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モラン領の空気は、王都アストラリスのそれとは根本的に異なっていた。
煤煙と貴族たちの香水が混じり合った重たい空気ではなく、澄み渡り、生命力に満ちた清浄なエーテルが風に乗って肌を撫でる。ガラスと鋼鉄で編まれた革新的な建築群は、豊かな緑と見事に調和し、まるで森そのものが未来都市に進化したかのような景観を織りなしていた。
その領地の中枢に位置する、セバスチャン・モラン公爵の私的な研究開発拠点。それは工房というにはあまりに巨大で、王宮の魔導院すら凌駕するほどの設備を誇る、技術の聖域だった。
「……よし。システムの最終最適化、完了。モラン領の全生産拠点を繋ぐサプライチェーン・マトリクスも、これで完全に稼働する。誤差は許容範囲内……これで、ベルフォート公爵の経済封鎖も意味をなさなくなるわ」
セラフィナは静かに呟き、そっと目蓋を閉じた。彼女の顔には、白水晶のフレームに縁どられた、蝶の羽のように繊細な「ニューロ・レンズ」が装着されている。
彼女の思考は、レンズを通して工房の中央演算機と直結し、秒間数兆回にも及ぶエーテル織演算を実行していた。目の前の広大な空間には、ついさっきまで光の糸で描かれた複雑怪奇な設計図や数式が乱舞していたが、今は静寂を取り戻している。
これまでの数ヶ月、不眠不休で取り組んできた理論が、今、現実のシステムとして稼働を始めたのだ。ベルフォート家と旧守派ギルドによる経済封鎖を完全に無力化する、独自の生産・物流網。その心臓部が、たった今、産声を上げた。
「素晴らしい……。まるで魔法そのものだ。いや……これは、旧来の魔法の定義を遥かに超えている」
感嘆のため息を漏らしたのは、少し離れた場所で彼女の作業を見守っていたセバスチャンだった。彼の蒼い瞳は、目の前の奇跡を成し遂げた女性に、尊敬と――それ以上の熱を込めて注がれていた。
「君の頭の中では、世界はこのように見えているのか、セラフィナ。まるで神の設計図だ。何度見ても、この身が震えるよ」
「ありがとうございます、セバスチャン様。でも、驚くのはまだ早いですよ。これは、私たちが創る未来の、ほんの序章に過ぎませんから」
セラフィナはレンズを外し、穏やかな笑みを浮かべた。絶望の淵に突き落とされた令嬢の面影は、そこにはもうない。あるのは、自らの才能を武器に未来を切り拓く、革新者としての自信と輝きだけだった。
「領内の者たちの顔を見たか? 絹織物工房も、研磨ギルドも、皆、希望に満ちている。何十年も王都のギルドに搾取されてきた彼らにとって、君はまさに救世主……いや、共に戦う『解放者』そのものだ」
「解放者だなんて、大げさですわ。私はただ、当たり前のことをしたいだけ。優れた作り手が、その価値を不当に貶められることのない世界を……。ええ、対等なパートナーとして、正当な対価と敬意を分かち合う。それだけのことです」
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。それは、同じ理想を見つめる者同士の、言葉を超えた共感の響きだった。この場所には希望しかない。ベルフォート公爵の腐敗した権力も、ジュリアンの浅薄な嘲笑も、ヴィヴィアンの嫉妬の炎も、ここまでは届かない。
少なくとも、彼らはそう信じていた。
その夜。
月明かりだけが差し込む静まり返った工房に、影が二つ、音もなく滑り込んだ。黒装束に身を包んだ男たちは、熟練の工作員特有の無駄のない動きで、目標へと近づいていく。
彼らの目当ては、工房の動力試験区画に設置された、一台の魔導装置だった。アトリエ「アウラ」の次世代動力源となるべく開発された、試作型の「クリーン・エーテル転換炉」。セラフィナの理論とモラン領の技術の結晶であり、今後の事業拡大の鍵を握る心臓部だ。
