無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

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 エララの力強い頷きを受け、カシアンはこわばっていた全身の力をふっと抜いた。

 安堵の白い息が、秋の澄んだ空気にすうっと溶けていった。

 彼の黒い瞳には、夜明けの光が差し込んだかのような、深い喜びの色が宿っていた。

「……ありがとう、エララ。君なら、そう言ってくれると、信じていた」

 彼の声には、領主としての期待に加えて、一人の男としての、偽りのない歓喜が滲んでいた。

 その日から、二人の世界は執務室の大きな樫の机の上で交錯し始めた。

 広げられた巨大な羊皮紙の設計図は、彼らにとっての新たな「証明の場」となる。

 エララの描く線は、常に論理的で淀みがなかった。

 川の流れを正確に計算し、最も効率的な用水路の経路を導き出す。

 建物の配置を幾何学的に最適化し、風の流れと陽光を最大限に活用する都市設計を提案する。

 それは、彼女がかつて一人きりの部屋で孤独に描いていた図形が、人々の生活という実体を持った瞬間でもあった。

 カシアンは、彼女の導き出す解の一つ一つに感嘆の声を上げた。

 彼は王都の騎士団で培った実戦的な知識と、領主として領内をくまなく歩いて得た知見で、エララの理論を補強する。

「この丘の地盤は、君の計算通りなら塔の重さに耐えられるはずだ。だが、冬の北風が予想以上に強い。風のベクトルを考慮して、基礎の形状を少し変える必要があるかもしれない」

