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夜の帳が下りたモラン公爵領の工房は、静寂に包まれていた。
だがそれは、死のような静けさではない。嵐の前の、息を潜めたような緊張感に満ちた静寂だった。
破壊された試作動力炉の残骸は既に片付けられ、床には痛々しい焦げ跡だけが残っている。壁に飛び散った魔力の飛沫は、ベルフォート家の瘴気が放つ、不快で粘質な痕跡を未だに留めていた。
その惨状の中心に、セラフィナは静かに立っていた。
彼女の顔に絶望の色はない。悲しみもない。ただ、凍てつく湖面のように静謐な怒りと、星空のように冷徹な計算が、その紫水晶(アメジスト)の瞳の奥で揺らめいていた。
「夜分に、そしてこのような場所まで……。皆の顔が見られて、心強く思いますわ」
彼女の声は落ち着いていたが、工房の隅々にまで凛と響き渡った。
集まったのは、クロエ、ギルバート、そしてアトリエ「アウラ」から駆けつけた十数名の精鋭スタッフたちだ。彼らの顔には、疲労と不安が色濃く浮かんでいる。王都を離れ、この辺境の工房にまで来たというのに、敵の卑劣な手がここまで及んだのだ。無理もないことだった。
「ご存知の通り、王宮のガーデンパーティーに納品するはずだったドレスと、そのための最高級の生地は、ほぼ全て失われました。納期は、二週間後。常識で考えれば、盤上は詰み、ですわね」
スタッフの一人が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。何人かは、俯いて唇を噛み締めている。
「ですが」
セラフィナは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、一人ひとりの顔を捉えていく。
「私たちはこの灰の中から、遥かに美しいものを生み出します。破壊されたものとは比べ物にならない……彼らの想像を、過去の全てを嘲笑うほどに、壮麗で革新的なドレスを」
彼女の言葉に、工房がざわめいた。不可能だ、と囁く声が聞こえる。
「そして……ささやかな『おまじない』を、全てのドレスに施します」
セラフィナは、ふっと口元に挑戦的な笑みを浮かべた。
「私たちを奈落に突き落とそうとした者たちへ、忘れられない贈り物をするために」
その瞬間、工房の空気が変わった。不安に満ちていたスタッフたちの瞳に、戸惑いと、そして微かな好奇の光が灯り始める。彼らは、目の前に立つ主人が、ただの優しい令嬢ではないことを、改めて思い知らされていた。
彼女は、屈辱の灰の中から甦ろうとする、燃える不死鳥そのものだった。
「これは、もはや仕事ではありません。私たちの誇りと、アトリエ『アウラ』の未来を賭けた戦いです。……皆、私と共に、戦ってくださいますか?」
沈黙を破ったのは、腕を組んで壁に寄りかかっていたギルバートだった。
「フン、正気の沙汰じゃねえな。……だが、最高に面白そうだ。お嬢様の喧嘩だ、歴史に残るくらい派手にやらなきゃ、こっちの気が済まねえだろうが!」
ぶっきらぼうな言葉に、クロエが力強く頷く。
「当たり前です! セラフィナ様が戦うと仰るのなら、私たちは剣にも盾にもなります! ねえ、皆さん! こんなところで終わる私たちじゃありませんよね!?」
クロエの檄に応えるように、若いデザイナーの一人が顔を上げた。
「やります! やらせてください、セラフィナ様! あんな奴らに、私たちの夢を壊されてたまるもんですか!」
その声を皮切りに、「ええ!」「やりましょう!」という声が次々と上がる。不安は、いつしか熱を帯びた闘志へと変わっていた。
セラフィナは、その光景を静かに見つめ、深く頷いた。
「ありがとう。……それでは、反撃を始めましょう」
その宣言と共に、アトリエ「アウラ」の歴史上最も苛烈で、最も創造的な二週間が幕を開けた。
