萎んだ花が開くとき

陽花紫

文字の大きさ
1 / 5

再び花開く

しおりを挟む
 美しき花も、いつかは枯れる。
 若き日のクレアは、その道理を知らなかった。

 陽の光を集めるかのように微笑み、社交界の誰もが振り向くほどに彼女は美しかった。
 しかしその笑みの奥で、クレアは密かに退屈をしていたのだ。
 愛を語る男たちの言葉はどれも同じに聞こえ、贈られる宝石も花束も、まるで夜を照らす灯火のように一瞬で輝きを失っていく。
「あなたの瞳のためなら命を賭ける」
というような甘い言葉を囁かれても、心は動かなかった。
 命など賭けられなくてもいい。ただ傍にいて、朝の光のように温かく笑ってくれる人がいればよかったのである。
 だがその若さゆえに、彼女はそれを軽んじていた。

 ──あの時もし、彼の手を取っていたのなら。

 彼とは、あるひとりの誠実な男であった。地位も名誉もあったが、表立った派手さはなかった。
 クレアはその穏やかな瞳を、退屈だと感じていた。
 そして、結婚の申し出を断った。もっと大きな愛がいつか舞い込んでくるのではないのかと、信じていたからだ。
 その日から、花は少しずつ萎みはじめてしまう。

***

 時は流れ、クレアは四十を過ぎていた。
 かつての美貌は薄れ、鏡の中をのぞけば、その頬の陰影はかすかに深くなっていた。
 だが彼女は、それを嘆くようことはしなかった。涙を流すほどの情熱は、もうクレアの中には残っていなかったのだ。
 社交界から姿を消し、いまは下町の片隅で親戚が営む仕立て屋の手伝いをしていた。針と糸の音が、かつての華やかな音楽のかわりとなっていた。

 ある日の午後、いつもより遅い時間に扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
 クレアが振り返ると、そこには若い男が立っていた。
 金の巻き毛が夕陽に透けて、柔らかく輝いている。どこかで見たような、懐かしいような顔でもあった。
「なにか、お探しで?」
「いえ、その……」
 青年は、しばらくクレアの姿を見つめていた。
 その真剣な眼差しに、クレアは少し居心地の悪さを覚える。
「……失礼ですが、クレア様ではありませんか?」
クレアは思わず、針を置いた。
 その名を呼ぶ者は、この町にはいない。ここでは、ただの“店の手伝い”であったのだ。
「そうですが、なにか?」
「やはり。私は、ライアンと申します。覚えていらっしゃいませんか?」

 ――ライアン。

 その名に、記憶の底から小さな光がこぼれおちる。

 ――あれは、遠い昔の庭園でのことであった。
 音楽と笑い声に包まれた夜のなかで、ひとり迷子になって泣いていた少年をクレアは見つけていたのだ。
 月の下、花の影に座り込んでいた少年に向けて、クレアはそっと声をかけた。
「あなた、大丈夫?」
 彼は頷く代わりに、震える声で母を呼んでいた。
 クレアはその手を取り、男たちに命じて家族を探させた。その後に、泣を拭いて母に抱かれていった少年。
 癖のある金髪、琥珀色の瞳、少し垂れたその目尻。

「……あの時の、あなたなのね」
 クレアの声は、自然と震えていた。
 その姿を目にして、ライアンは穏やかに微笑んだ。
「ずっと、探していました。あの時のお礼を、あなたに伝えたかったのです」

 長い年月の間に、少年は青年と成長を遂げていた。
 その立ち姿には品位があり、落ち着いた言葉には静かな自信があった。

「よかったら、奥へどうぞ」
 クレアは親戚に店頭を任せ、ライアンを奥の客間へと案内した。
「すみません、突然お邪魔してしまいまして」
「いいのよ、気にしないで」

「あの時は、本当にありがとうございました」
 彼はクレアに茶を淹れられるまま、懐から小さな箱を取り出した。
「実はあなたにお会いすることができたらと、何年も探していたのです。……これを、お渡ししたくて」
 箱を開けると、そこには指輪があった。
 銀細工の中に小さな青い石が埋め込まれている。
「……これは?」
「クレア様。どうか私と、結婚してください」

