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初夏の陽光が、王宮の庭園に降り注いでいた。
磨き上げられた白亜のテラスから続く広大な芝生は、まるで緑のビロードの絨毯のようだ。色とりどりの薔薇が甘い香りを放ち、噴水が弾ける水音は、軽やかな弦楽四重奏の調べと溶け合って、気怠くも優雅な午後の空気を満たしている。
年に一度、王宮が主催するガーデンパーティー。それは、王都の社交界における権威と流行が、最も鮮やかに可視化される舞台でもあった。
そして今日、この場を支配しているのは、間違いなく一つの色だった。
チャコールグレー。ペールラベンダー。ダスティブルー。スモーキーミント。
くすんだ、それでいて洗練された中間色のグラデーションが、庭園のそこここで揺らめいている。それらはすべて、今や王都の令嬢たちがこぞって求めるアトリエ――「アウラ」のドレスだった。
「まあ、カトリーヌ様! そのドレス、アウラの『夜明け(オーブ)』シリーズでしょう? そのドレープ、まるで彫刻みたい……本当に素敵!」
「ありがとう、イザベラ様。あなたこそ、その『霧(ブリューム)』のオーガンジー、素晴らしいわ。何より、こんなに自由でいられるなんて! お父様世代の殿方は『淑女らしくない』なんて眉をひそめるけれど、もうあの締め付けるだけの鎧のようなドレスには戻れないわよね」
囁かれる賞賛の声は、もはやセラフィナ・ド・ヴァレンシアという個人の名を超え、「アウラ」というブランドそのものに向けられていた。
旧来のコルセットで締め上げるようなデザインではない。身体の線を優美に見せながらも、着る者の自由を束縛しない軽やかさ。それでいて、誰もが見惚れる革新的なデザイン。
それは、セラフィナが打ち立てた新しい時代の美学だった。彼女が追放されたあの日から、わずか数ヶ月。王都の流行は、完全に塗り替えられていた。
その光景を、テラスの隅から苦々しい表情で見つめる一組の男女がいた。
「何なの、あちらは……! まるで色のない亡霊の集会じゃないの! それとも、揃いも揃って喪にでも服しているのかしら?」
ヴィヴィアン・ルクレールは、扇で顔を隠しながら毒づいた。彼女が今日のために誂えさせたドレスは、伝統派御用達の老舗メゾン「グッチア・インペリアル」の最新作。燃えるような真紅のシルクに、これでもかと金糸の刺繍と大粒の宝石が縫い付けられている。一年前ならば、間違いなくパーティーの華と賞賛されたであろう逸品だ。
だが、今の庭園では、その派手さがかえって悪目立ちしていた。まるで、繊細な水彩画の中に無理やり置かれた、原色の油絵のように。周囲の令嬢たちが纏う「アウラ」のドレスの、知的で洗練された空気感の中で、ヴィヴィアンの装いはひどく野暮ったく、時代遅れに見えた。
「落ち着け、ヴィヴィアン。流行など所詮は泡沫だ。伝統も格式もない、あんな煤けた色の布切れが、いつまでも続くものか。すぐに皆、本物の価値を思い出すさ」
隣に立つジュリアン・ベルフォートが、気休めを口にする。だが、その声にはいつもの傲慢な響きが欠けていた。彼の視線もまた、庭園に広がる光景に据え付けられている。
忌々しい。あの女、セラフィナ。
てっきり王都から逃げ出し、どこかの田舎で惨めに暮らしているものとばかり思っていた。それがどうだ。あのアトリエ「アウラ」とやらが、まさかここまで持て囃されるとは。
父であるベルフォート公爵が、モラン領にあるという工房に「処置」を施したと聞いていた。これで息の根は止まったはずだった。それなのに、この状況は何だ?
