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あの口づけから、季節は一度巡った。
フェイランの厳しい冬は過ぎ去り、凍てついていた大地には柔らかな緑が芽吹き始めている。
雪解け水を集めて勢いを増した川のせせらぎが、新しい季節の訪れを告げていた。
領都の一角。
石造りの小さな学び舎からは、子供たちの快活な声が響き渡る。
「せんせい! この線とこの線を繋いだら、もっと綺麗な形になったよ!」
「まあ、本当ですわ。それは『黄金螺旋』の始まりに似ていますね。自然界にたくさん隠れている、とても美しい形です」
子供たちに囲まれ、柔らかな微笑みを浮かべているのはエララだった。
彼女はもう、王都にいた頃のような、儚げで消え入りそうな令嬢ではない。
その灰色の瞳には、穏やかな自信と、深い愛情の色が宿っていた。
銀色がかった金髪をシンプルな結い上げにし、動きやすいが仕立ての良いドレスを身にまとった姿は、この土地にすっかり馴染んでいる。
追放されてきた公爵令嬢が、辺境の子供たちに論理学の初歩を教えている。
王都の貴族が聞けば眉をひそめるような光景だろう。
だが、ここフェイランでは、それは日常の温かな一コマとなっていた。
「では、今日の問題はここまで。皆さんが見つけてくれた美しい形を、次の時間までにもっとたくさん探してきてくださいね」
「「「はい、エララ先生!」」」
元気な挨拶と共に、子供たちが学び舎から駆け出していく。
その後ろ姿を、エララは愛おしそうに見送っていた。
彼女が教えているのは、難しい数式ではない。
自然の中に隠された法則、物事を順序立てて考えることの楽しさ。
かつて彼女が一人きりで向き合ってきた世界を、今はこうして分かち合うことができる。
その事実が、エララの胸を温かいもので満たしていた。
「今日も盛況だったようだな」
背後からかけられた穏やかな声に、エララは微笑んで振り返った。
「カシアン様」
そこには、変わらぬ静かな佇まいで、辺境伯カシアン・ヴァレリウスが立っていた。
一年前よりも、その表情には柔らかな光が差しているように見える。
「ええ。子供たちの思考は、どんな複雑な幾何学模様よりも自由で、見ていて飽きませんわ」
「君が楽しそうで何よりだ」
そう言って、カシアンはごく自然にエララの手を取る。
その仕草に、もう戸惑いはない。
二人の間には、共に過ごした時間が育んだ、確かな信頼と愛情が流れていた。
「少し、散歩でもしないか。君に見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの、ですか?」
その言葉に、エララの灰色の瞳に微かな光が宿る。カシアンが何か特別なものを用意しているのだと、予感せずにはいられなかった。
カシアンに導かれるまま、エララは学び舎を後にした。
二人が歩む道すがら、領民たちが親しげに挨拶をしてくる。
エララが設計に関わった新しい水路が勢いよく流れ、灌漑された畑は青々と潤っていた。
彼女の知識は、もはや剣のためだけのものではない。
この土地を豊かにする、希望の源となっていた。
やがて二人がたどり着いたのは、領都を見下ろす小高い丘の上だった。
そこからは、エララとカシアンが二人で計画し、築き上げてきた新しいフェイランの街並みが一望できた。
整然と区画整理された通り、合理的な設計で建てられた家々。
そして領地を流れる川には、頑丈で美しいアーチ橋が架かっている。
一年という短い期間で、この土地は驚くほどの発展を遂げていた。
「……美しいですわ。まるで、完璧な証明を目の当たりにしているようです」
エララが感嘆の息を漏らすと、カシアンは隣で静かに頷いた。
「君の知恵がなければ、この景色はなかった」
「いいえ。カシアン様が、私の言葉を信じてくださったからです。そして、領地の皆さんが力を貸してくれたから……」
