと渋撥の肩に手を置いた。
「女の為にそう思うのが男の証拠やなァ」
夜の埠頭は静かだ。ざばあざばあ、波が打ちつける音や近くの大通りを走行する車の音が耳に届く。先まで男たちの集団が熱気を帯びて騒いでいたのが嘘のようだ。緋色の集団も、爆音のバイクも、黒塗りの高級車も跡形もなく消え去った。
禮と夜子以外の少女たちは鶴榮から正確な住所を教えてもらい、各自迎えの車を呼んで帰途に就いた。
渋撥と鶴榮は、海際のギリギリに立ち、夜の海を眺めながら一服していた。大仕事を終えたあとの一服はうまい。少女たちを家に帰してやっと肩の荷が下りた気分だ。
「大塔のヤツァ随分簡単に引けたな」
渋撥がそう言うと、鶴榮は「ああ」と答えた。
「ほんまはこっちに手ェ出す余裕なんざあれへんハズやからな。赤菟馬は襲名争いのゴタゴタがまだ落ち着いてへんねん。大塔がアタマになんのには赤菟馬内部にも少なからず反対派がおった。結構な無茶やって無理矢理アタマに収まったらしいで。何でも強引にやればあとからツケが回ってくる。今はまだそれに備えとかなあかん時期や」
今回、大塔には数の利や人質がついていた。千載一遇のチャンスだった。総力を注げば渋撥を討てないことはなかったのかもしれない。しかし、壊滅的な損失を覚悟しなければならなかった。大塔の地位は盤石ではなかった。手駒を減少させることは彼の立場を危うくし、彼が理想とする赤菟馬そのものが瓦解しかねない。
大塔は決して赤菟馬を犠牲にすることができない。〝あの人〟がこの世に遺した痕跡の内、それだけが彼の手に残ったものだからだ。故に何があっても捨てることができない。
「何があって大塔に取っ捕まったかはあとで聞くが……タイミングが悪かったな、オマエもヤツも」
「タイミングなんざ知るか。次会ったら殺す」
「好きにしたらええ」
渋撥は苦虫を噛み潰したような表情をした。
それはそうと、と鶴榮は煙草を挟んだ指二本で渋撥を指した。
「オマエ、ハチ割られとるんやから一応病院行っとけよ。津伍が紹介してくれるそーや」
「あ? 津伍?」
「外におった。もう帰ったけどな」
津伍は鶴榮が到着するなり擦れ違うようにこの場を後にした。
鶴榮が来たからにはあとのことは万事問題ないという態度だった。鶴榮に、病院名と肩書きが載った誰だか知らない人物の名刺を渡した。津伍が融通が利くと言うくらいだから、かなりの無理難題も通してくれるだろう。大財閥の令息というのは便利なものだ。
「助けへんかったからて、津伍を恨むなよ」
「恨むか。ハナから期待してへん」
渋撥はフーッと紫煙を吐いた。この男が恨まないというのだから本当に恨まないのだろう。
「津伍は、オマエにも大塔にもどっちにも付かん。どっちにも付かれへんっちゅうのもキツイこっちゃ。どっちか立場決めて思いっきしやれたほうがなんぼか楽かもしらん」
「知らん。決めたのはアイツやろ」
「見事な〝天秤〟ぶりや」
渋撥は気が済むまで味わった煙草を海面に投げ入れた。まだ煙草を呑んでいる鶴榮から離れ、禮のほうへと歩いて行った。
禮は夜子と並んでタイヤ止めに腰掛けていた。
渋撥が禮の前にしゃがみこみ、夜子は気を利かして立ち上がってふたりから離れた。
「禮。オマエほんまにケガしてへんか」
「な、ない」
禮は渋撥が間近に寄ると小さくピクッと身体を撥ねさせた。
渋撥はやや気になりつつも禮の手を取った。禮は先ほどよりも大きく肩を跳ね上げて手を引っこめようとしたが、逃さず引き寄せた。