「ジュリアン様、あなた、本当にあの女を潰せるの? このままじゃ、わたくしが笑いものよ!」
ヴィヴィアンがヒステリックに囁く。
「案ずるな。父上が抜かりなく手を打っている。所詮は女子供の遊びだ。すぐに化けの皮は剥がれるさ」
ジュリアンはそう嘯きながらも、内心の焦りを隠せないでいた。彼は、セラフィナの成功を認めたくなかった。自分が捨てた石ころが、磨かれていないだけの極上の宝石だったなどと、断じて認めるわけにはいかなかったのだ。
その時だった。
庭園の入り口が、ひときわ大きくざわめいた。人々の視線が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、一点に集中する。
そこに立っていたのは、セラフィナ・ド・ヴァレンシアと、セバスチャン・モラン公爵だった。
会場の空気が、息を呑む音で満たされる。
セラフィナが纏っていたのは、これまでの「アウラ」のどの作品とも違う、異次元のドレスだった。
色は、ない。
あえて言うなら、それは光そのものだった。極細のエーテル織の糸で織り上げられた生地は、まるで月の光を溶かし込んで固めたかのように、内側から淡い燐光を放っている。陽光の角度が変わるたび、その表面には虹色のスペクトルが走り、見る者の目を幻惑する。
デザインは驚くほどシンプルだ。余計な装飾は一切なく、ただ流れるようなシルエットが、彼女のしなやかな身体のラインを完璧に引き立てている。それは、彼女の最高傑作「ニューロ・レンズ」が可能にした、思考の速度で直接エーテルを編み上げる技術でなければ決して創り出せない、魔術と芸術の究極の融合体だった。
隣に立つセバスチャンのフロックコートもまた、セラフィナのドレスと呼応するように、光沢を抑えた深いミッドナイトブルーの生地で仕立てられている。ベストに覗く銀糸の刺繍は、セラフィナのドレスが放つ光のパターンと、どこか似通っていた。
二人が並んで立つ姿は、もはや単なる男女のペアではない。一つの完成された世界観。新しい時代の到来を告げる、絶対的な権威の象徴そのものだった。
「……っ!」
ヴィヴィアンは扇を握りしめるあまり、骨が軋む音を立てた。自分のドレスが、急に色褪せた安物の衣装に思えてくる。あのドレスの前では、どんな宝石も金糸も、ただのガラクタに等しい。
「ジュリアン様、行きましょう」
ヴィヴィアンが、ジュリアンの腕を強くつねった。
「何?」
「ご挨拶なさいな、あなたの『元』婚約者に。彼女がどれだけ変わったか、その目で確かめて……そして、思い出させて差し上げるのよ。あなたという踏み台があったからこそ、今の彼女があるのだとね」
その言葉は、ジュリアンの歪んだ自尊心を的確に刺激した。そうだ。あの女がここまでやれているのは、俺が捨ててやったからだ。俺という存在が、彼女のちっぽけな才能に火をつけたに過ぎない。
自分が優位でなければ気が済まない。ジュリアンはヴィヴィアンに促されるまま、ゆっくりと人々の輪の中心へと歩き出した。
セラフィナは、セバスチャンとグラスを片手に言葉を交わしながらも、ジュリアンたちの接近にはとうに気づいていた。
来た。
彼女の心は、凪いだ湖面のように静かだった。隣に立つセバスチャンの気配が、何よりの防壁となってくれている。
「やあ、セラフィナ。ずいぶんと羽を伸ばしているじゃないか」
ジュリアンは、わざとらしく親しげな口調で声をかけた。その目は、値踏みするように彼女のドレスを上から下まで眺めている。
「君がそうして好きにやれているのを見ると、僕も嬉しいよ。僕が君を自由にしてやったおかげで、ようやくそのささやかな才能を活かす場所を見つけられたようだからね」
周囲の貴族たちが、息を詰めて成り行きを見守っている。婚約破棄劇の当事者たちの、公の場での再会。これ以上の見世物はない。
ジュリアンは、セラフィナが動揺するか、あるいは怒りを露わにするか、そんな反応を期待していた。だが、彼女の表情は完璧な微笑みをたたえたまま、微動だにしなかった。
「まあ、ベルフォート様。ごきげんよう。ルクレール嬢もご一緒でしたのね」
凛、と澄んだ声が響く。それは、かつての彼に従順だった令嬢の声とは全く違う、確固たる自信に裏打ちされた響きを持っていた。
「お二人とも、本日は随分と……情熱的な装いですこと。わたくし、何かよほど心を乱されることでもあって、必死に虚勢を張っておられるのかと、つい心配してしまいましたわ」
予想外の言葉に、ジュリアンは絶句した。
セラフィナは、慈悲深い聖女のような眼差しで彼らを見つめた。
