萎んだ花が開くとき

陽花紫

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再び花開く

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 美しき花も、いつかは枯れる。
 若き日のクレアは、その道理を知らなかった。

 陽の光を集めるかのように微笑み、社交界の誰もが振り向くほどに彼女は美しかった。
 しかしその笑みの奥で、クレアは密かに退屈をしていたのだ。
 愛を語る男たちの言葉はどれも同じに聞こえ、贈られる宝石も花束も、まるで夜を照らす灯火のように一瞬で輝きを失っていく。
「あなたの瞳のためなら命を賭ける」
というような甘い言葉を囁かれても、心は動かなかった。
 命など賭けられなくてもいい。ただ傍にいて、朝の光のように温かく笑ってくれる人がいればよかったのである。
 だがその若さゆえに、彼女はそれを軽んじていた。

 ──あの時もし、彼の手を取っていたのなら。

 彼とは、あるひとりの誠実な男であった。地位も名誉もあったが、表立った派手さはなかった。
 クレアはその穏やかな瞳を、退屈だと感じていた。
 そして、結婚の申し出を断った。もっと大きな愛がいつか舞い込んでくるのではないのかと、信じていたからだ。
 その日から、花は少しずつ萎みはじめてしまう。

***

 時は流れ、クレアは四十を過ぎていた。
 かつての美貌は薄れ、鏡の中をのぞけば、その頬の陰影はかすかに深くなっていた。
 だが彼女は、それを嘆くようことはしなかった。涙を流すほどの情熱は、もうクレアの中には残っていなかったのだ。
 社交界から姿を消し、いまは下町の片隅で親戚が営む仕立て屋の手伝いをしていた。針と糸の音が、かつての華やかな音楽のかわりとなっていた。

 ある日の午後、いつもより遅い時間に扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
 クレアが振り返ると、そこには若い男が立っていた。
 金の巻き毛が夕陽に透けて、柔らかく輝いている。どこかで見たような、懐かしいような顔でもあった。
「なにか、お探しで?」
「いえ、その……」
 青年は、しばらくクレアの姿を見つめていた。
 その真剣な眼差しに、クレアは少し居心地の悪さを覚える。
「……失礼ですが、クレア様ではありませんか?」
クレアは思わず、針を置いた。
 その名を呼ぶ者は、この町にはいない。ここでは、ただの“店の手伝い”であったのだ。
「そうですが、なにか?」
「やはり。私は、ライアンと申します。覚えていらっしゃいませんか?」

 ――ライアン。

 その名に、記憶の底から小さな光がこぼれおちる。

 ――あれは、遠い昔の庭園でのことであった。
 音楽と笑い声に包まれた夜のなかで、ひとり迷子になって泣いていた少年をクレアは見つけていたのだ。
 月の下、花の影に座り込んでいた少年に向けて、クレアはそっと声をかけた。
「あなた、大丈夫?」
 彼は頷く代わりに、震える声で母を呼んでいた。
 クレアはその手を取り、男たちに命じて家族を探させた。その後に、泣を拭いて母に抱かれていった少年。
 癖のある金髪、琥珀色の瞳、少し垂れたその目尻。

「……あの時の、あなたなのね」
 クレアの声は、自然と震えていた。
 その姿を目にして、ライアンは穏やかに微笑んだ。
「ずっと、探していました。あの時のお礼を、あなたに伝えたかったのです」

 長い年月の間に、少年は青年と成長を遂げていた。
 その立ち姿には品位があり、落ち着いた言葉には静かな自信があった。

「よかったら、奥へどうぞ」
 クレアは親戚に店頭を任せ、ライアンを奥の客間へと案内した。
「すみません、突然お邪魔してしまいまして」
「いいのよ、気にしないで」

「あの時は、本当にありがとうございました」
 彼はクレアに茶を淹れられるまま、懐から小さな箱を取り出した。
「実はあなたにお会いすることができたらと、何年も探していたのです。……これを、お渡ししたくて」
 箱を開けると、そこには指輪があった。
 銀細工の中に小さな青い石が埋め込まれている。
「……これは?」
「クレア様。どうか私と、結婚してください」