白い手首に拘束された跡がくっきりと残っていた。皮膚が擦り切れて血が滲んでいる。
「ケガあるやろ」
「これくらいはケガした内に入らへんよ」
渋撥は、禮の手がぷるぷると小刻みに震えており、妙だなと思った。
禮は掴まれていないほうの手を渋撥の手の甲に添えた。両手で包むように渋撥の手を持ち上げて自分の頬に触れさせた。
「ハッちゃんお願い。ちょっと手、貸して」
――クソ、血が足らん。今はオネガイの威力に勝てへん。
若干潤んでキラキラしている黒い瞳で見詰められ、渋撥が断るはずがなかった。禮の手も頬もしっとりして柔らかく心地よい。長い睫毛がふるふると微細動する様さえ愛らしい。間近で見詰め合っているとつい抱き締めたい衝動に駆られる。
渋撥が黙って頬を撫でている内に、禮の震えが徐々にとまった。禮は肩から力を抜いて渋撥の手を下ろした。
「ハッちゃんなら……大丈夫」
禮は、ふう、と安堵の息を漏らした。
「さっき……さっきね、男の人にいっぱい触られたとき体が強張ってしもて……もう男の人に触られるのとかあかんかと思ったけど……ハッちゃんなら大丈夫……みたい」
渋撥は再び、俺は莫迦だと痛感した。
穢れを知らない少女が、下卑た男どもに体中をまさぐられて忘れられるはずがない。禮のような人間が、厭が応にも女だと思い知らされて平気なはずがない。涙だけが傷ついた証拠ではない。目に見えない傷を負ったのではないか。何よりも大切な女にこんなにも心細い思いをさせて守り果せたと胸を張って言えるだろうか。
――何があっても俺が守ったる。
もう二度と苦痛も悲しみも与えたくない。もう二度とお前の背を見上げるなどしない。お前の前に立つのは俺だ。どのような敵が立ち塞がっても俺が〝盾〟となり必ず守ると誓う。俺のこの両腕はきっと、その為にある。
渋撥は禮を自分のほうへ引き寄せて抱き締めた。
「ハ、ハッちゃんっ? な、ななな何でくっつくん」
「俺なら大丈夫なんやろ」
「う、うん」と禮の声は裏返った。
渋撥はアスファルトに臀を付けて座りこみ、一回り以上小さな禮の身体を完全に腕の中に囲った。この体勢になってしまっては禮の力ではどうしようもない。ぎゅうぎゅうに抱き締められて少々苦しかったが耐えることにした。
ハハハハ、と笑い声が近づいてきたと思ったら、美作がすぐ傍にしゃがみこんだ。
「イヤイヤ、いま近江さん血だらけなんやから、禮ちゃんの制服に血ィついてまいまっせ。ホラ、この辺汚れて――」
バシッ、と渋撥は禮の肩に触れかけた美作の手を叩き落とした。
「触んな」
「そ、そんな……バイ菌みたいなッ」
渋撥に乱暴に放言された美作は、ガーンとショックを受けた。純粋によかれと思って言ったのにこの扱いはひどい。
禮は渋撥の腕の中で身じろぎしてどうにか顔を上げた。
「ハッちゃんいつまでくっついとくん」
「俺の気が済むまでや」
「えっ、ええ~~💦」
夜子は禮から少し離れたところでひとり立ち、夜風を浴びていた。トントンと肩を叩かれて顔を上げると、煙草を咥えた鶴榮が立っていた。
「トモダチみんな車で帰ってしもたけど、乗せてってもらわんでよかったんか」
「へえ。ウチは禮と帰りますよって」
夜子は鶴榮に向かって笑顔を見せた。鶴榮はいまだ仔細を把握していないが、想像するに大変な夜だったろうに、顔を引き攣らせずに笑えるとは大した胆力だ。
「この辺はあんまり賑やかちゃいますけど、大きな通りまで出たらタクシーいはりますやろか」
夜子はきょろっと辺りを見回したついでに、はたと禮と渋撥で目を留めた。渋撥はまだ禮を腕の中に抱いていた。