「あら、失礼いたしました。わたくしの早とちりだったようですわね。もし、流行のことでお悩みでしたら、いつでも……とは参りませんが、アトリエにご相談いただいてもよろしくてよ? ……もっとも、お二人のように『伝統』を重んじる方々には、わたくしどもの『革新』は、少し刺激が強すぎるかもしれませんけれど」
彼女はそこで言葉を切り、ふわりとセバスチャンの腕に自らの手を重ねた。
「それに、わたくしの公私にわたる相談相手は、すべてこちらにおりますので。ベルフォート様のお手を煩わせるようなことは、未来永劫ございませんわ」
完璧な淑女の作法で告げられた、完璧な拒絶。
セバスチャンが、ジュリアンに向かって軽く顎を引いた。それは儀礼的な会釈の形をとりながらも、その黒曜石のような瞳の奥には、一片の容赦もない冷たい光が宿っていた。それは、道端の石ころを見るような、完全な軽蔑の色だった。
ジュリアンの顔が、まず白くなり、次いで赤く染まった。
屈辱。
公衆の面前で、彼はセラフィナに「あなたはもう必要ない」と、この上なく丁寧に、そして残酷に突きつけられたのだ。
周囲から、くすくすという押し殺した笑い声が聞こえる。ヴィヴィアンが、信じられないものを見る目でセラフィナを睨みつけている。
「……失礼する」
ジュリアンはそれだけを絞り出すと、踵を返し、逃げるようにその場を去った。ヴィヴィアンもまた、真っ赤な顔でその後を追う。
嵐が去った後、セバスチャンがセラフィナに低く囁いた。
「見事な手綱さばきだ。最高のデモンストレーションになったな」
「練習台としては、ちょうどよろしいでしょう?」
セラフィナはシャンパングラスを口に運びながら、静かに応じた。
「これから私たちが向き合うのは、もっと大きく、もっと狡猾な『市場(けもの)』ですもの」
二人の視線が交錯する。言葉はなくとも、互いの覚悟と信頼は痛いほどに伝わっていた。
セラフィナは、再び庭園全体を見渡した。
あの令嬢も、あちらの夫人も、そして向こうで談笑している男爵令嬢も。彼女たちが纏う「アウラ」のドレス。その一枚一枚に、彼女が仕掛けた小さな罠――ベルフォート家の瘴気にのみ共鳴する「診断用サブルーン」が、静かに眠っている。
この庭園そのものが、彼女の仕掛けた巨大な検知網。壮大なチェス盤だ。
あとは、向こうが駒を動かすのを待つだけ。
破滅への引き金を、彼ら自身が引くのを。
その時、セラフィナの隣に立つセバスチャンの視界の端が、ある光景を捉えた。
テラスの奥、柱の影で、ベルフォート公爵が腹心の部下らしき男に、何かを低く命じている。男は深く頷くと、誰にも気づかれぬよう、足早に会場を後にした。
セバスチャンは何も言わず、ただセラフィナの肩をそっと抱いた。
始まった。
静かなパーティーの喧騒の裏で、運命の歯車が、最後の一回転を始めるための確かな音を立てていた。
磨き上げられた白亜のテラスから続く広大な芝生は、まるで緑のビロードの絨毯のようだ。色とりどりの薔薇が甘い香りを放ち、噴水が弾ける水音は、軽やかな弦楽四重奏の調べと溶け合って、気怠くも優雅な午後の空気を満たしている。
年に一度、王宮が主催するガーデンパーティー。それは、王都の社交界における権威と流行が、最も鮮やかに可視化される舞台でもあった。
そして今日、この場を支配しているのは、間違いなく一つの色だった。
チャコールグレー。ペールラベンダー。ダスティブルー。スモーキーミント。
くすんだ、それでいて洗練された中間色のグラデーションが、庭園のそこここで揺らめいている。それらはすべて、今や王都の令嬢たちがこぞって求めるアトリエ――「アウラ」のドレスだった。
「まあ、カトリーヌ様! そのドレス、アウラの『夜明け(オーブ)』シリーズでしょう? そのドレープ、まるで彫刻みたい……本当に素敵!」
「ありがとう、イザベラ様。あなたこそ、その『霧(ブリューム)』のオーガンジー、素晴らしいわ。何より、こんなに自由でいられるなんて! お父様世代の殿方は『淑女らしくない』なんて眉をひそめるけれど、もうあの締め付けるだけの鎧のようなドレスには戻れないわよね」
囁かれる賞賛の声は、もはやセラフィナ・ド・ヴァレンシアという個人の名を超え、「アウラ」というブランドそのものに向けられていた。
旧来のコルセットで締め上げるようなデザインではない。身体の線を優美に見せながらも、着る者の自由を束縛しない軽やかさ。それでいて、誰もが見惚れる革新的なデザイン。