一人の男が、懐から黒曜石でできた禍々しい短剣を取り出す。それは武器ではない。ベルフォート家が独占する「瘴気反応炉」から抽出した高純度の瘴気(ミアズマ)を凝縮し、指向性を持たせた呪詛の触媒だった。
「――清浄なるは偽りなり。万物は腐敗にこそ還る。我が主の御名において命ず――穢れよ、淀め、その傲慢ごと砕け散れ」
囁きと共に短剣が振るわれると、どす黒い靄が生き物のように這い出し、転換炉の繊細な魔力伝導管に絡みついていく。クリーンなエーテルを循環させるために設計された純白の水晶回路が、見る間に黒く蝕まれていった。
目的を達した影たちは、再び闇に溶け込み、姿を消した。
後に残されたのは、時を待つだけの、静かな時限爆弾だけだった。
翌朝、工房を訪れたセラフィナたちを出迎えたのは、焦げ付くような異臭と、ガラスの砕ける甲高い音だった。
「きゃっ! 何ですの、今の音は!? セラフィナ様、工房で何か!? ご無事ですの!?」
悲鳴を上げたのは、王都から通信で打ち合わせに参加していたクロエの、魔導通信機から聞こえた声だった。工房のスタッフたちも、目の前の惨状に息を呑む。
試作型クリーン・エーテル転換炉が、無残な姿を晒していた。主要な魔力伝導管は内側から破裂し、黒い煤のようなもので汚れた破片が周囲に飛び散っている。
だが、被害はそれだけではなかった。
「あぁっ……! そんな、ドレスが……! ガーデンパーティーのために織った、一番良い生地が、全部……!」
一人の女性スタッフが、膝から崩れ落ちた。
破裂した転換炉の近くに保管されていたものが、最悪だったのだ。王宮のガーデンパーティーで披露するため、大口の注文を受けていた新作ドレスの数々。そのために特別に織られた、光の加減で虹色に輝く最高級のシルク生地。それらが、飛び散った瘴気の汚泥を浴び、見るも無惨に汚染され、所々が焼け焦げていた。
納期は、二週間後。今から生地を織り直していては、到底間に合わない。アトリエ「アウラ」の信用は、地に堕ちるだろう。
「ひどい……誰がこんなことを……」
絶望が、伝染病のように工房に広がっていく。せっかく掴んだ希望が、一夜にして打ち砕かれた。このモラン領でさえ、安全ではなかったのだ。
「衛兵! 衛兵は何をしていた! この私の領地でこのような狼藉を……! 今すぐ全ゲートを封鎖しろ! ネズミ一匹たりとも外に出すな!」
セバスチャンが、普段の冷静さを失い、怒りに声を震わせた。彼の領地で、彼の庇護下にあるセラフィナが、そして彼女の夢が傷つけられた。その事実は、彼のプライドを、そして彼女を想う心を深く抉った。
だが、誰もが怒りと絶望に打ちひしがれる中、セラフィナだけは違った。
彼女は、血の気の引いた顔で立ち尽くすスタッフたちを押し分けるように前に進み、破壊された転換炉の残骸の前に、静かに膝をついた。
悲しんでいるのではなかった。悔しがっているのでもなかった。
その紫水晶のような瞳は、まるで難解なパズルを解く学者のように、冷徹な光を宿していた。
「セバスチャン様。お気持ちは痛いほどわかります。ですが、今は少しだけ……お静かにお願いできますか。犯人の痕跡が消えてしまいます」
凛とした声に、セバスチャンははっと我に返る。セラフィナはゆっくりと立ち上がると、再びあの白水晶の「ニューロ・レンズ」を装着した。
「……セラフィナ?」
「これは、単なる破壊工作ではありません。犯人は、極めて明確な『署名』を残していきましたわ」
彼女がレンズに意識を集中させると、世界から色彩が失われ、魔力の流れだけが光の線として視界に映し出される。エーテル織演算が、彼女の脳内で超高速で回転を始めた。