口許に手を当てて何かしら一思案したあと「驚きました」と鶴榮に言った。
「渋撥はんは普通の人よりえろう痛みにお強おますな」
「あー……まァ、撥は特別や。ちょお頭の回路おかしなってるさかい、痛みとか簡単にぶっ飛ぶんやな」
「へえ、頭の回路が? そら難儀なことどすな」
夜子のリアクションは安閑としており、鶴榮にも腹の底が見透かせなかった。
「禮が渋撥はんと付き合うことになって、ウチ心配してたんどす」
「人相違反やから?」
イエイエ、と夜子は手をパタパタと振った。
「体の痛みに鈍感な人は心の痛みにも鈍感、て言いますやろ。せやさかい付き合うてる内に渋撥はんが知らず知らず禮を傷つけはるんちゃうかと、ウチが勝手に心配してたんどす」
「それは無きにしも非ずやな。で、嬢ちゃんは撥のこと信用でけたか?」
鶴榮は、まさかな、と思いつつ夜子に問いかけた。
夜子の指摘したとおり、渋撥は他人の気持ちを慮ることのできない男だ。その上、常識に疎く情が薄く、独善的で身勝手だ。男から見てそうなのだから、女から見れば尚のことだろう。そのような男をいきなり信用しろというほうが無理な話だ。
「渋撥はんは無口な人で何考えてはるのかよう分かれへんし、話さはっても乱暴な物言いしはるし。それにケンカしてはるときはそりゃあ恐ろしい男はんどすえ。……せやけど、渋撥はんならきっと、何があっても必ず禮を守っとおくれやすな」
無理であるはずなのに、夜子の口から出たのは鶴榮の予想に反して信頼の言葉だった。
「それは、ワシにはそのとおりやとは答えられへんで」
「何でどすの? 鶴榮はんは渋撥はんと一等仲がよろしいのかと」
夜子は鶴榮のほうへ顔を向けてやや首を傾げた。
「よう知っとるからや。撥は……まァワシもやけど、ぶっ壊すのはお手の物や。せやかて自分殺してまで何かを守るっちゅうのは苦手や」
これは聞き流して構いませんが、と夜子は独り言のようにポツリと話した。
「守るのが苦手、いうのは言い訳どすなあ」
言い訳か。それは男の矜持として聞き捨てならない。聞き流してよいと言いながら聞き捨てならない台詞を交えてくるのが算段なのだとしたら、なかなか侮れない。
「男はんはジッと我慢してひとつの処に留まらはるいうことが嫌いな生き物やから、苦手やって言い訳しはるんとちゃいますやろか。ほんまに大切にしよ思うなら守るのに大変なことなんか、ちっともあらしまへんえ」
クックックッ、と鶴榮は肩を揺すって笑った。
「その歳で言うかァ? 恐い嬢ちゃんやな」
「あら、鶴榮はんがウチを恐がらはることなんか一個もおまへんのに」
ほらほら恐い。そうやって謙遜して決して爪を出さないところがげに恐ろしい。あの禮と同じ齢の少女とは到底思えない。観察眼や洞察力、達観や諦念を通り越し、人智を超えた能力で真実でも見通しているかのような存在感があった。
鶴榮が夜子に抱いたのは、不気味さよりも興味だった。
「嬢ちゃん、ワシが送ってったるわ。バイクのケツ、乗ったことあるか?」
いいえ、と夜子は首を左右に振った。
夜子が申し出は嬉しいが禮のことが気になると言うと、鶴榮は渋撥がどうにかするので心配は無用だと答えた。常識のない男だが、そのくらいの甲斐性は持ち合わせていよう。美作もいることだし、間違っても禮を置いて帰るような真似はしない。
「道すがら、もうちょっと話でもせえへんか」
「へえ……。ほな、よろしゅうお頼申します」
和々葉と椛は、地べたにストンと座りこんだ。緊張から解放され、ふたりして抱き合ってポロポロと涙を流した。