◇
翌日から、工房は不眠不休の戦場と化した。
その中心で指揮を執るのは、セラフィナだった。彼女は、自らの最高傑作である「ニューロ・レンズ」を装着し、工房の中央に設えられた巨大な空間に立っていた。
「エーテル・プロジェクション、起動」
呟きと共に、彼女の周囲の空間が微かに揺らめき、無数の光の粒子が舞い始める。それはまるで、捕らえられた銀河のようだった。
彼女は目を閉じ、深く息を吸う。ニューロ・レンズを通して、彼女の思考は魔導装置と直接接続され、比類なき精度と速度でエーテルを操る。
彼女の脳裏に浮かぶのは、破壊されたドレスのデザインではない。ベルフォート家の瘴気が放った、あの禍々しくも力強い魔力の奔流。そして、爆発の瞬間に砕け散った水晶の破片が描いた、偶発的で美しい軌跡。
――破壊は、新たな創造の母。
彼女の指が、何もない空間でしなやかに踊る。思考に呼応し、光の粒子が糸となり、面となり、立体的なドレスのシルエットを紡ぎ出していく。
それは、以前のデザインを遥かに凌駕していた。
アシンメトリーなカッティングはより大胆に、まるで爆発の衝撃で引き裂かれた布地が、奇跡的に再構成されたかのような緊張感を孕んでいる。スカートのドレープは、炎の中から立ち上る不死鳥の翼を思わせ、裾には砕けた宝石を思わせる微細な光の欠片が、星屑のように散りばめられていた。
テーマは「黎明(ドーン)」。闇を切り裂き、生まれ来る光。
工房のスタッフたちは、息を飲んでその光景を見守っていた。スケッチも、設計図もない。ただ、一人の天才の頭脳から直接、光そのものでドレスが編み上げられていく。それはもはやデザインではなく、魔法そのものだった。
「……すごい」
誰かが、畏敬の念を込めて呟いた。
「これが、セラフィナ様の本当の力……」
セバスチャンが手配した最高級の素材が、次々と運び込まれる。彼の領地でしか採れない、月の光を浴びて輝きを増すという幻の「月光絹(ルナ・シルク)」。そして、虹色の光沢を放つ極めて希少な魔力伝導繊維。それは色素に頼るのではなく、蝶の羽のように繊維自体の微細な構造が光を操り、魔力と共振することで玉虫色の輝きを生み出す、まさに魔導技術の粋を集めた素材である。
セラフィナが生み出した三次元の設計図は、即座に裁断パターンへと変換され、待機していた職人たちの手元に転送される。そこからは、彼らの出番だ。誰もが寝る間を惜しみ、自らの持てる最高の技術で、魔法のようなデザインを現実の布地へと落とし込んでいった。
工房は、槌の音、ミシンの駆動音、そして魔力を帯びた糸が立てる微かなハミングで満たされていた。
それは、絶望的な状況下で奏でられる、創造の交響曲だった。
◇
その熱狂の傍らで、もう一つの計画が密かに進行していた。
工房の奥深く、厳重な防音と防諜の結界が張られた一室。そこはギルバートの個人的な研究室だった。
「……お嬢様、本当にこんな豆粒みてぇなもんに、そんな複雑な術式を組み込めるのか?」
ギルバートは、巨大な魔導拡大鏡を覗き込みながら、唸るように言った。彼がピンセットでつまんでいるのは、砂粒ほどの大きさの、透明な水晶片だ。
「ええ。問題は、いかにして『瘴気』の魔力周波数にだけ、ピンポイントで共鳴させるか、ですわ」
セラフィナは、ニューロ・レンズを調整しながら答えた。彼女の目の前には、エーテル織の極めて複雑なパターンが、光の曼荼羅のように浮かび上がっている。
これが、彼女の「ざまぁ」計画の心臓部、「共鳴型診断サブルーン」の開発現場だった。
その仕組みは、狡猾なまでにシンプルだ。
この極小のルーンは、普段はドレスの魔力回路に完全に同化し、休眠状態にある。しかし、ベルフォート家の瘴気反応炉が生み出す特有の魔力汚染、その「周波数」に接触した瞬間、まるで音叉が共鳴するように微細な振動を開始する。
