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後編ークリスマス演習編ー
第二十六話
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それから昼休憩までの三時間ほどは、もう耐えられないくらいに気まずかった。アーサーはあれきり何も喋らないし、終わってやることがなくなってしまったらもっと気まずいので、リースはなるべくゆっくりと課題を処理していた。午後からは教官が来て小講義や指導をしてくれたから、本当にとても助かった。その講義の途中で、教官がアーサーを「もっとちゃんと指導しろ」と叱ってくれた時は、正直かなり気分が良かった。
ーークソ。
落ち着かない。廊下の床を蹴り飛ばしながら、夕食のため食堂に向かう。
ーークソ、クソ、なんで。
どうして拒めなかったんだろう。前のヒートの時みたいに、本当に体が動かなかったわけじゃない。なのにどうして。
キスよりもっと深いことをしたはずなのに、どうしてあの時よりも強烈に、唇の感覚が忘れられないんだろう。
『どこにも行かせない』
そしてキスの感触よりも何度も頭に蘇るのは、あのセリフだ。ヒートでもないのに、あんな目で。あんな声で。
アーサーに何を言われようと、どこへだって行ってやる。父のことを教えてほしいなんて、やっぱり言わなければよかった。心の底からそう思うのに、いざ彼を前にすると、どうして。
「好きだからだろ?」
「す……っ」
夕食のあとの、束の間の自由時間。シャワーの順序の関係でたまたま部屋に二人になったジュリアンが探りを入れてきたので今日のことを端的に話すと、彼はなんでもないようにとんでもないことを言い放った。驚きのあまり固まっていると、ジュリアンは呆れたように笑った。
「なんだ、そこからか?さすがのリースも、そこはもう認めてるもんだと思ってたよ」
「いや、違う……そんなんじゃ」
好きとか、そんな単純なものじゃない。そう言いたいのに、向かい側のベッドに腰掛けるジュリアンの見透かすような視線が痛い。
「じゃあなんだと思うんだよ?今は別にヒートでもないんだろ?」
「それは……オメガとアルファは、普通とは……違うから、その……」
「ふーん」
手が汗ばむ。反論の言葉を探しているうちに、ジュリアンはニヤニヤと笑いながら距離を詰めてきた。
「じゃあ君は、ネイサンやレオンに迫られてもキスするんだな?」
「し……っ、しないよ、するわけないだろ」
そう言うと、ジュリアンはいっそう楽しそうに目を輝かせた。
「な?ならなんであいつらはダメで、寮長はいいの?」
「それは……」
リースは視線を落として、膝を擦り合わせた。
違う。そんな単純な言葉で表せるようなものじゃない。きっとこれは、尊敬とか情景とかそういうものに、本能がうまくマッチしてしまっただけで。
--それだけでは説明できない何かを、あの日からずっと感じているんじゃないか。
そう考えて、リースは慌てて首を振った。
--いやいや、違うに決まってる。
そんなこと思っちゃいけない。考えちゃいけない。
だって、だって--。
「しかし、確かに障害は多いよな。その……番?にならずに一緒になる方法はないのか?」
そんなことをぐるぐると考えている間に、ジュリアンは顎に手を当て、何やら気の早すぎることを考えているようだった。リースはそれを遮るよう、慌てて身を乗り出す。
「ま、待ってよ。そもそもあの人には許嫁が……」
「許嫁!?さすがだな。家が面倒くさそうだとは思っていたけど」
ジュリアンはそう言って大袈裟にリアクションをすると、そのままベッドに倒れこんで仰向けになった。
許嫁。自分で言っておいて、胸がチクリと痛んだ。見知らぬアーサーの許嫁に対してどうしていちいちこんな気持ちになるのか、本当はもう、なんとなく分かっている。
--でも、それでも。
「……でも、聞いてる感じ寮長も君に本気そうだけどな」
ジュリアンは一つ息をつくと、打って変わって静かな声でそう言った。リースは再び膝に視線を落とすと、今朝のことをもう一度思い返した。暗い熱を孕んだ目でリースを見るアーサー。あの脅迫じみた台詞。
あれも、この前の処理室での時も。
やっぱり、アーサーに本気になってはいけない理由が、あまりにも多すぎる。
「……それは、ないよ」
「なんでそう思うんだよ。昔から君のことが好きだったんじゃないのか?そうとしか思えない」