 その時、クレアの手が震えた。
 冗談でも戯れでもなく。ライアンの瞳には、まっすぐな誠意が宿っていた。
 しかしクレアは、あまりの出来事に思わず笑ってしまう。
「あなた、私がいくつだと思っているの?」
「年齢など、関係ありません」
「……私には、あるのよ?それに、もう誰かに愛される資格なんてないの」
「そのようなことは、ありません」

 ライアンは静かに、しかし確かに言葉にした。
「あなたはただ、愛されることを恐れているだけなのでは?」
 その言葉に、クレアの胸の奥で何かが音を立てた。
 それはほんの少し針で刺されたような痛みではあったが、それは次第に熱を生み出す。
 まるで彼の言葉が胸の奥の、そのしぼみかけた花弁を撫でていくようでもあった。

「私はあなたに、何もしてあげられないわ」
「あなたがここにいてくださるだけで、私は幸せです」
 それだけを言って、ライアンはクレアの身を抱き寄せた。
 それはあの時の少年の小さな体ではなかった。力強く、しかし優しい腕。
 クレアは一瞬だけ抵抗したが、いつしかそのぬくもりに身を預けてしまう。
 ライアンの胸の鼓動が、耳のすぐそばで響く。失われた年月が一瞬で溶けていくようでもあった。

 しかし、その静寂を破る声がした。
「クレア!あんた、何してるのさ!」
 店の奥から、親戚の叔母が飛び込んできたのだ。
「もううちの名前を、これ以上汚さないでおくれ!出てっておくれ!」
 その怒鳴り声に、クレアは我に返る。
 ライアンが何か言おうとしたが、クレアはその手を押さえた。
「……わかったわ。出ていきます」

***

 外では、冷ややかな風が吹いていた。
 陽は沈み、街の灯がぼんやりとにじんでいる。
 クレアはライアンと並び、小さくため息をついた。
「行く場所が、なくなってしまったわ」
「では、ぜひ私の家へお越しください」
「そんなこと……」
「いいえ、来てください」
 ライアンの手が、しっかりとクレアの手を握った。
 その手の温もりは、かつて彼女が何度も逃してきた“誰かの手”のようにも思える。
 クレアは静かに頷き、その手を引かれていく。

 ライアンが一人で住んでいるというその屋敷は、想像よりもささやかな大きさであった。
 しかし彼は豪勢な扉を開けることもなく、奥へと足を進めた。
 庭の奥に、木造の小さな離れがあったのだ。
「ここなら、きっと落ち着けるはずです」
 その扉を開けると、どこか懐かしいような匂いが流れ込んでくる。
「……まるで、あのお店みたいね」
「あなたが安心することができるようにと、整えていたのです」
 部屋の中には、机と椅子、そして小さな寝台があるだけであった。
 静けさの中に、ライアンの気遣いと優しさが染み込んでいたのだ。

 机の上には、かつてクレアが愛していた花が一輪。
 その淡い色の花弁を見つめながら、クレアはふと笑みをこぼす。
 それは迷子になっていたライアンに向けて、クレアが差し出した花でもあったのだ。
「あなた、本当に……。私のことを?」
「はい。あなたを見つけるために、大人になったんです」
 その言葉を耳にした瞬間、クレアの中で何かがほどけるような気がした。
 静かに涙が頬を伝い、指先へと落ちる。
 ライアンはその涙を拭い、何も言わずにそっとクレアの身を抱きしめた。

 外では、夜の風が花壇の花を揺らしていた。
 その香りの中で、クレアは静かに目を閉じた。

 ――長い間萎んでいた花が、ようやくひとつ、開いたような気がしていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