現場に残された魔力の残滓を、分子レベルでスキャンしていく。
通常の魔力破壊ならば、残滓は時間と共に均一に拡散し、消えていく。だが、そこにあるのは、明らかに異質なものだった。
黒く、粘りつくような、淀んだエネルギーの靄。それは破壊された後もなお、まるで怨念のようにその場に留まり、微弱ながらも特有の波長を放ち続けていた。
セラフィナの視界に、その波形が複雑なグラフとして表示される。常人にはただの汚れにしか見えないその痕跡から、ニューロ・レンズは数万の変数で構成される複雑な魔力崩壊パターンを抽出した。それはまるで、雪の結晶が決して同じ形を持たないように、ベルフォート家の瘴気炉でなければ決して生み出せない、唯一無二の『魔力的指紋』だった。
「……このパターン……この不快な揺らぎは……」
セバスチャンが、彼女の隣に立ち、険しい顔で呟いた。
「ベルフォートの瘴気反応炉だ。王都で大気汚染の調査をしていた時、観測されたエネルギーパターンに酷似している。いや、これはもっと純度が高い。意図的に精製され、凝縮されたものだ」
物的な証拠は何一つない。だが、魔術的な証拠は、雄弁に犯人を指し示していた。
これは、ベルフォート公爵の仕業だ。
「そう……やはり、あの方でしたのね」
セラフィナは静かに呟くと、ニューロ・レンズを通して、その瘴気の残留思念が放つ特有の「周波数」と「魔力的指紋」を、一欠片たりとも逃さぬよう、精密にデータ化し、自身の演算機に記録した。
彼女はゆっくりと振り返り、絶望に沈むスタッフたちを見渡した。そして、毅然として、しかしどこまでも穏やかな声で、宣言した。
「皆さん、顔を上げてください」
その声には、不思議な力が宿っていた。誰もが、吸い寄せられるように彼女の顔を見る。
「落ち込んでいる時間はありません。納期は守ります。いいえ、ただ守るだけではありません。破壊されたものよりも、さらに壮麗で、革新的なドレスを、この手で創り上げてみせます」
「しかし、セラフィナ様、生地が……時間も……」
古参の職人が、か細い声で反論する。
「時間なら、私が創り出します」
セラフィナは断言した。
「この新しい工房と、私のニューロ・レンズがあれば、設計にかかる時間は百分の一に短縮できる。モラン公爵の支援があれば、最高の素材は明日にも揃うでしょう。不可能ではありません」
彼女の言葉は、単なる精神論ではなかった。技術に裏打ちされた、確固たる自信がそこにはあった。凍り付いていた工房の空気が、少しずつ熱を取り戻していく。
その夜、セラフィナはセバスチャンの執務室を訪れていた。
「彼らは、私たちを破壊しようとしました。事業を、信用を、そして私の心を」
彼女は窓の外に広がる、クリーンなエーテル灯に照らされた領地の夜景を見つめながら言った。
「ですが、彼らは大きな間違いを犯しました。これは攻撃であると同時に、敵が自らの尻尾を、その汚れた正体を、私たちの目の前に晒したということですわ」
「……君は、これを逆手に取ると言ったな」
セバスチャンは、彼女の意図を確かめるように問いかける。
「ええ」
セラフィナは振り返り、その瞳に怜悧な光を宿した。
「今日、私が記録した瘴気の『魔力指紋』。これは、ベルフォート家しか使えない、極めて特殊なものです。もし……もし、この微弱な瘴気に触れただけで共鳴し、私たちにだけわかる信号を発する、極小の『目』を創り出せるとしたら? これを私は『共鳴型診断サブルーン(レゾナンス・プローブ)』と名付けますわ」
「……共鳴型診断サブルーン?」
セバスチャンは息を呑み、その言葉を繰り返した。その発想の、あまりの独創性と攻撃性に。