その通りだ、とカシアンは微笑む。
「エララ」
不意に、彼は真剣な声でエララの名前を呼んだ。
エララが彼の方を向くと、カシアンは懐から小さな布包みを取り出し、ゆっくりと開いた。
その中にあったのは、一本の指輪だった。
王都で見るような、大粒の宝石が飾られた華美なものではない。
それは、鈍い銀色の輝きを放つ、極めてシンプルな意匠の指輪だった。
素材は、エララの剣と同じフェイラン鋼。
表面には、よく見なければわからないほど繊細な、無限を意味する幾何学模様が刻まれている。
「鍛冶師の友人に頼んで、打ってもらったものだ」
カシアンは指輪を手に取り、エララの前にゆっくりと跪いた。
「豪華な宝石は、君には似合わないと思った。君の本質は、その知性そのものだ。だから、君の思考を体現したこの金属で、作りたかった」
彼の黒い瞳が、まっすぐにエララを見つめている。
その眼差しは、深い愛情と確かな決意に満ちていた。
「君の剣のように、無駄がなく、本質だけで構成されていて、そして何よりも美しい。そんな我々の未来を、君と共に築きたい」
カシアンは、エララの左手を取った。
その手は、かつては剣を握り、今は子供たちにチョークを握らせる、温かくしなやかな手だ。
「エララ・フォン・ヘムロック。私の妻になってほしい。私の人生という方程式の、永遠の解として、これからもそばにいてくれないか」
風が丘を吹き抜け、エララの銀髪を優しく揺らす。
彼女の灰色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではない。
失われたものを取り戻した喜びでもない。
ただ、自分のありのままが、これ以上ないほど美しい形で肯定されたことへの、静かで深い感動だった。
「……はい、カシアン様」
エララは、満面の笑みを浮かべた。
それは、太陽の下で咲き誇る花のように、明るく、迷いのない笑顔だった。
「これほどまでに心が震えるとは思いませんでしたわ。まさしく、私の人生における、最も幸福な『証明』です」
カシアンは安堵したように息をつくと、優しく指輪を彼女の薬指にはめた。
フェイラン鋼の指輪は、まるでずっとそこにあったかのように、エララの指にしっくりと馴染んだ。
立ち上がったカシアンは、エララをそっと抱きしめる。
二人の影が、夕陽に照らされた丘の上に、一つに重なっていた。
後日、王都から訪れた行商人が、遠い噂話を運んできた。
アラリック王子の治世は、困難を極めているらしい。
彼の強引なやり方は貴族たちの離反を招き、イゾルデとの関係も冷え切っているという。
エララを見捨てたヘムロック公爵家もまた、社交界での信用を失い、その権勢には陰りが見えているとのことだった。
その話を聞いた時も、エララの心は凪いだ湖のように穏やかだった。
「そうですか」
彼女はただ、それだけを呟いて、淹れたてのハーブティーに口をつけた。
もはや、それは彼女が解くべき問題ではない。
彼らの世界で導き出される解がどのようなものであっても、エララの幸福を揺るがす変数にはなり得なかった。
彼女の世界は、ここにあるのだから。
春の日差しが降り注ぐ、新しい領主の館の庭で、エララは子供たちに星の軌道を教えている。
その傍らでは、カシアンが領地の新しい設計図を広げ、彼女に意見を求めていた。
穏やかで、知的で、愛に満ちた日常。
ふと、森との境界の茂みががさりと揺れた。
そこから姿を現したのは、銀色の毛並みを持つ、狼に似た大きな獣だった。
それはこのフェイランの地に古くから棲むと言われる守り神で、人々が親しみを込めて「フェン」と呼ぶ存在だ。
フェンは大きなあくびを一つすると、エララとカシアンの足元にやってきて、気持ちよさそうに体を擦り付けた。
まるで、この土地そのものが、二人を祝福しているかのようだ。
エララはフェンの柔らかな毛を撫でながら、発展していく領地を見渡す。
かつて彼女の世界は、解のない問題ばかりに思えた。