 カシアンが羊皮紙の端を指し示しながら言った。

「なるほど……。風圧という変数を追加して再計算します。支持構造は放物線アーチよりも、カテナリー曲線を用いた方が応力を均等に分散できるかもしれませんわ」

 エララは真剣な表情で答えた。

 二人は頭を寄せ合い、巨大な羊皮紙を覗き込んだ。

 互いの息がかかるほどの距離で交わされる議論は、常に熱を帯びていた。

 エララの銀色がかった金髪から香る、控えめな花の匂いに、カシアンが何度か思考を中断させられたことを、彼女はまだ知らない。

 季節は秋から冬へと移ろっていった。

 フェイラン領の厳しい冬は、容赦なく大地を凍らせ、人々を家の中へと閉じ込める。

 しかし、領主の館の執務室だけは、暖炉の炎と二人の情熱で、春のような温かさに満たされていた。

 共同作業は机の上だけにとどまらない。

 凍てつく風の中、二人は分厚いマントを羽織り、何度も現場へ足を運んだ。

「賢姫様、こちらの水車はあなた様の設計図のおかげで、去年の倍以上の粉が挽けるようになりました!」

 製粉所の主人が、顔を真っ赤にして礼を言う。その声は心からの感謝に満ちていた。

「カシアン様と賢姫様が並んで歩かれていると、まるで建国の王と女王のようだ」

 市場の女将が、そんな噂を囁きながら温かいスープを差し出してくる。

 領民たちの温かい眼差しに、エララは戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。

 追放された公爵令嬢ではなく、「フェイランの賢姫」として、確かにここに自分の居場所がある。

 その事実が、彼女の心を少しずつ、しかし確実に満たしていった。

 カシアンと共に過ごす時間が増えるにつれ、エララは新たな「問題」に直面していた。

 それは、カシアンが時折自分に向ける視線だった。

 領地の未来について語る時の、彼の視線は尊敬と信頼に満ちている。それはエララにも理解できる、明確なベクトルを持った感情だ。

 だが、ふとした瞬間に向けられるそれは、まるで異なる性質を帯びていた。

 彼女が計算に没頭して、ペン先でこめかみを掻く癖を見せた時。

 冷えた手に息を吹きかけて温めようとした時。

 彼の瞳は深く、そしてどこか熱っぽく揺らめくのだ。

 その視線に気づくと、エララの心臓は不規則な軌道を描いて跳ね、思考回路に奇妙なノイズが走る。

 彼女の得意とする論理体系では、その感情の正体を定義することができなかった。

 それは未知の変数であり、解を導き出すための方程式すら、彼女は持ち合わせていなかった。

 一方のカシアンもまた、己の内なる葛藤と戦っていた。

 エララと共に過ごす日々は、彼にとって望外の喜びだった。

 彼女の知性が領地を豊かにしていく様を見るのは、領主として誇らしい。

 だが、それだけではなかった。

 彼女の聡明さに惹かれたのは最初からだ。

 しかし今、彼の心を占めているのは、設計図を前に真剣な表情を浮かべる横顔であり、難解な数式を解き明かした瞬間に見せる、花がほころぶような微かな笑みだった。

 この感情を伝えたい。

 だが、彼は躊躇した。

 王都で受けた心の傷は、まだ彼女の奥深くに眠っているのかもしれない。

 自分の想いは、彼女にとって新たな重荷になるのではないか。

 彼女がこのフェイラン領で得た安らぎを、自分の身勝手で乱したくはなかったのだ。

 冷静沈着で知られた辺境伯は、恋という不慣れな戦場で、不器用な逡巡を繰り返していた。

 そんなある夜のことだった。

 外は猛烈な吹雪が吹き荒れ、窓ガラスを叩く風の音は、まるで獣の咆哮のようだった。

 執務室では、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の炎だけが、穏やかな光と温もりを投げかけている。

 巨大な設計図は、無数の線と数字でほぼ埋め尽くされ、完成を間近に控えていた。

 エララは最後の調整のため、コンパスを手に精密な円弧を描いていた。

 カシアンは少し離れた椅子に座り、報告書に目を通していた。しかし、その意識はとうに紙の上にはなかった。

 暖炉の光に照らされて、銀色に輝く彼女の髪。

 図面をなぞる白く繊細な指先。

 その全てが、彼の心を捉えて離さない。

 ふと、エララがペンを置き、かじかんだ自身の指先に、はぁーっと白い息を吹きかけた。

 その小さな、無意識の仕草が、カシアンの中で何かを決定的に変えた。

 彼は静かにエララのそばへ歩み寄った。

 何の前触れもないその行動に、エララは驚いて顔を上げた。

 カシアンは何も言わず、図面の上に置かれたままだった彼女の冷たい手を、自身の温かい両手でそっと包み込んだ。

「……カシアン様?」

 戸惑うエララの声が、静寂に溶ける。

 カシアンの指先が、微かに震えていた。

 彼の黒い瞳が、これまで見たこともないほど真剣な光を宿して、まっすぐにエララを見つめている。

「君の描く線は……」

 絞り出すような、低い声だった。

「どんな星の軌跡よりも、どんな古代の魔法陣よりも、美しい」

 エララは息をのんだ。

 彼の言葉の意味を、頭が理解するよりも先に、心臓が大きく脈打つ。

 カシアンは、彼女の手を包む自身の手に、さらに力を込めた。

「星の軌跡は、ただそこにあるだけだ。魔法は、定められた結果をなぞるにすぎない。だが、君の描く線は違う。それは無から有を生み出し、この地の未来を、人々の幸福を形作っていく。それは……どんな奇跡よりも確かな希望だ」

 彼の言葉は、もはや彼女の知性への賛辞だけではなかった。

 それは、エララ・フォン・ヘムロックという一人の人間そのものに向けられた、深く、切ない響きを帯びていた。

 熱が、繋がれた手から伝わってくる。

 それがカシアンの手の温もりか、それとも自身の頬に集まる熱なのか、エララには判別できなかった。

 彼女の頭脳は、この状況を解析しようと高速で回転を始める。

 入力変数、カシアンの言動。

 出力変数、自身の心拍数の上昇と呼吸の乱れ。

 だが、導き出される解はない。

 そこにあるのは、ただ巨大なクエスチョンマークだけだった。

 恋という名の未解決問題。

 そのあまりにも複雑で、非論理的で、そして甘美な方程式を前に、希代の天才は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 カシアンはそれ以上何も言わず、ただ静かに彼女の手を握り続けた。

 エララもまた、その手を振りほどくことができない。

 暖炉の炎が、言葉を失った二人の影を壁に長く映し出す。

 窓の外では、吹雪が一層激しさを増していた。

 この温かくもどかしい静寂が、やがて訪れる新たな嵐の前の、束の間の凪であることを、二人はまだ知る由もなかった。
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