その振動が、ドレスに内蔵されたエーテル織コアの魔力パターンを僅かに変化させる。その変化は、着用者にも、並の魔術師では感知できない。
だが、その微弱な信号は、セバスチャンが管理する王都の安全なサーバーへと、エーテルネットを介して密かに送信されるように設計されていた。
いつ、どこで、誰が着ていたドレスが、ベルフォート家の瘴気に接触したか。そのデータが、リアルタイムで蓄積されていく。
それは、敵の懐に忍び込ませる、見えざる証人。ベルフォート家が自らの汚染源から逃れられない限り、必ず作動する魔術的なサイバーセキュリティの罠だった。
「従来の刻印術式じゃ、このサイズに収まらん。だが、お嬢様のエーテル織演算なら……」
「ええ。織物の糸を編むように、術式そのものを三次元的に折り畳んで格納するのです。ギルバート師匠の精密加工技術がなければ、この水晶の器すら作れませんでしたわ」
セラフィナの革新的な理論と、ギルバートの長年培われた職人的な技術。新旧の天才が、ここで一つの目的のために融合していた。
彼女は再び思考を集中させ、光の糸で術式を編み上げていく。それは、時計職人が髪の毛よりも細い部品を組み上げるような、気の遠くなる作業だった。
数時間後。
セラフィナはそっと目を開け、額の汗を拭った。
「……できました」
ピンセットの先の水晶片が、一瞬だけ、淡い青色の光を放って消えた。
ギルバートは拡大鏡から顔を上げ、興奮を隠せない様子で言った。
「……成功、しやがった。信じられん……。こんな芸当、王宮の連中が束になったってできやしねぇ。……お嬢様、あんたは……あんたは、魔法の理そのものを書き換える、愛らしくも恐ろしい怪物だ」
「最高の褒め言葉ですわ、師匠」
セラフィナは、悪戯っぽく微笑んだ。
最初のサブルーンが、静かに産声を上げた瞬間だった。
◇
工房の雰囲気は、日を追うごとに変わっていった。
当初の悲壮感は消え去り、そこには一種の祝祭的な高揚感が満ちていた。徹夜続きで誰もが疲れているはずなのに、その目は爛々と輝いている。
「クロエさん、こっちの生地、裁断終わりました!」
「ありがとう! すぐに縫製チームに回して! ああ、そうだわ、皆さん、セバスチャン様からまた差し入れが届きましたよ! 王都で一番と評判のレストランのディナーボックスですって!」
クロエは、今や完璧な現場監督だった。彼女は持ち前の明るさと気配りで、疲弊していくスタッフたちの心を巧みに繋ぎ止め、鼓舞していた。没落した令嬢の侍女だった少女は、いつしか、一つの大きなプロジェクトを動かすマネージャーの顔つきになっていた。
セバスチャンは、表立って口出しはしなかったが、その支援は徹底していた。最高級の素材だけでなく、疲労を瞬時に回復させる高価なポーション、有名パティスリーの菓子、凝り固まった身体を解きほぐす腕利きの療術師まで、考えうるあらゆるものが、彼の名で毎日届けられた。
彼はただ、工房の片隅から、セラフィナが仲間たちと共に創造の奇跡を紡いでいく様子を、静かに、そして誇らしげに見守っていた。彼女の才能が、逆境の中で仲間を得て、かつてないほど輝いている。その事実が、彼にとっては何よりの喜びだった。
ある夜更け、若い刺繍職人の一人が、針を動かしながらふと呟いた。
「なんだか……まるで革命の前夜みたいですね」
その言葉に、周りで作業していた数人が顔を見合わせて、くすりと笑った。
「革命、か。確かに。私たちが今作ってるのは、ただのドレスじゃない。古い時代を終わらせるための、美しい武器なのかもしれないな」
誰もが、自分たちが歴史的な瞬間に立ち会っていることを、肌で感じていた。
そして、全てのドレスの心臓部であるエーテル織コアには、セラフィナとギルバートの手によって、あの小さな「おまじない」――共鳴型診断サブルーンが、一つひとつ、誰にも気づかれぬよう、丁寧に埋め込まれていった。