狼隊長さんは、私のやわはだのトリコになりました。

汐瀬うに
恋愛
目が覚めたら、そこは獣人たちの国だった。 元看護師の百合は、この世界では珍しい“ヒト”として、狐の婆さんが仕切る風呂屋で働くことになる。 与えられた仕事は、獣人のお客を湯に通し、その体を洗ってもてなすこと。 本来ならこの先にあるはずの行為まで求められてもおかしくないのに、百合の素肌で背中を撫でられた獣人たちは、皆ふわふわの毛皮を揺らして眠りに落ちてしまうのだった。 人間の肌は、獣人にとって子犬の毛並みのようなもの――そう気づいた時には、百合は「眠りを売る“やわはだ嬢”」として静かな人気者になっていた。 そんな百合の元へある日、一つの依頼が舞い込む。 「眠れない狼隊長を、あんたの手で眠らせてやってほしい」 戦場の静けさに怯え、目を閉じれば仲間の最期がよみがえる狼隊長ライガ。 誰よりも強くあろうとする男の震えに触れた百合は、自分もまた失った人を忘れられずにいることを思い出す。 やわらかな人肌と、眠れない心。 静けさを怖がるふたりが、湯気の向こうで少しずつ寄り添っていく、獣人×ヒトの異世界恋愛譚。 [こちらは以前あげていた「やわはだの、お風呂やさん」の改稿ver.になります]

いい加減こっち見ろよ!〜見た目だけだとフラれ続ける私は、どうやら幼馴染の執着愛に気づいていなかったようです。〜

こころ ゆい
恋愛
保育士の八重と外科医の一生は、小学生の頃からの幼馴染。 傍から見れば、儚く清楚に見えるらしい八重は、実は外見にそぐわぬ性格をしていた。 そのせいで、見た目につられて告白してくる男性たちは、ことごとく彼女の中身を知って離れていく。 フラれる度に、やけ食いややけ酒に付き合ってもらっている一生は優しいが、懲りずに同じような恋愛を繰り返す八重に呆れている....と思っていたら? 「....八重の可愛さは、そんなもんじゃないんです。....誰も気付かなくていい。俺だけが知ってればいい」 ーーどうやら、かなり愛されていたようです? ※じれじれ・執着・溺愛 ラブストーリー。🌱 ※この物語は、全て作者の想像で描かれたフィクションです。実際の場所・建物・人物とは関係ありません。🌱

敏腕SEの優しすぎる独占愛

春咲さゆ
恋愛
仕事も恋愛も、兎に角どん底の毎日だった。 あの日、あの雨の夜、貴方に出逢うまでは。 「終わらせてくれたら良かったのに」 人生のどん底にいた、26歳OL。 木崎 茉莉 ~kisaki matsuri~ × 「泣いたらいいよ。傍にいるから」 雨の日に現れた、30歳システムエンジニア。 藤堂 柊真 ~Todo Syuma~ 雨の夜の出会いがもたらした 最高の溺愛ストーリー。

侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾
恋愛
ソフィアは希少なグリーンアイを持つヴィンセントと結婚したが、これは金が欲しいソフィアの父の思惑と高い爵位が欲しいヴィンセントの思惑が一致したからに過ぎない そもそもヴィンセントには美しい恋人がいる 美男美女と名高いヴィンセントとその恋人は身分に大きな差があるために結婚することは叶わないのだ その事をソフィアも耳にしており、この結婚が形ばかりのものであることを知っていた 結婚して早々、ソフィアは実家から連れてきた侍女夫婦とあばら家に住むように言われて… 表紙はかなさんです✨ ありがとうございます😊 2024.07.05

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

氷の宰相補佐と押しつけられた厄災の花嫁

瑞原唯子
恋愛
王命により、アイザックはまだ十歳の少女を妻として娶ることになった。 彼女は生後まもなく始末されたはずの『厄災の姫』である。最近になって生存が判明したが、いまさら王家に迎え入れることも始末することもできない——悩んだ末、国王は序列一位のシェフィールド公爵家に押しつけたのだ。

あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~【after story】

けいこ
恋愛
あの夜、あなたがくれた大切な宝物~御曹司はどうしようもないくらい愛おしく狂おしく愛を囁く~ のafter storyです。 よろしくお願い致しますm(_ _)m

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

処理中です...