「ええ。これから私たちが創り出す、すべてのドレス、すべての製品に、そのサブルーンを仕込むのです。それは普段、何もしません。ただ眠っているだけ。けれど、一度でもベルフォートの瘴気に満ちた呪詛や妨害工作に晒されれば、一斉に目を覚ますのです。誰が、いつ、どこで攻撃を仕掛けたのか、その動かぬ証拠を……奴らの喉元に突きつけるために」
それは、究極の防犯システムであり、同時に、敵を破滅させるための、最も狡猾な罠だった。
セバスチャンは、目の前の女性に戦慄を覚えた。彼女は、ただの天才ではない。屈辱を鋼の意志に変え、敵の悪意すら自らの武器に作り替える、恐るべき戦略家だ。
「……面白い。最高に面白いじゃないか、セラフィナ」
彼は、心の底から楽しそうに笑った。
「やろう。君の壮大な復讐劇、私も喜んで共犯者になろう。ベルフォート公爵に教えてやるんだ。彼が踏みつけたのが、ただのか弱い令嬢ではなかったということをな」
二人の間に、新たな炎が灯る。それは、復讐の炎ではない。共通の敵を打ち破り、新しい時代を創造するという、革新者たちの闘志の炎だった。
その頃、王都アストラリスのベルフォート公爵邸。
ベルフォート公爵は、工作員からの魔導通信による報告を受け、満足げに口角を歪めていた。
『――モラン領の工房にて、目標の主要設備に打撃。計画通り、アトリエ「アウラ」の生産能力に深刻な遅延を生じさせたと判断』
「うむ、ご苦労。小娘も少しは思い知ったであろう。所詮は女子供の遊び仕事よ。一度本格的に脅かせば、泣いて助けを乞うに決まっている。生意気な芽は、小さいうちに踏み潰しておかねばならんからな」
彼は、これでセラフィナが意気消沈し、事業が頓挫することを疑わなかった。所詮は女子供の遊び、一度本格的な脅威を前にすれば、泣いて逃げ出すに違いないと。
冷酷な老獪さは、時に致命的な慢心を生む。
彼はまだ知らない。
自らが放ったその一撃が、自身の築き上げた巨大な権力構造そのものを根底から崩壊させる、破滅の罠の引き金になったということを。
反撃の序曲は、今、静かに奏でられ始めたのだ。
煤煙と貴族たちの香水が混じり合った重たい空気ではなく、澄み渡り、生命力に満ちた清浄なエーテルが風に乗って肌を撫でる。ガラスと鋼鉄で編まれた革新的な建築群は、豊かな緑と見事に調和し、まるで森そのものが未来都市に進化したかのような景観を織りなしていた。
その領地の中枢に位置する、セバスチャン・モラン公爵の私的な研究開発拠点。それは工房というにはあまりに巨大で、王宮の魔導院すら凌駕するほどの設備を誇る、技術の聖域だった。
「……よし。システムの最終最適化、完了。モラン領の全生産拠点を繋ぐサプライチェーン・マトリクスも、これで完全に稼働する。誤差は許容範囲内……これで、ベルフォート公爵の経済封鎖も意味をなさなくなるわ」
セラフィナは静かに呟き、そっと目蓋を閉じた。彼女の顔には、白水晶のフレームに縁どられた、蝶の羽のように繊細な「ニューロ・レンズ」が装着されている。
彼女の思考は、レンズを通して工房の中央演算機と直結し、秒間数兆回にも及ぶエーテル織演算を実行していた。目の前の広大な空間には、ついさっきまで光の糸で描かれた複雑怪奇な設計図や数式が乱舞していたが、今は静寂を取り戻している。
これまでの数ヶ月、不眠不休で取り組んできた理論が、今、現実のシステムとして稼働を始めたのだ。ベルフォート家と旧守派ギルドによる経済封鎖を完全に無力化する、独自の生産・物流網。その心臓部が、たった今、産声を上げた。
「素晴らしい……。まるで魔法そのものだ。いや……これは、旧来の魔法の定義を遥かに超えている」
感嘆のため息を漏らしたのは、少し離れた場所で彼女の作業を見守っていたセバスチャンだった。彼の蒼い瞳は、目の前の奇跡を成し遂げた女性に、尊敬と――それ以上の熱を込めて注がれていた。
「君の頭の中では、世界はこのように見えているのか、セラフィナ。まるで神の設計図だ。何度見ても、この身が震えるよ」