側から見ていたら、確かにそう見えるのかもしれない。でも、リースにはどうしてもそうだとは思えなかった。きっと、他のみんなが思っているように恋愛感情のようなものからアーサーがリースを求めているのなら、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。
ーーどこへも行かせない。
どこか警告のようにさえ聞こえる、あの声色。あれの裏にあるのは、きっとそんな甘い感情じゃない。
リースは一つ息をつくと、静かに口を開いた。
「……僕が思うに、あの人が僕に執着してるのは……。何か、使命感みたいなものからだと思うんだよね」
「……使命感?」
「そう。僕もよく分からないけど……そんな気がするんだ」
アーサーと見つめ合うたびに感じていた、小さな違和感。ちゃんと見つめられているはずなのに、目が合っている気がしない。あのどこか遠くを見ているような目に宿っているものは、おそらく。
「それって……。お父さんとも関係があるのか?」
「分からないけど……。僕は、そんな気がしてる」
だから、聞くのが怖い。
もしも父がーーリースには海に行ってほしくないと、アーサーに言付けていたのだとしたら。
もしもそうだったら、これから先どうしたらいいのだろう。
汗ばむ手のひらを、ギュっと握りしめる。だからやっぱり今日、あんなことを言うべきじゃなかった。
それなのに、知りたいと思ってしまった。
父のことも、だけど--それ以上に、アーサーとの昔のことを。
「……色々あるのかもしれないけどさ。人を好きになるって、いいもんだぜ。君が思ってるより、怖いことじゃないよ」
いつの間にか身体を起こしていたジュリアンが、爽やかな微笑みを浮かべながら言う。でもやっぱりその言葉は、まだまだ遠く感じた。小さい頃から素直にそんなふうに思える人生だったなら、どれだけ生きやすかったのだろうか。
「そうなのかな。……ありがとう」
そう返事をした時、部屋がノックされる音がした。レオンとネイサンだと思ってドアに駆け寄ると、開ける直前に思いがけない低い声が聞こえた。
「ハースト候補生、いるか」
その声に、思わず顔を見合わせる。先に口を開いたのは、目を丸くしたジュリアンの方だった。
「ペンブローク候補生だ。いろいろ聞かれるぞ」
ジュリアンは今日、確かエドワードとペアだったはずだ。少しうんざりしたような表情を見る限り、何か聞かれたりしたのだろうか。リースはそのほぼ吐息のような小声にこくこくと頷くと、大きく返事をしながら扉を開いた。
ーークソ。
落ち着かない。廊下の床を蹴り飛ばしながら、夕食のため食堂に向かう。
ーークソ、クソ、なんで。
どうして拒めなかったんだろう。前のヒートの時みたいに、本当に体が動かなかったわけじゃない。なのにどうして。
キスよりもっと深いことをしたはずなのに、どうしてあの時よりも強烈に、唇の感覚が忘れられないんだろう。
『どこにも行かせない』
そしてキスの感触よりも何度も頭に蘇るのは、あのセリフだ。ヒートでもないのに、あんな目で。あんな声で。
アーサーに何を言われようと、どこへだって行ってやる。父のことを教えてほしいなんて、やっぱり言わなければよかった。心の底からそう思うのに、いざ彼を前にすると、どうして。
「好きだからだろ?」
「す……っ」
夕食のあとの、束の間の自由時間。シャワーの順序の関係でたまたま部屋に二人になったジュリアンが探りを入れてきたので今日のことを端的に話すと、彼はなんでもないようにとんでもないことを言い放った。驚きのあまり固まっていると、ジュリアンは呆れたように笑った。
「なんだ、そこからか?さすがのリースも、そこはもう認めてるもんだと思ってたよ」
「いや、違う……そんなんじゃ」
好きとか、そんな単純なものじゃない。そう言いたいのに、向かい側のベッドに腰掛けるジュリアンの見透かすような視線が痛い。
「じゃあなんだと思うんだよ?今は別にヒートでもないんだろ?」
「それは……オメガとアルファは、普通とは……違うから、その……」
「ふーん」
手が汗ばむ。反論の言葉を探しているうちに、ジュリアンはニヤニヤと笑いながら距離を詰めてきた。
「じゃあ君は、ネイサンやレオンに迫られてもキスするんだな?」
「し……っ、しないよ、するわけないだろ」
そう言うと、ジュリアンはいっそう楽しそうに目を輝かせた。