静かに、その時を待つ、無数の罠。
◇
そして、約束の納品日の前日。
最後のドレスの、最後の一針が縫い上げられた。
工房に並べられたドレスたちは、圧巻だった。破壊される前のものとは比較にならない。一着一着が、闇の中から光を掴み取ろうとする強い意志を宿し、芸術品のようなオーラを放っていた。
月光絹は淡く輝き、魔力伝導繊維は見る角度によって虹色にきらめく。大胆なカッティングと繊細な装飾が、絶妙なバランスで共存している。
スタッフたちは、自分たちの仕事を前に、感極まった表情で立ち尽くしていた。疲労困憊のはずの身体に、達成感という名の新たなエネルギーが満ちていくのを感じていた。
セラフィナは、完成したドレスの一着を、そっと手に取った。指先で、その滑らかな感触と、内側に秘められた微かな魔力の脈動を確かめる。
彼女の唇に、静かな、そして絶対的な自信に満ちた笑みが浮かんだ。
「……息を呑むほどだ。君という才能は、そして君が率いる者たちは、私の想像すら遥かに超えていく」
いつの間にか、セバスチャンが彼女の隣に立っていた。その声には、抑えきれない賞賛と、深い愛情が滲んでいた。
「いいえ」
セラフィナは、ドレスから目を離さずに首を振った。
「これは、まだ序曲に過ぎませんわ、セバスチャン様」
彼女はゆっくりと顔を上げ、彼の深い青の瞳をまっすぐに見つめた。その紫水晶の瞳の奥では、これから始まる復讐劇への期待が、静かな炎のように燃え上がっていた。
「本当の舞台は、これからですわ。王宮の庭で、私たちのささやかな『贈り物』が、どんな破滅の音色を奏でるか……。セバスチャン様、どうぞ特等席で、旧時代の断末魔をお聞き届けくださいませ」
それは、共犯者へ向けた、甘美な招待状。
彼女の言葉は、二週間後に迫ったガーデンパーティーで、ベルフォート家を待ち受ける運命を明確に予感させていた。
反撃の矢は、既につがえられた。あとは、放つだけだ。
だがそれは、死のような静けさではない。嵐の前の、息を潜めたような緊張感に満ちた静寂だった。
破壊された試作動力炉の残骸は既に片付けられ、床には痛々しい焦げ跡だけが残っている。壁に飛び散った魔力の飛沫は、ベルフォート家の瘴気が放つ、不快で粘質な痕跡を未だに留めていた。
その惨状の中心に、セラフィナは静かに立っていた。
彼女の顔に絶望の色はない。悲しみもない。ただ、凍てつく湖面のように静謐な怒りと、星空のように冷徹な計算が、その紫水晶(アメジスト)の瞳の奥で揺らめいていた。
「夜分に、そしてこのような場所まで……。皆の顔が見られて、心強く思いますわ」
彼女の声は落ち着いていたが、工房の隅々にまで凛と響き渡った。
集まったのは、クロエ、ギルバート、そしてアトリエ「アウラ」から駆けつけた十数名の精鋭スタッフたちだ。彼らの顔には、疲労と不安が色濃く浮かんでいる。王都を離れ、この辺境の工房にまで来たというのに、敵の卑劣な手がここまで及んだのだ。無理もないことだった。
「ご存知の通り、王宮のガーデンパーティーに納品するはずだったドレスと、そのための最高級の生地は、ほぼ全て失われました。納期は、二週間後。常識で考えれば、盤上は詰み、ですわね」
スタッフの一人が、ごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。何人かは、俯いて唇を噛み締めている。
「ですが」
セラフィナは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、一人ひとりの顔を捉えていく。
「私たちはこの灰の中から、遥かに美しいものを生み出します。破壊されたものとは比べ物にならない……彼らの想像を、過去の全てを嘲笑うほどに、壮麗で革新的なドレスを」
彼女の言葉に、工房がざわめいた。不可能だ、と囁く声が聞こえる。