伊予も腰が砕けてへなへなとへたりこんだ。
夜子は伊予の肩をポンポンと軽く叩いた。
「伊予は泣けへんのやね。ほんま気ィのしっかりした子ォや」
「夜子に言われたないよ、こんなときまで平気な顔して! 夜子のほうこそどんな心臓してんのッ」
「平気やおへんえ。ウチも必死やったもの。今はみんな無事やったさかい安心してるんえ」
伊予は、夜子に柔らかく微笑まれると何故だか涙腺からじわりと涙が湧いて出た。
制服の袖でグイッと拭って渋撥のほうへ目線を移動させた。
「お兄はん、頭大丈夫なんかな。あんなに血だらけになって……」
伊予の目から渋撥への批難や軽蔑は完全に消え失せ、信頼や尊敬が芽生えていた。大勢の敵の前でも媚びず、少女たちを見捨てず、勇壮に戦う姿を目撃し、素直に見る目が変わった。現金な話だが、自分の目で見る以上に説得力のあることなどない。
「ウチらみんな、渋撥はんになんぼ感謝しても感謝しきれへんね」
「うん。ウチらの為ちゃうけどね」
「禮はその辺の男はんよりもえろう強いけど……渋撥はんはそんな禮でも体張って守ってくれはる、ええ男はんえ」
「うん」
「あんな必死になってくれはる男はん、他にはいはらへんえ」
「うん……」
伊予は噛み締めるように返事して頷いた。
ギギギギギギギギギ。
錆びた鉄が擦れ合う耳障りな音。
少女たちは、これが倉庫の扉が開閉する音であることをもう知っている。赤菟馬の連中が気紛れに引き返してきたのではないかと、心臓がドッドッドッと早鐘を打った。
「近江さーん! 無事ですかーー!」
倉庫内に飛びこんできたのは、聞き覚えのある美作の声だった。
美作は渋撥の姿を発見すると一目散に駆け寄ってきた。そのうしろから鶴榮が歩いて近づいてくる。
「おー、派手にヤラレたなあ」と鶴榮。
「夜子が呼んだ助けっちゅうのは鶴のことか」
美作は渋撥の真っ赤な顔面を間近で見て慌てふためいたが、鶴榮はそこまで動じた様子はなかった。渋撥が人並み外れて頑丈であることを知っているから、命に別状はない無事である確信でもあったのか。
「うわっ、ハチ割られてますやん近江さん! うわわっ、顔もヒドイことになってる~っ!」
渋撥は、視界を右往左往する美作が煩わしくなってチッと舌打ちをした。
「今頃になってノコノコ出てきよって。役立たずが」
「ヒドイッ! これでも最速で駆けつけたんでっせ」
鶴榮はすぐに渋撥から、その傍に立っている禮へと目線を移した。
「禮ちゃんは、ケガは?」
「ウチはあれへんよ。ハッちゃんが守ってくれたから」
「へえ、撥が……」
鶴榮は、少女たちをチラリと見遣った。一見する限り、少女たちは殴られたような形跡も他の怪我も見当たらず、ほぼ無傷だ。
赤菟馬の連中が渋撥に対して少女たちを人質にしたことは容易に想像できる。渋撥は満身創痍、人質は無傷。つまり、渋撥が足手まといを見捨てなかったということだ。プライドの高い王様が、いいように嬲られても耐え忍び、何かを守るという行為をやり遂げたことに感心した。
「ハチ割られてそんだけ血ィ流してよう生きてンなあ、オマエ」
「今日、生まれて初めて死にたない思た」
聞きようによっては世捨て人みたいに絶望的な台詞。しかし、鶴榮はその一言に一条の光明を見出した。禮が渋撥を愛してなかろうが、相思相愛でなかろうが、運命の女でなかろうが、極論どうでもよい。禮の為に行動する限り、渋撥は人らしくしていられる気がした。
鶴榮はパンッと渋撥の肩に手を置いた。