それは、セラフィナが打ち立てた新しい時代の美学だった。彼女が追放されたあの日から、わずか数ヶ月。王都の流行は、完全に塗り替えられていた。
その光景を、テラスの隅から苦々しい表情で見つめる一組の男女がいた。
「何なの、あちらは……! まるで色のない亡霊の集会じゃないの! それとも、揃いも揃って喪にでも服しているのかしら?」
ヴィヴィアン・ルクレールは、扇で顔を隠しながら毒づいた。彼女が今日のために誂えさせたドレスは、伝統派御用達の老舗メゾン「グッチア・インペリアル」の最新作。燃えるような真紅のシルクに、これでもかと金糸の刺繍と大粒の宝石が縫い付けられている。一年前ならば、間違いなくパーティーの華と賞賛されたであろう逸品だ。
だが、今の庭園では、その派手さがかえって悪目立ちしていた。まるで、繊細な水彩画の中に無理やり置かれた、原色の油絵のように。周囲の令嬢たちが纏う「アウラ」のドレスの、知的で洗練された空気感の中で、ヴィヴィアンの装いはひどく野暮ったく、時代遅れに見えた。
「落ち着け、ヴィヴィアン。流行など所詮は泡沫だ。伝統も格式もない、あんな煤けた色の布切れが、いつまでも続くものか。すぐに皆、本物の価値を思い出すさ」
隣に立つジュリアン・ベルフォートが、気休めを口にする。だが、その声にはいつもの傲慢な響きが欠けていた。彼の視線もまた、庭園に広がる光景に据え付けられている。
忌々しい。あの女、セラフィナ。
てっきり王都から逃げ出し、どこかの田舎で惨めに暮らしているものとばかり思っていた。それがどうだ。あのアトリエ「アウラ」とやらが、まさかここまで持て囃されるとは。
父であるベルフォート公爵が、モラン領にあるという工房に「処置」を施したと聞いていた。これで息の根は止まったはずだった。それなのに、この状況は何だ?
「ジュリアン様、あなた、本当にあの女を潰せるの? このままじゃ、わたくしが笑いものよ!」
ヴィヴィアンがヒステリックに囁く。
「案ずるな。父上が抜かりなく手を打っている。所詮は女子供の遊びだ。すぐに化けの皮は剥がれるさ」
ジュリアンはそう嘯きながらも、内心の焦りを隠せないでいた。彼は、セラフィナの成功を認めたくなかった。自分が捨てた石ころが、磨かれていないだけの極上の宝石だったなどと、断じて認めるわけにはいかなかったのだ。
その時だった。
庭園の入り口が、ひときわ大きくざわめいた。人々の視線が、まるで磁石に引かれる砂鉄のように、一点に集中する。
そこに立っていたのは、セラフィナ・ド・ヴァレンシアと、セバスチャン・モラン公爵だった。
会場の空気が、息を呑む音で満たされる。
セラフィナが纏っていたのは、これまでの「アウラ」のどの作品とも違う、異次元のドレスだった。
色は、ない。
あえて言うなら、それは光そのものだった。極細のエーテル織の糸で織り上げられた生地は、まるで月の光を溶かし込んで固めたかのように、内側から淡い燐光を放っている。陽光の角度が変わるたび、その表面には虹色のスペクトルが走り、見る者の目を幻惑する。
デザインは驚くほどシンプルだ。余計な装飾は一切なく、ただ流れるようなシルエットが、彼女のしなやかな身体のラインを完璧に引き立てている。それは、彼女の最高傑作「ニューロ・レンズ」が可能にした、思考の速度で直接エーテルを編み上げる技術でなければ決して創り出せない、魔術と芸術の究極の融合体だった。
隣に立つセバスチャンのフロックコートもまた、セラフィナのドレスと呼応するように、光沢を抑えた深いミッドナイトブルーの生地で仕立てられている。ベストに覗く銀糸の刺繍は、セラフィナのドレスが放つ光のパターンと、どこか似通っていた。
二人が並んで立つ姿は、もはや単なる男女のペアではない。一つの完成された世界観。新しい時代の到来を告げる、絶対的な権威の象徴そのものだった。
「……っ!」
ヴィヴィアンは扇を握りしめるあまり、骨が軋む音を立てた。自分のドレスが、急に色褪せた安物の衣装に思えてくる。あのドレスの前では、どんな宝石も金糸も、ただのガラクタに等しい。
「ジュリアン様、行きましょう」
ヴィヴィアンが、ジュリアンの腕を強くつねった。
「何?」
「ご挨拶なさいな、あなたの『元』婚約者に。彼女がどれだけ変わったか、その目で確かめて……そして、思い出させて差し上げるのよ。あなたという踏み台があったからこそ、今の彼女があるのだとね」
その言葉は、ジュリアンの歪んだ自尊心を的確に刺激した。そうだ。あの女がここまでやれているのは、俺が捨ててやったからだ。俺という存在が、彼女のちっぽけな才能に火をつけたに過ぎない。