「そして……ささやかな『おまじない』を、全てのドレスに施します」
セラフィナは、ふっと口元に挑戦的な笑みを浮かべた。
「私たちを奈落に突き落とそうとした者たちへ、忘れられない贈り物をするために」
その瞬間、工房の空気が変わった。不安に満ちていたスタッフたちの瞳に、戸惑いと、そして微かな好奇の光が灯り始める。彼らは、目の前に立つ主人が、ただの優しい令嬢ではないことを、改めて思い知らされていた。
彼女は、屈辱の灰の中から甦ろうとする、燃える不死鳥そのものだった。
「これは、もはや仕事ではありません。私たちの誇りと、アトリエ『アウラ』の未来を賭けた戦いです。……皆、私と共に、戦ってくださいますか?」
沈黙を破ったのは、腕を組んで壁に寄りかかっていたギルバートだった。
「フン、正気の沙汰じゃねえな。……だが、最高に面白そうだ。お嬢様の喧嘩だ、歴史に残るくらい派手にやらなきゃ、こっちの気が済まねえだろうが!」
ぶっきらぼうな言葉に、クロエが力強く頷く。
「当たり前です! セラフィナ様が戦うと仰るのなら、私たちは剣にも盾にもなります! ねえ、皆さん! こんなところで終わる私たちじゃありませんよね!?」
クロエの檄に応えるように、若いデザイナーの一人が顔を上げた。
「やります! やらせてください、セラフィナ様! あんな奴らに、私たちの夢を壊されてたまるもんですか!」
その声を皮切りに、「ええ!」「やりましょう!」という声が次々と上がる。不安は、いつしか熱を帯びた闘志へと変わっていた。
セラフィナは、その光景を静かに見つめ、深く頷いた。
「ありがとう。……それでは、反撃を始めましょう」
その宣言と共に、アトリエ「アウラ」の歴史上最も苛烈で、最も創造的な二週間が幕を開けた。
◇
翌日から、工房は不眠不休の戦場と化した。
その中心で指揮を執るのは、セラフィナだった。彼女は、自らの最高傑作である「ニューロ・レンズ」を装着し、工房の中央に設えられた巨大な空間に立っていた。
「エーテル・プロジェクション、起動」
呟きと共に、彼女の周囲の空間が微かに揺らめき、無数の光の粒子が舞い始める。それはまるで、捕らえられた銀河のようだった。
彼女は目を閉じ、深く息を吸う。ニューロ・レンズを通して、彼女の思考は魔導装置と直接接続され、比類なき精度と速度でエーテルを操る。
彼女の脳裏に浮かぶのは、破壊されたドレスのデザインではない。ベルフォート家の瘴気が放った、あの禍々しくも力強い魔力の奔流。そして、爆発の瞬間に砕け散った水晶の破片が描いた、偶発的で美しい軌跡。
――破壊は、新たな創造の母。
彼女の指が、何もない空間でしなやかに踊る。思考に呼応し、光の粒子が糸となり、面となり、立体的なドレスのシルエットを紡ぎ出していく。
それは、以前のデザインを遥かに凌駕していた。
アシンメトリーなカッティングはより大胆に、まるで爆発の衝撃で引き裂かれた布地が、奇跡的に再構成されたかのような緊張感を孕んでいる。スカートのドレープは、炎の中から立ち上る不死鳥の翼を思わせ、裾には砕けた宝石を思わせる微細な光の欠片が、星屑のように散りばめられていた。
テーマは「黎明(ドーン)」。闇を切り裂き、生まれ来る光。
工房のスタッフたちは、息を飲んでその光景を見守っていた。スケッチも、設計図もない。ただ、一人の天才の頭脳から直接、光そのものでドレスが編み上げられていく。それはもはやデザインではなく、魔法そのものだった。
「……すごい」
誰かが、畏敬の念を込めて呟いた。
「これが、セラフィナ様の本当の力……」
セバスチャンが手配した最高級の素材が、次々と運び込まれる。彼の領地でしか採れない、月の光を浴びて輝きを増すという幻の「月光絹(ルナ・シルク)」。そして、虹色の光沢を放つ極めて希少な魔力伝導繊維。それは色素に頼るのではなく、蝶の羽のように繊維自体の微細な構造が光を操り、魔力と共振することで玉虫色の輝きを生み出す、まさに魔導技術の粋を集めた素材である。