「女の為にそう思うのが男の証拠やなァ」
夜の埠頭は静かだ。ざばあざばあ、波が打ちつける音や近くの大通りを走行する車の音が耳に届く。先まで男たちの集団が熱気を帯びて騒いでいたのが嘘のようだ。緋色の集団も、爆音のバイクも、黒塗りの高級車も跡形もなく消え去った。
禮と夜子以外の少女たちは鶴榮から正確な住所を教えてもらい、各自迎えの車を呼んで帰途に就いた。
渋撥と鶴榮は、海際のギリギリに立ち、夜の海を眺めながら一服していた。大仕事を終えたあとの一服はうまい。少女たちを家に帰してやっと肩の荷が下りた気分だ。
「大塔のヤツァ随分簡単に引けたな」
渋撥がそう言うと、鶴榮は「ああ」と答えた。
「ほんまはこっちに手ェ出す余裕なんざあれへんハズやからな。赤菟馬は襲名争いのゴタゴタがまだ落ち着いてへんねん。大塔がアタマになんのには赤菟馬内部にも少なからず反対派がおった。結構な無茶やって無理矢理アタマに収まったらしいで。何でも強引にやればあとからツケが回ってくる。今はまだそれに備えとかなあかん時期や」
今回、大塔には数の利や人質がついていた。千載一遇のチャンスだった。総力を注げば渋撥を討てないことはなかったのかもしれない。しかし、壊滅的な損失を覚悟しなければならなかった。大塔の地位は盤石ではなかった。手駒を減少させることは彼の立場を危うくし、彼が理想とする赤菟馬そのものが瓦解しかねない。
大塔は決して赤菟馬を犠牲にすることができない。〝あの人〟がこの世に遺した痕跡の内、それだけが彼の手に残ったものだからだ。故に何があっても捨てることができない。
「何があって大塔に取っ捕まったかはあとで聞くが……タイミングが悪かったな、オマエもヤツも」
「タイミングなんざ知るか。次会ったら殺す」
「好きにしたらええ」
渋撥は苦虫を噛み潰したような表情をした。
それはそうと、と鶴榮は煙草を挟んだ指二本で渋撥を指した。
「オマエ、ハチ割られとるんやから一応病院行っとけよ。津伍が紹介してくれるそーや」
「あ? 津伍?」
「外におった。もう帰ったけどな」
津伍は鶴榮が到着するなり擦れ違うようにこの場を後にした。
鶴榮が来たからにはあとのことは万事問題ないという態度だった。鶴榮に、病院名と肩書きが載った誰だか知らない人物の名刺を渡した。津伍が融通が利くと言うくらいだから、かなりの無理難題も通してくれるだろう。大財閥の令息というのは便利なものだ。
「助けへんかったからて、津伍を恨むなよ」
「恨むか。ハナから期待してへん」
渋撥はフーッと紫煙を吐いた。この男が恨まないというのだから本当に恨まないのだろう。
「津伍は、オマエにも大塔にもどっちにも付かん。どっちにも付かれへんっちゅうのもキツイこっちゃ。どっちか立場決めて思いっきしやれたほうがなんぼか楽かもしらん」
「知らん。決めたのはアイツやろ」
「見事な〝天秤〟ぶりや」
渋撥は気が済むまで味わった煙草を海面に投げ入れた。まだ煙草を呑んでいる鶴榮から離れ、禮のほうへと歩いて行った。
禮は夜子と並んでタイヤ止めに腰掛けていた。
渋撥が禮の前にしゃがみこみ、夜子は気を利かして立ち上がってふたりから離れた。
「禮。オマエほんまにケガしてへんか」
「な、ない」
禮は渋撥が間近に寄ると小さくピクッと身体を撥ねさせた。
渋撥はやや気になりつつも禮の手を取った。禮は先ほどよりも大きく肩を跳ね上げて手を引っこめようとしたが、逃さず引き寄せた。
白い手首に拘束された跡がくっきりと残っていた。皮膚が擦り切れて血が滲んでいる。