自分が優位でなければ気が済まない。ジュリアンはヴィヴィアンに促されるまま、ゆっくりと人々の輪の中心へと歩き出した。
セラフィナは、セバスチャンとグラスを片手に言葉を交わしながらも、ジュリアンたちの接近にはとうに気づいていた。
来た。
彼女の心は、凪いだ湖面のように静かだった。隣に立つセバスチャンの気配が、何よりの防壁となってくれている。
「やあ、セラフィナ。ずいぶんと羽を伸ばしているじゃないか」
ジュリアンは、わざとらしく親しげな口調で声をかけた。その目は、値踏みするように彼女のドレスを上から下まで眺めている。
「君がそうして好きにやれているのを見ると、僕も嬉しいよ。僕が君を自由にしてやったおかげで、ようやくそのささやかな才能を活かす場所を見つけられたようだからね」
周囲の貴族たちが、息を詰めて成り行きを見守っている。婚約破棄劇の当事者たちの、公の場での再会。これ以上の見世物はない。
ジュリアンは、セラフィナが動揺するか、あるいは怒りを露わにするか、そんな反応を期待していた。だが、彼女の表情は完璧な微笑みをたたえたまま、微動だにしなかった。
「まあ、ベルフォート様。ごきげんよう。ルクレール嬢もご一緒でしたのね」
凛、と澄んだ声が響く。それは、かつての彼に従順だった令嬢の声とは全く違う、確固たる自信に裏打ちされた響きを持っていた。
「お二人とも、本日は随分と……情熱的な装いですこと。わたくし、何かよほど心を乱されることでもあって、必死に虚勢を張っておられるのかと、つい心配してしまいましたわ」
予想外の言葉に、ジュリアンは絶句した。
セラフィナは、慈悲深い聖女のような眼差しで彼らを見つめた。
「あら、失礼いたしました。わたくしの早とちりだったようですわね。もし、流行のことでお悩みでしたら、いつでも……とは参りませんが、アトリエにご相談いただいてもよろしくてよ? ……もっとも、お二人のように『伝統』を重んじる方々には、わたくしどもの『革新』は、少し刺激が強すぎるかもしれませんけれど」
彼女はそこで言葉を切り、ふわりとセバスチャンの腕に自らの手を重ねた。
「それに、わたくしの公私にわたる相談相手は、すべてこちらにおりますので。ベルフォート様のお手を煩わせるようなことは、未来永劫ございませんわ」
完璧な淑女の作法で告げられた、完璧な拒絶。
セバスチャンが、ジュリアンに向かって軽く顎を引いた。それは儀礼的な会釈の形をとりながらも、その黒曜石のような瞳の奥には、一片の容赦もない冷たい光が宿っていた。それは、道端の石ころを見るような、完全な軽蔑の色だった。
ジュリアンの顔が、まず白くなり、次いで赤く染まった。
屈辱。
公衆の面前で、彼はセラフィナに「あなたはもう必要ない」と、この上なく丁寧に、そして残酷に突きつけられたのだ。
周囲から、くすくすという押し殺した笑い声が聞こえる。ヴィヴィアンが、信じられないものを見る目でセラフィナを睨みつけている。
「……失礼する」
ジュリアンはそれだけを絞り出すと、踵を返し、逃げるようにその場を去った。ヴィヴィアンもまた、真っ赤な顔でその後を追う。
嵐が去った後、セバスチャンがセラフィナに低く囁いた。
「見事な手綱さばきだ。最高のデモンストレーションになったな」
「練習台としては、ちょうどよろしいでしょう?」
セラフィナはシャンパングラスを口に運びながら、静かに応じた。
「これから私たちが向き合うのは、もっと大きく、もっと狡猾な『市場(けもの)』ですもの」
二人の視線が交錯する。言葉はなくとも、互いの覚悟と信頼は痛いほどに伝わっていた。
セラフィナは、再び庭園全体を見渡した。
あの令嬢も、あちらの夫人も、そして向こうで談笑している男爵令嬢も。彼女たちが纏う「アウラ」のドレス。その一枚一枚に、彼女が仕掛けた小さな罠――ベルフォート家の瘴気にのみ共鳴する「診断用サブルーン」が、静かに眠っている。
この庭園そのものが、彼女の仕掛けた巨大な検知網。壮大なチェス盤だ。
あとは、向こうが駒を動かすのを待つだけ。
破滅への引き金を、彼ら自身が引くのを。
その時、セラフィナの隣に立つセバスチャンの視界の端が、ある光景を捉えた。
テラスの奥、柱の影で、ベルフォート公爵が腹心の部下らしき男に、何かを低く命じている。男は深く頷くと、誰にも気づかれぬよう、足早に会場を後にした。
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