セラフィナが生み出した三次元の設計図は、即座に裁断パターンへと変換され、待機していた職人たちの手元に転送される。そこからは、彼らの出番だ。誰もが寝る間を惜しみ、自らの持てる最高の技術で、魔法のようなデザインを現実の布地へと落とし込んでいった。
工房は、槌の音、ミシンの駆動音、そして魔力を帯びた糸が立てる微かなハミングで満たされていた。
それは、絶望的な状況下で奏でられる、創造の交響曲だった。
◇
その熱狂の傍らで、もう一つの計画が密かに進行していた。
工房の奥深く、厳重な防音と防諜の結界が張られた一室。そこはギルバートの個人的な研究室だった。
「……お嬢様、本当にこんな豆粒みてぇなもんに、そんな複雑な術式を組み込めるのか?」
ギルバートは、巨大な魔導拡大鏡を覗き込みながら、唸るように言った。彼がピンセットでつまんでいるのは、砂粒ほどの大きさの、透明な水晶片だ。
「ええ。問題は、いかにして『瘴気』の魔力周波数にだけ、ピンポイントで共鳴させるか、ですわ」
セラフィナは、ニューロ・レンズを調整しながら答えた。彼女の目の前には、エーテル織の極めて複雑なパターンが、光の曼荼羅のように浮かび上がっている。
これが、彼女の「ざまぁ」計画の心臓部、「共鳴型診断サブルーン」の開発現場だった。
その仕組みは、狡猾なまでにシンプルだ。
この極小のルーンは、普段はドレスの魔力回路に完全に同化し、休眠状態にある。しかし、ベルフォート家の瘴気反応炉が生み出す特有の魔力汚染、その「周波数」に接触した瞬間、まるで音叉が共鳴するように微細な振動を開始する。
その振動が、ドレスに内蔵されたエーテル織コアの魔力パターンを僅かに変化させる。その変化は、着用者にも、並の魔術師では感知できない。
だが、その微弱な信号は、セバスチャンが管理する王都の安全なサーバーへと、エーテルネットを介して密かに送信されるように設計されていた。
いつ、どこで、誰が着ていたドレスが、ベルフォート家の瘴気に接触したか。そのデータが、リアルタイムで蓄積されていく。
それは、敵の懐に忍び込ませる、見えざる証人。ベルフォート家が自らの汚染源から逃れられない限り、必ず作動する魔術的なサイバーセキュリティの罠だった。
「従来の刻印術式じゃ、このサイズに収まらん。だが、お嬢様のエーテル織演算なら……」
「ええ。織物の糸を編むように、術式そのものを三次元的に折り畳んで格納するのです。ギルバート師匠の精密加工技術がなければ、この水晶の器すら作れませんでしたわ」
セラフィナの革新的な理論と、ギルバートの長年培われた職人的な技術。新旧の天才が、ここで一つの目的のために融合していた。
彼女は再び思考を集中させ、光の糸で術式を編み上げていく。それは、時計職人が髪の毛よりも細い部品を組み上げるような、気の遠くなる作業だった。
数時間後。
セラフィナはそっと目を開け、額の汗を拭った。
「……できました」
ピンセットの先の水晶片が、一瞬だけ、淡い青色の光を放って消えた。
ギルバートは拡大鏡から顔を上げ、興奮を隠せない様子で言った。
「……成功、しやがった。信じられん……。こんな芸当、王宮の連中が束になったってできやしねぇ。……お嬢様、あんたは……あんたは、魔法の理そのものを書き換える、愛らしくも恐ろしい怪物だ」
「最高の褒め言葉ですわ、師匠」
セラフィナは、悪戯っぽく微笑んだ。
最初のサブルーンが、静かに産声を上げた瞬間だった。
◇
工房の雰囲気は、日を追うごとに変わっていった。
当初の悲壮感は消え去り、そこには一種の祝祭的な高揚感が満ちていた。徹夜続きで誰もが疲れているはずなのに、その目は爛々と輝いている。
「クロエさん、こっちの生地、裁断終わりました!」