「ありがとうございます、セバスチャン様。でも、驚くのはまだ早いですよ。これは、私たちが創る未来の、ほんの序章に過ぎませんから」
セラフィナはレンズを外し、穏やかな笑みを浮かべた。絶望の淵に突き落とされた令嬢の面影は、そこにはもうない。あるのは、自らの才能を武器に未来を切り拓く、革新者としての自信と輝きだけだった。
「領内の者たちの顔を見たか? 絹織物工房も、研磨ギルドも、皆、希望に満ちている。何十年も王都のギルドに搾取されてきた彼らにとって、君はまさに救世主……いや、共に戦う『解放者』そのものだ」
「解放者だなんて、大げさですわ。私はただ、当たり前のことをしたいだけ。優れた作り手が、その価値を不当に貶められることのない世界を……。ええ、対等なパートナーとして、正当な対価と敬意を分かち合う。それだけのことです」
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。それは、同じ理想を見つめる者同士の、言葉を超えた共感の響きだった。この場所には希望しかない。ベルフォート公爵の腐敗した権力も、ジュリアンの浅薄な嘲笑も、ヴィヴィアンの嫉妬の炎も、ここまでは届かない。
少なくとも、彼らはそう信じていた。
その夜。
月明かりだけが差し込む静まり返った工房に、影が二つ、音もなく滑り込んだ。黒装束に身を包んだ男たちは、熟練の工作員特有の無駄のない動きで、目標へと近づいていく。
彼らの目当ては、工房の動力試験区画に設置された、一台の魔導装置だった。アトリエ「アウラ」の次世代動力源となるべく開発された、試作型の「クリーン・エーテル転換炉」。セラフィナの理論とモラン領の技術の結晶であり、今後の事業拡大の鍵を握る心臓部だ。
一人の男が、懐から黒曜石でできた禍々しい短剣を取り出す。それは武器ではない。ベルフォート家が独占する「瘴気反応炉」から抽出した高純度の瘴気(ミアズマ)を凝縮し、指向性を持たせた呪詛の触媒だった。
「――清浄なるは偽りなり。万物は腐敗にこそ還る。我が主の御名において命ず――穢れよ、淀め、その傲慢ごと砕け散れ」
囁きと共に短剣が振るわれると、どす黒い靄が生き物のように這い出し、転換炉の繊細な魔力伝導管に絡みついていく。クリーンなエーテルを循環させるために設計された純白の水晶回路が、見る間に黒く蝕まれていった。
目的を達した影たちは、再び闇に溶け込み、姿を消した。
後に残されたのは、時を待つだけの、静かな時限爆弾だけだった。
翌朝、工房を訪れたセラフィナたちを出迎えたのは、焦げ付くような異臭と、ガラスの砕ける甲高い音だった。
「きゃっ! 何ですの、今の音は!? セラフィナ様、工房で何か!? ご無事ですの!?」
悲鳴を上げたのは、王都から通信で打ち合わせに参加していたクロエの、魔導通信機から聞こえた声だった。工房のスタッフたちも、目の前の惨状に息を呑む。
試作型クリーン・エーテル転換炉が、無残な姿を晒していた。主要な魔力伝導管は内側から破裂し、黒い煤のようなもので汚れた破片が周囲に飛び散っている。
だが、被害はそれだけではなかった。
「あぁっ……! そんな、ドレスが……! ガーデンパーティーのために織った、一番良い生地が、全部……!」
一人の女性スタッフが、膝から崩れ落ちた。
破裂した転換炉の近くに保管されていたものが、最悪だったのだ。王宮のガーデンパーティーで披露するため、大口の注文を受けていた新作ドレスの数々。そのために特別に織られた、光の加減で虹色に輝く最高級のシルク生地。それらが、飛び散った瘴気の汚泥を浴び、見るも無惨に汚染され、所々が焼け焦げていた。
納期は、二週間後。今から生地を織り直していては、到底間に合わない。アトリエ「アウラ」の信用は、地に堕ちるだろう。
