事なかれ主義の回廊

由紀菜

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1.不幸中の幸いとは

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長袖の薄手のカットソーだけでは朝方は肌寒く鬼灯が赤く熟れる初秋に、淹れたての珈琲を啜りながらスマホの画面をじっと見つめては溜息を吐く青年が1DKのリビングでソファに深く沈んでいた。
<今週の土曜日空いてる?>

私立大の経済学部国際経済学科一年の藤咲ふじさき 啓嗣けいしは、同じ学科の胸が大きくて猫目で高身長、派手目なメイクが似合う自信家な女の子に夏前に猛アタックされ二つ返事で交際を始めた。

お互い浮かれて頻繁に会っていた結果、来ると分かっていたはずの魔の三ヶ月目で、啓嗣は早速彼女とのデートを面倒に感じてしまっていたのである。別れたいと思っている訳ではないが、同じ学科で平日は毎日のように顔を合わせるため、会う頻度を下げたい等と要望を出して気まずくなるのは避けたい。良い言い訳を考えるもバイトのシフトも共有しているし、彼女とも仲良くしている自身の男友達と同じ職場だから急なシフトが入ったと嘘をついたとしても直ぐにバレる。

中学・高校の時も両親に感謝したい顔面の良さのお陰か、来るもの拒まずで彼女が途切れたことはなかったが、面倒臭くなると少しずつ冷たい態度を取ってあちらから見限られるのを待つといった、彼は俗に言う【クズ男】の典型的なモデルである。これは古き友人からも歴代の彼女からも言われていることで自覚はしているものの、浮気は一度たりともしたことがないのでクズ男の中ではマシな方だろうと開き直っているどうしようもない男である。

結局、彼女のメッセージは放置し、今日は時間ギリギリに講義室に入って会話する暇を与えないまま一限目の講義を受けながら言い訳を考えることにした。考えつかなかったとしても、その間に気が変わって会いたくなるかもしれないしな、と楽観的に後回しにする啓嗣であった。

そして時間ギリギリに家を出る予定が思ったより時は過ぎていたようで。急いで自転車を漕ぐ羽目になった彼の注意散漫さは、最悪の結末を呼んだ。


彼は自身に何が起こったのか理解できないまま、全身を鉄のハンマーで粉砕されるような衝撃に意識を飛ばした。



◇◇◇


「ぼっちゃま!…ぼっちゃま!」

頭が割れるように痛い。そんな風に耳元で叫ばないでくれ…。

「うる…さ…」

何とか声を絞り出すと、騒がしかった周囲はしんと静まり返り、数名の息を呑む音が聞こえた。目を開けようとしたが、ずっと眠っていたのか細目に入り込む陽射しがとても眩しくて諦めた。

「目を覚ましたな。軽い脳震盪を起こしたので頭に響くのでしょう。どうか皆様声を抑えるようにお願いします。」
しゃがれた初老の落ち着いた指示が通る。
「はっ、はい…申し訳ありません…、ぼっちゃま…。はぁ、今まで生きた心地がしませんでした。」
さっきからぼっちゃまぼっちゃまって、私立大に入れるくらいには一般家庭より少し裕福な経済状況の中で育てられた俺だが、それでも実家は豪邸でもないし使用人を雇うほどの余裕は無い。

だが、どう考えても俺を囲むように数名の人の気配がするし、彼らは自分に向かって声を掛けている。


そして少しずつ思い出したのだ。こうして深い眠りに入る前に、俺は自転車を焦って漕いで大学へ向かっていたこと。十字路の手前の一時停止を無視してスピードを下げずに直進し、右からやってきたミニバンに気付いたときには自転車ごと跳ね飛ばされていたことを。

こめかみがガンガンと脈打つ頭で考える。「ぼっちゃま」の謎は置いておくとして、あんな事故を起こして自分は生きて帰ってきたのだ。一時停止の標識を無視した自分が悪いが、相手も明らかにスピード違反だったと思う。普通なら即死じゃないか?自分が生きているのは不幸中の幸いだ。

だが、他にも不可解なことがある。頭痛以外の痛みがないのだ。全身麻酔をかけられまだ抜けていないなら分かるが、それなら身体を動かす感覚も無くなることだろう。右腕を少し上げてみたがその動作に痛みは生じない。恐る恐るお腹に力を入れてみるも、これも痛くない。

もう分からない。もしかしたらこれは夢でまだ生死を彷徨っている途中なのかもしれない。そう結論づけた俺は思考を止めてもう一度眠ることにした。
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