「ありがとう! すぐに縫製チームに回して! ああ、そうだわ、皆さん、セバスチャン様からまた差し入れが届きましたよ! 王都で一番と評判のレストランのディナーボックスですって!」
クロエは、今や完璧な現場監督だった。彼女は持ち前の明るさと気配りで、疲弊していくスタッフたちの心を巧みに繋ぎ止め、鼓舞していた。没落した令嬢の侍女だった少女は、いつしか、一つの大きなプロジェクトを動かすマネージャーの顔つきになっていた。
セバスチャンは、表立って口出しはしなかったが、その支援は徹底していた。最高級の素材だけでなく、疲労を瞬時に回復させる高価なポーション、有名パティスリーの菓子、凝り固まった身体を解きほぐす腕利きの療術師まで、考えうるあらゆるものが、彼の名で毎日届けられた。
彼はただ、工房の片隅から、セラフィナが仲間たちと共に創造の奇跡を紡いでいく様子を、静かに、そして誇らしげに見守っていた。彼女の才能が、逆境の中で仲間を得て、かつてないほど輝いている。その事実が、彼にとっては何よりの喜びだった。
ある夜更け、若い刺繍職人の一人が、針を動かしながらふと呟いた。
「なんだか……まるで革命の前夜みたいですね」
その言葉に、周りで作業していた数人が顔を見合わせて、くすりと笑った。
「革命、か。確かに。私たちが今作ってるのは、ただのドレスじゃない。古い時代を終わらせるための、美しい武器なのかもしれないな」
誰もが、自分たちが歴史的な瞬間に立ち会っていることを、肌で感じていた。
そして、全てのドレスの心臓部であるエーテル織コアには、セラフィナとギルバートの手によって、あの小さな「おまじない」――共鳴型診断サブルーンが、一つひとつ、誰にも気づかれぬよう、丁寧に埋め込まれていった。
静かに、その時を待つ、無数の罠。
◇
そして、約束の納品日の前日。
最後のドレスの、最後の一針が縫い上げられた。
工房に並べられたドレスたちは、圧巻だった。破壊される前のものとは比較にならない。一着一着が、闇の中から光を掴み取ろうとする強い意志を宿し、芸術品のようなオーラを放っていた。
月光絹は淡く輝き、魔力伝導繊維は見る角度によって虹色にきらめく。大胆なカッティングと繊細な装飾が、絶妙なバランスで共存している。
スタッフたちは、自分たちの仕事を前に、感極まった表情で立ち尽くしていた。疲労困憊のはずの身体に、達成感という名の新たなエネルギーが満ちていくのを感じていた。
セラフィナは、完成したドレスの一着を、そっと手に取った。指先で、その滑らかな感触と、内側に秘められた微かな魔力の脈動を確かめる。
彼女の唇に、静かな、そして絶対的な自信に満ちた笑みが浮かんだ。
「……息を呑むほどだ。君という才能は、そして君が率いる者たちは、私の想像すら遥かに超えていく」
いつの間にか、セバスチャンが彼女の隣に立っていた。その声には、抑えきれない賞賛と、深い愛情が滲んでいた。
「いいえ」
セラフィナは、ドレスから目を離さずに首を振った。
「これは、まだ序曲に過ぎませんわ、セバスチャン様」
彼女はゆっくりと顔を上げ、彼の深い青の瞳をまっすぐに見つめた。その紫水晶の瞳の奥では、これから始まる復讐劇への期待が、静かな炎のように燃え上がっていた。
「本当の舞台は、これからですわ。王宮の庭で、私たちのささやかな『贈り物』が、どんな破滅の音色を奏でるか……。セバスチャン様、どうぞ特等席で、旧時代の断末魔をお聞き届けくださいませ」
それは、共犯者へ向けた、甘美な招待状。
彼女の言葉は、二週間後に迫ったガーデンパーティーで、ベルフォート家を待ち受ける運命を明確に予感させていた。
反撃の矢は、既につがえられた。あとは、放つだけだ。
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