「ひどい……誰がこんなことを……」
絶望が、伝染病のように工房に広がっていく。せっかく掴んだ希望が、一夜にして打ち砕かれた。このモラン領でさえ、安全ではなかったのだ。
「衛兵! 衛兵は何をしていた! この私の領地でこのような狼藉を……! 今すぐ全ゲートを封鎖しろ! ネズミ一匹たりとも外に出すな!」
セバスチャンが、普段の冷静さを失い、怒りに声を震わせた。彼の領地で、彼の庇護下にあるセラフィナが、そして彼女の夢が傷つけられた。その事実は、彼のプライドを、そして彼女を想う心を深く抉った。
だが、誰もが怒りと絶望に打ちひしがれる中、セラフィナだけは違った。
彼女は、血の気の引いた顔で立ち尽くすスタッフたちを押し分けるように前に進み、破壊された転換炉の残骸の前に、静かに膝をついた。
悲しんでいるのではなかった。悔しがっているのでもなかった。
その紫水晶のような瞳は、まるで難解なパズルを解く学者のように、冷徹な光を宿していた。
「セバスチャン様。お気持ちは痛いほどわかります。ですが、今は少しだけ……お静かにお願いできますか。犯人の痕跡が消えてしまいます」
凛とした声に、セバスチャンははっと我に返る。セラフィナはゆっくりと立ち上がると、再びあの白水晶の「ニューロ・レンズ」を装着した。
「……セラフィナ?」
「これは、単なる破壊工作ではありません。犯人は、極めて明確な『署名』を残していきましたわ」
彼女がレンズに意識を集中させると、世界から色彩が失われ、魔力の流れだけが光の線として視界に映し出される。エーテル織演算が、彼女の脳内で超高速で回転を始めた。
現場に残された魔力の残滓を、分子レベルでスキャンしていく。
通常の魔力破壊ならば、残滓は時間と共に均一に拡散し、消えていく。だが、そこにあるのは、明らかに異質なものだった。
黒く、粘りつくような、淀んだエネルギーの靄。それは破壊された後もなお、まるで怨念のようにその場に留まり、微弱ながらも特有の波長を放ち続けていた。
セラフィナの視界に、その波形が複雑なグラフとして表示される。常人にはただの汚れにしか見えないその痕跡から、ニューロ・レンズは数万の変数で構成される複雑な魔力崩壊パターンを抽出した。それはまるで、雪の結晶が決して同じ形を持たないように、ベルフォート家の瘴気炉でなければ決して生み出せない、唯一無二の『魔力的指紋』だった。
「……このパターン……この不快な揺らぎは……」
セバスチャンが、彼女の隣に立ち、険しい顔で呟いた。
「ベルフォートの瘴気反応炉だ。王都で大気汚染の調査をしていた時、観測されたエネルギーパターンに酷似している。いや、これはもっと純度が高い。意図的に精製され、凝縮されたものだ」
物的な証拠は何一つない。だが、魔術的な証拠は、雄弁に犯人を指し示していた。
これは、ベルフォート公爵の仕業だ。
「そう……やはり、あの方でしたのね」
セラフィナは静かに呟くと、ニューロ・レンズを通して、その瘴気の残留思念が放つ特有の「周波数」と「魔力的指紋」を、一欠片たりとも逃さぬよう、精密にデータ化し、自身の演算機に記録した。
彼女はゆっくりと振り返り、絶望に沈むスタッフたちを見渡した。そして、毅然として、しかしどこまでも穏やかな声で、宣言した。
「皆さん、顔を上げてください」
その声には、不思議な力が宿っていた。誰もが、吸い寄せられるように彼女の顔を見る。
「落ち込んでいる時間はありません。納期は守ります。いいえ、ただ守るだけではありません。破壊されたものよりも、さらに壮麗で、革新的なドレスを、この手で創り上げてみせます」
「しかし、セラフィナ様、生地が……時間も……」
古参の職人が、か細い声で反論する。