 その時、クレアの手が震えた。
 冗談でも戯れでもなく。ライアンの瞳には、まっすぐな誠意が宿っていた。
 しかしクレアは、あまりの出来事に思わず笑ってしまう。
「あなた、私がいくつだと思っているの?」
「年齢など、関係ありません」
「……私には、あるのよ?それに、もう誰かに愛される資格なんてないの」
「そのようなことは、ありません」

 ライアンは静かに、しかし確かに言葉にした。
「あなたはただ、愛されることを恐れているだけなのでは?」
 その言葉に、クレアの胸の奥で何かが音を立てた。
 それはほんの少し針で刺されたような痛みではあったが、それは次第に熱を生み出す。
 まるで彼の言葉が胸の奥の、そのしぼみかけた花弁を撫でていくようでもあった。

「私はあなたに、何もしてあげられないわ」
「あなたがここにいてくださるだけで、私は幸せです」
 それだけを言って、ライアンはクレアの身を抱き寄せた。
 それはあの時の少年の小さな体ではなかった。力強く、しかし優しい腕。
 クレアは一瞬だけ抵抗したが、いつしかそのぬくもりに身を預けてしまう。
 ライアンの胸の鼓動が、耳のすぐそばで響く。失われた年月が一瞬で溶けていくようでもあった。

 しかし、その静寂を破る声がした。
「クレア!あんた、何してるのさ!」
 店の奥から、親戚の叔母が飛び込んできたのだ。
「もううちの名前を、これ以上汚さないでおくれ!出てっておくれ!」
 その怒鳴り声に、クレアは我に返る。
 ライアンが何か言おうとしたが、クレアはその手を押さえた。
「……わかったわ。出ていきます」

***

 外では、冷ややかな風が吹いていた。
 陽は沈み、街の灯がぼんやりとにじんでいる。
 クレアはライアンと並び、小さくため息をついた。
「行く場所が、なくなってしまったわ」
「では、ぜひ私の家へお越しください」
「そんなこと……」
「いいえ、来てください」
 ライアンの手が、しっかりとクレアの手を握った。
 その手の温もりは、かつて彼女が何度も逃してきた“誰かの手”のようにも思える。
 クレアは静かに頷き、その手を引かれていく。

 ライアンが一人で住んでいるというその屋敷は、想像よりもささやかな大きさであった。
 しかし彼は豪勢な扉を開けることもなく、奥へと足を進めた。
 庭の奥に、木造の小さな離れがあったのだ。
「ここなら、きっと落ち着けるはずです」
 その扉を開けると、どこか懐かしいような匂いが流れ込んでくる。
「……まるで、あのお店みたいね」
「あなたが安心することができるようにと、整えていたのです」
 部屋の中には、机と椅子、そして小さな寝台があるだけであった。
 静けさの中に、ライアンの気遣いと優しさが染み込んでいたのだ。

 机の上には、かつてクレアが愛していた花が一輪。
 その淡い色の花弁を見つめながら、クレアはふと笑みをこぼす。
 それは迷子になっていたライアンに向けて、クレアが差し出した花でもあったのだ。
「あなた、本当に……。私のことを?」
「はい。あなたを見つけるために、大人になったんです」
 その言葉を耳にした瞬間、クレアの中で何かがほどけるような気がした。
 静かに涙が頬を伝い、指先へと落ちる。
 ライアンはその涙を拭い、何も言わずにそっとクレアの身を抱きしめた。

 外では、夜の風が花壇の花を揺らしていた。
 その香りの中で、クレアは静かに目を閉じた。

 ――長い間萎んでいた花が、ようやくひとつ、開いたような気がしていた。
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