「な?ならなんであいつらはダメで、寮長はいいの?」
「それは……」
リースは視線を落として、膝を擦り合わせた。
違う。そんな単純な言葉で表せるようなものじゃない。きっとこれは、尊敬とか情景とかそういうものに、本能がうまくマッチしてしまっただけで。
--それだけでは説明できない何かを、あの日からずっと感じているんじゃないか。
そう考えて、リースは慌てて首を振った。
--いやいや、違うに決まってる。
そんなこと思っちゃいけない。考えちゃいけない。
だって、だって--。
「しかし、確かに障害は多いよな。その……番?にならずに一緒になる方法はないのか?」
そんなことをぐるぐると考えている間に、ジュリアンは顎に手を当て、何やら気の早すぎることを考えているようだった。リースはそれを遮るよう、慌てて身を乗り出す。
「ま、待ってよ。そもそもあの人には許嫁が……」
「許嫁!?さすがだな。家が面倒くさそうだとは思っていたけど」
ジュリアンはそう言って大袈裟にリアクションをすると、そのままベッドに倒れこんで仰向けになった。
許嫁。自分で言っておいて、胸がチクリと痛んだ。見知らぬアーサーの許嫁に対してどうしていちいちこんな気持ちになるのか、本当はもう、なんとなく分かっている。
--でも、それでも。
「……でも、聞いてる感じ寮長も君に本気そうだけどな」
ジュリアンは一つ息をつくと、打って変わって静かな声でそう言った。リースは再び膝に視線を落とすと、今朝のことをもう一度思い返した。暗い熱を孕んだ目でリースを見るアーサー。あの脅迫じみた台詞。
あれも、この前の処理室での時も。
やっぱり、アーサーに本気になってはいけない理由が、あまりにも多すぎる。
「……それは、ないよ」
「なんでそう思うんだよ。昔から君のことが好きだったんじゃないのか?そうとしか思えない」
側から見ていたら、確かにそう見えるのかもしれない。でも、リースにはどうしてもそうだとは思えなかった。きっと、他のみんなが思っているように恋愛感情のようなものからアーサーがリースを求めているのなら、ここまで不安な気持ちにはならなかったと思う。
ーーどこへも行かせない。
どこか警告のようにさえ聞こえる、あの声色。あれの裏にあるのは、きっとそんな甘い感情じゃない。
リースは一つ息をつくと、静かに口を開いた。
「……僕が思うに、あの人が僕に執着してるのは……。何か、使命感みたいなものからだと思うんだよね」
「……使命感?」
「そう。僕もよく分からないけど……そんな気がするんだ」
アーサーと見つめ合うたびに感じていた、小さな違和感。ちゃんと見つめられているはずなのに、目が合っている気がしない。あのどこか遠くを見ているような目に宿っているものは、おそらく。
「それって……。お父さんとも関係があるのか?」
「分からないけど……。僕は、そんな気がしてる」
だから、聞くのが怖い。
もしも父がーーリースには海に行ってほしくないと、アーサーに言付けていたのだとしたら。
もしもそうだったら、これから先どうしたらいいのだろう。
汗ばむ手のひらを、ギュっと握りしめる。だからやっぱり今日、あんなことを言うべきじゃなかった。
それなのに、知りたいと思ってしまった。
父のことも、だけど--それ以上に、アーサーとの昔のことを。
「……色々あるのかもしれないけどさ。人を好きになるって、いいもんだぜ。君が思ってるより、怖いことじゃないよ」
いつの間にか身体を起こしていたジュリアンが、爽やかな微笑みを浮かべながら言う。でもやっぱりその言葉は、まだまだ遠く感じた。小さい頃から素直にそんなふうに思える人生だったなら、どれだけ生きやすかったのだろうか。
「そうなのかな。……ありがとう」
そう返事をした時、部屋がノックされる音がした。レオンとネイサンだと思ってドアに駆け寄ると、開ける直前に思いがけない低い声が聞こえた。
「ハースト候補生、いるか」
その声に、思わず顔を見合わせる。先に口を開いたのは、目を丸くしたジュリアンの方だった。
「ペンブローク候補生だ。いろいろ聞かれるぞ」
ジュリアンは今日、確かエドワードとペアだったはずだ。少しうんざりしたような表情を見る限り、何か聞かれたりしたのだろうか。リースはそのほぼ吐息のような小声にこくこくと頷くと、大きく返事をしながら扉を開いた。
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