「時間なら、私が創り出します」
セラフィナは断言した。
「この新しい工房と、私のニューロ・レンズがあれば、設計にかかる時間は百分の一に短縮できる。モラン公爵の支援があれば、最高の素材は明日にも揃うでしょう。不可能ではありません」
彼女の言葉は、単なる精神論ではなかった。技術に裏打ちされた、確固たる自信がそこにはあった。凍り付いていた工房の空気が、少しずつ熱を取り戻していく。
その夜、セラフィナはセバスチャンの執務室を訪れていた。
「彼らは、私たちを破壊しようとしました。事業を、信用を、そして私の心を」
彼女は窓の外に広がる、クリーンなエーテル灯に照らされた領地の夜景を見つめながら言った。
「ですが、彼らは大きな間違いを犯しました。これは攻撃であると同時に、敵が自らの尻尾を、その汚れた正体を、私たちの目の前に晒したということですわ」
「……君は、これを逆手に取ると言ったな」
セバスチャンは、彼女の意図を確かめるように問いかける。
「ええ」
セラフィナは振り返り、その瞳に怜悧な光を宿した。
「今日、私が記録した瘴気の『魔力指紋』。これは、ベルフォート家しか使えない、極めて特殊なものです。もし……もし、この微弱な瘴気に触れただけで共鳴し、私たちにだけわかる信号を発する、極小の『目』を創り出せるとしたら? これを私は『共鳴型診断サブルーン(レゾナンス・プローブ)』と名付けますわ」
「……共鳴型診断サブルーン?」
セバスチャンは息を呑み、その言葉を繰り返した。その発想の、あまりの独創性と攻撃性に。
「ええ。これから私たちが創り出す、すべてのドレス、すべての製品に、そのサブルーンを仕込むのです。それは普段、何もしません。ただ眠っているだけ。けれど、一度でもベルフォートの瘴気に満ちた呪詛や妨害工作に晒されれば、一斉に目を覚ますのです。誰が、いつ、どこで攻撃を仕掛けたのか、その動かぬ証拠を……奴らの喉元に突きつけるために」
それは、究極の防犯システムであり、同時に、敵を破滅させるための、最も狡猾な罠だった。
セバスチャンは、目の前の女性に戦慄を覚えた。彼女は、ただの天才ではない。屈辱を鋼の意志に変え、敵の悪意すら自らの武器に作り替える、恐るべき戦略家だ。
「……面白い。最高に面白いじゃないか、セラフィナ」
彼は、心の底から楽しそうに笑った。
「やろう。君の壮大な復讐劇、私も喜んで共犯者になろう。ベルフォート公爵に教えてやるんだ。彼が踏みつけたのが、ただのか弱い令嬢ではなかったということをな」
二人の間に、新たな炎が灯る。それは、復讐の炎ではない。共通の敵を打ち破り、新しい時代を創造するという、革新者たちの闘志の炎だった。
その頃、王都アストラリスのベルフォート公爵邸。
ベルフォート公爵は、工作員からの魔導通信による報告を受け、満足げに口角を歪めていた。
『――モラン領の工房にて、目標の主要設備に打撃。計画通り、アトリエ「アウラ」の生産能力に深刻な遅延を生じさせたと判断』
「うむ、ご苦労。小娘も少しは思い知ったであろう。所詮は女子供の遊び仕事よ。一度本格的に脅かせば、泣いて助けを乞うに決まっている。生意気な芽は、小さいうちに踏み潰しておかねばならんからな」
彼は、これでセラフィナが意気消沈し、事業が頓挫することを疑わなかった。所詮は女子供の遊び、一度本格的な脅威を前にすれば、泣いて逃げ出すに違いないと。
冷酷な老獪さは、時に致命的な慢心を生む。
彼はまだ知らない。
自らが放ったその一撃が、自身の築き上げた巨大な権力構造そのものを根底から崩壊させる、破滅の罠の引き金になったということを。
反撃の序曲は、今、静かに奏でられ始めたのだ。
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