萎んだ花が開くとき

陽花紫

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静かに時を待つ

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 夜の帳は、ゆっくりと降りていた。
 遠くで鐘の音がひとつ鳴り、屋敷の窓からこぼれる灯りは庭の花々を照らしていた。
 クレアはその灯りの中で、まだ夢の中にいるような気がしていた。
 つい数時間前まで、彼女はただの仕立て屋の手伝いであった。針と糸の先にしか未来を感じられなかった自らが、いまはこうして知らぬ青年の屋敷に身を寄せている。
 しかしその青年は、もう知らぬ人などではなかった。

「寒くは、ありませんか?」
 そうライアンは、薄手のショールをクレアの肩にかける。
 クレアはわずかに首をすくめながらも、礼を言って微笑んだ。その笑みは、いつのまにか柔らかくなっていた。

 クレアが生活する離れの小屋は、簡素なものであった。
 しかしそのささやかな景色が彼女の心を静めていた。
 部屋の片隅には、木の机と小さな針箱が置かれている。
「どうかこれを、使ってください。あなたが落ち着くまで、好きなように暮らしてくださいね」
「……まるで、私がここで暮らすことを最初から知っていたようね」
「ええ。知っていました」
 ライアンは、少し照れたように微笑んだ。
 その笑みに、クレアは思わず息をのむ。
 彼の瞳の奥には、かつて誰かが彼女に向けたことのない真っ直ぐさがあったのだ。
 打算でも憧れでもない、ただ穏やかに見守る眼差し。
 それはどこか懐かしいような、しかし痛みを伴う温もりでもあった。

 夜風がカーテンを揺らし、ランプの光が一瞬だけライアンの横顔を浮かび上がらせた。
 その横顔はまだわずかに、あの少年の面影を残していた。しかしその声の響きは深く、確かな青年のものでもあった。

「クレア様」
「ライアン、もう“様”はつけないで。いまの私は、ただのクレアなのよ」
 ライアンは、小さく笑う。
「では、……クレア」
 たったそれだけの言葉が、まるで長い鎖を外すように彼女の胸の奥に響いていた。
 ライアンの表情はやわらぎ、子どものように嬉しそうに微笑む。
「クレアのその声を、ずっと聞きたかった」
 そして、クレアの髪を静かに撫でた。

 沈黙が、ふたりを包みこむ。
 ランプの灯は、壁に揺れる影をつくっていた。それはまるで、寄り添う二輪の花のようでもあった。

 クレアは静かに、窓の外を見た。
 街の灯りが遠くで瞬き、どこかで誰かが笑う声がかすかに届く。
 かつて彼女が暮らしていた世界は、あの華々しい光の中にあったのだ。それを遠くから見つめる今のクレアに、不思議と寂しさはなかった。

「ねえ、ライアン」
「はい」
「私、ずっと思っていたの。あの頃の私は、何かを手に入れたくてずっと走っていた。でも気づいたら、両手には何も残っていなかったのよ」
「それでも、あなたは優しかった。誰かのために涙を流せる人でした」
 クレアは小さく、息をのんだ。
「そんなこと、どうして知っているの?」
「噂で聞きました。あなたが貧しい男の子にコートを与えたことや、ご友人のために身代わりになったことも……」
「それは……、昔の話よ」
「いいえ。そういう人は、どんなに時が経っても変わりません」
 その言葉に、クレアは思わず目を伏せた。

 長い年月、彼女は自らの過ちを責め続けていた。
 美しさを盾に男を誘い、その愛から逃げ、心を閉ざしてしまったことを。
 しかしライアンのあたたかな声が、その心を溶かしていく。
「こんな私に、何ができるかしら」
「ここにいてくれるだけで、いいんですよ。クレア」
 その言葉に、クレアの胸の奥で小さな音がした。
 あの日と同じように、また花弁がそっと開くような音が。

「なら……少しだけ、ここにいさせて」
「はい。いつまでも、いてくださいね」

 ふたりの間に、再び沈黙が落ちた。
 互いの呼吸の音が、まるで夜の虫の声と溶け合うように優しく響いていた。

 クレアは机の上の針箱を開け、古い糸巻きを手に取る。
「これを、使っても?」
「もちろん。ここにあるものはすべて、あなたの物ですよ」
 針を持つ手が、かすかに震える。
 慣れた手つきで糸を通し、小さな布切れに針を落とす。その音が一つ一つ、静かな夜へと溶けていく。

 ライアンはその様子を、背後から黙って見つめていた。
「あなたの指先は、やはり綺麗ですね」
「綺麗なんかじゃないわ。節くれ立っているもの」
「それでも、私には一番美しいもののように見えます」
 針が止まり、クレアは顔を上げた。
 ライアンの目が、まっすぐ彼女のことを見つめていた。
 その視線に、息が詰まりそうになる。
「そんなことを言われたのは、初めてよ」
「それなら、これからは何度でも言いますね。あなたは、美しい」
 小さな笑いが、ふたりの間に生まれた。
 その笑いは、どこか懐かしい音をしていた。

 外では風が花壇を撫で、その甘い香りが窓から入り込む。
 クレアはその香りを胸いっぱいに吸い込み、静かに目を閉じた。ほんの少し前まで枯れていたと思っていた心に、再び色が差していくのを感じていた。
 それは恋というよりも、芽吹きにも似たような感覚でもあった。
 まるで生きることの意味が、ようやく少しだけ見えてきたような。ささやかな芽吹きが。

 やがて、ランプの炎が小さく揺れた。
 ライアンは立ち上がり、そっとカーテンを閉めた。
「今日は、もう休みましょう。長い一日でしたからね」
「……ええ」
 彼の背中が扉の向こうに消えると、クレアはふと微笑んだ。
「おやすみなさい、ライアン」
 小さな声が、夜気の中に溶けていった。

 部屋に残るのは、針と糸の音、そして花の香り。
 それらが優しく混ざりながら、彼女の胸の奥へと静かに降り積もっていく。

 萎んだ花は、今夜も静かに息づいていた。
 それはまだ完全には開くことはないものの、確かにそこには光が届いていたのである。
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