「ケガあるやろ」
「これくらいはケガした内に入らへんよ」
渋撥は、禮の手がぷるぷると小刻みに震えており、妙だなと思った。
禮は掴まれていないほうの手を渋撥の手の甲に添えた。両手で包むように渋撥の手を持ち上げて自分の頬に触れさせた。
「ハッちゃんお願い。ちょっと手、貸して」
――クソ、血が足らん。今はオネガイの威力に勝てへん。
若干潤んでキラキラしている黒い瞳で見詰められ、渋撥が断るはずがなかった。禮の手も頬もしっとりして柔らかく心地よい。長い睫毛がふるふると微細動する様さえ愛らしい。間近で見詰め合っているとつい抱き締めたい衝動に駆られる。
渋撥が黙って頬を撫でている内に、禮の震えが徐々にとまった。禮は肩から力を抜いて渋撥の手を下ろした。
「ハッちゃんなら……大丈夫」
禮は、ふう、と安堵の息を漏らした。
「さっき……さっきね、男の人にいっぱい触られたとき体が強張ってしもて……もう男の人に触られるのとかあかんかと思ったけど……ハッちゃんなら大丈夫……みたい」
渋撥は再び、俺は莫迦だと痛感した。
穢れを知らない少女が、下卑た男どもに体中をまさぐられて忘れられるはずがない。禮のような人間が、厭が応にも女だと思い知らされて平気なはずがない。涙だけが傷ついた証拠ではない。目に見えない傷を負ったのではないか。何よりも大切な女にこんなにも心細い思いをさせて守り果せたと胸を張って言えるだろうか。
――何があっても俺が守ったる。
もう二度と苦痛も悲しみも与えたくない。もう二度とお前の背を見上げるなどしない。お前の前に立つのは俺だ。どのような敵が立ち塞がっても俺が〝盾〟となり必ず守ると誓う。俺のこの両腕はきっと、その為にある。
渋撥は禮を自分のほうへ引き寄せて抱き締めた。
「ハ、ハッちゃんっ? な、ななな何でくっつくん」
「俺なら大丈夫なんやろ」
「う、うん」と禮の声は裏返った。
渋撥はアスファルトに臀を付けて座りこみ、一回り以上小さな禮の身体を完全に腕の中に囲った。この体勢になってしまっては禮の力ではどうしようもない。ぎゅうぎゅうに抱き締められて少々苦しかったが耐えることにした。
ハハハハ、と笑い声が近づいてきたと思ったら、美作がすぐ傍にしゃがみこんだ。
「イヤイヤ、いま近江さん血だらけなんやから、禮ちゃんの制服に血ィついてまいまっせ。ホラ、この辺汚れて――」
バシッ、と渋撥は禮の肩に触れかけた美作の手を叩き落とした。
「触んな」
「そ、そんな……バイ菌みたいなッ」
渋撥に乱暴に放言された美作は、ガーンとショックを受けた。純粋によかれと思って言ったのにこの扱いはひどい。
禮は渋撥の腕の中で身じろぎしてどうにか顔を上げた。
「ハッちゃんいつまでくっついとくん」
「俺の気が済むまでや」
「えっ、ええ~~💦」
夜子は禮から少し離れたところでひとり立ち、夜風を浴びていた。トントンと肩を叩かれて顔を上げると、煙草を咥えた鶴榮が立っていた。
「トモダチみんな車で帰ってしもたけど、乗せてってもらわんでよかったんか」
「へえ。ウチは禮と帰りますよって」
夜子は鶴榮に向かって笑顔を見せた。鶴榮はいまだ仔細を把握していないが、想像するに大変な夜だったろうに、顔を引き攣らせずに笑えるとは大した胆力だ。
「この辺はあんまり賑やかちゃいますけど、大きな通りまで出たらタクシーいはりますやろか」
夜子はきょろっと辺りを見回したついでに、はたと禮と渋撥で目を留めた。渋撥はまだ禮を腕の中に抱いていた。
口許に手を当てて何かしら一思案したあと「驚きました」と鶴榮に言った。
「渋撥はんは普通の人よりえろう痛みにお強おますな」
「あー……まァ、撥は特別や。ちょお頭の回路おかしなってるさかい、痛みとか簡単にぶっ飛ぶんやな」
「へえ、頭の回路が? そら難儀なことどすな」
夜子のリアクションは安閑としており、鶴榮にも腹の底が見透かせなかった。
「禮が渋撥はんと付き合うことになって、ウチ心配してたんどす」
「人相違反やから?」
イエイエ、と夜子は手をパタパタと振った。
「体の痛みに鈍感な人は心の痛みにも鈍感、て言いますやろ。せやさかい付き合うてる内に渋撥はんが知らず知らず禮を傷つけはるんちゃうかと、ウチが勝手に心配してたんどす」
「それは無きにしも非ずやな。で、嬢ちゃんは撥のこと信用でけたか?」
鶴榮は、まさかな、と思いつつ夜子に問いかけた。
夜子の指摘したとおり、渋撥は他人の気持ちを慮ることのできない男だ。その上、常識に疎く情が薄く、独善的で身勝手だ。男から見てそうなのだから、女から見れば尚のことだろう。そのような男をいきなり信用しろというほうが無理な話だ。
「渋撥はんは無口な人で何考えてはるのかよう分かれへんし、話さはっても乱暴な物言いしはるし。それにケンカしてはるときはそりゃあ恐ろしい男はんどすえ。……せやけど、渋撥はんならきっと、何があっても必ず禮を守っとおくれやすな」
無理であるはずなのに、夜子の口から出たのは鶴榮の予想に反して信頼の言葉だった。
「それは、ワシにはそのとおりやとは答えられへんで」
「何でどすの? 鶴榮はんは渋撥はんと一等仲がよろしいのかと」
夜子は鶴榮のほうへ顔を向けてやや首を傾げた。
「よう知っとるからや。撥は……まァワシもやけど、ぶっ壊すのはお手の物や。せやかて自分殺してまで何かを守るっちゅうのは苦手や」
これは聞き流して構いませんが、と夜子は独り言のようにポツリと話した。
「守るのが苦手、いうのは言い訳どすなあ」
言い訳か。それは男の矜持として聞き捨てならない。聞き流してよいと言いながら聞き捨てならない台詞を交えてくるのが算段なのだとしたら、なかなか侮れない。
「男はんはジッと我慢してひとつの処に留まらはるいうことが嫌いな生き物やから、苦手やって言い訳しはるんとちゃいますやろか。ほんまに大切にしよ思うなら守るのに大変なことなんか、ちっともあらしまへんえ」
クックックッ、と鶴榮は肩を揺すって笑った。
「その歳で言うかァ? 恐い嬢ちゃんやな」
「あら、鶴榮はんがウチを恐がらはることなんか一個もおまへんのに」
ほらほら恐い。そうやって謙遜して決して爪を出さないところがげに恐ろしい。あの禮と同じ齢の少女とは到底思えない。観察眼や洞察力、達観や諦念を通り越し、人智を超えた能力で真実でも見通しているかのような存在感があった。
鶴榮が夜子に抱いたのは、不気味さよりも興味だった。
「嬢ちゃん、ワシが送ってったるわ。バイクのケツ、乗ったことあるか?」
いいえ、と夜子は首を左右に振った。
夜子が申し出は嬉しいが禮のことが気になると言うと、鶴榮は渋撥がどうにかするので心配は無用だと答えた。常識のない男だが、そのくらいの甲斐性は持ち合わせていよう。美作もいることだし、間違っても禮を置いて帰るような真似はしない。
「道すがら、もうちょっと話でもせえへんか」
「へえ……。ほな、よろしゅうお頼申します」
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