自身の価値、社会との軋轢、愛されることの難しさ。
しかし、今ならわかる。
解がなかったのではない。
ただ、解を導き出すための、正しい座標軸を持っていなかっただけだ。
カシアンが、そっとエララの手を握る。
薬指にはめられた指輪が、太陽の光を浴びて静かに輝いた。
「君の描く線は、どんな魔法よりも美しい」
いつか彼が言ってくれた言葉が、胸によみがえる。
エララはカシアンを見上げ、幸せに微笑んだ。
この解のある世界で、彼と共に、これからもたくさんの美しい証明を描いていく。
その未来を思うと、エララの心は、無限に広がる星空を見つけた時のような、静かな喜びに満たされるのだった。
≪完≫
フェイランの厳しい冬は過ぎ去り、凍てついていた大地には柔らかな緑が芽吹き始めている。
雪解け水を集めて勢いを増した川のせせらぎが、新しい季節の訪れを告げていた。
領都の一角。
石造りの小さな学び舎からは、子供たちの快活な声が響き渡る。
「せんせい! この線とこの線を繋いだら、もっと綺麗な形になったよ!」
「まあ、本当ですわ。それは『黄金螺旋』の始まりに似ていますね。自然界にたくさん隠れている、とても美しい形です」
子供たちに囲まれ、柔らかな微笑みを浮かべているのはエララだった。
彼女はもう、王都にいた頃のような、儚げで消え入りそうな令嬢ではない。
その灰色の瞳には、穏やかな自信と、深い愛情の色が宿っていた。
銀色がかった金髪をシンプルな結い上げにし、動きやすいが仕立ての良いドレスを身にまとった姿は、この土地にすっかり馴染んでいる。
追放されてきた公爵令嬢が、辺境の子供たちに論理学の初歩を教えている。
王都の貴族が聞けば眉をひそめるような光景だろう。
だが、ここフェイランでは、それは日常の温かな一コマとなっていた。
「では、今日の問題はここまで。皆さんが見つけてくれた美しい形を、次の時間までにもっとたくさん探してきてくださいね」
「「「はい、エララ先生!」」」
元気な挨拶と共に、子供たちが学び舎から駆け出していく。
その後ろ姿を、エララは愛おしそうに見送っていた。
彼女が教えているのは、難しい数式ではない。
自然の中に隠された法則、物事を順序立てて考えることの楽しさ。
かつて彼女が一人きりで向き合ってきた世界を、今はこうして分かち合うことができる。
その事実が、エララの胸を温かいもので満たしていた。
「今日も盛況だったようだな」
背後からかけられた穏やかな声に、エララは微笑んで振り返った。
「カシアン様」
そこには、変わらぬ静かな佇まいで、辺境伯カシアン・ヴァレリウスが立っていた。
一年前よりも、その表情には柔らかな光が差しているように見える。
「ええ。子供たちの思考は、どんな複雑な幾何学模様よりも自由で、見ていて飽きませんわ」
「君が楽しそうで何よりだ」
そう言って、カシアンはごく自然にエララの手を取る。
その仕草に、もう戸惑いはない。
二人の間には、共に過ごした時間が育んだ、確かな信頼と愛情が流れていた。
「少し、散歩でもしないか。君に見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの、ですか?」
その言葉に、エララの灰色の瞳に微かな光が宿る。カシアンが何か特別なものを用意しているのだと、予感せずにはいられなかった。
カシアンに導かれるまま、エララは学び舎を後にした。
二人が歩む道すがら、領民たちが親しげに挨拶をしてくる。
エララが設計に関わった新しい水路が勢いよく流れ、灌漑された畑は青々と潤っていた。
彼女の知識は、もはや剣のためだけのものではない。
この土地を豊かにする、希望の源となっていた。
やがて二人がたどり着いたのは、領都を見下ろす小高い丘の上だった。
そこからは、エララとカシアンが二人で計画し、築き上げてきた新しいフェイランの街並みが一望できた。
整然と区画整理された通り、合理的な設計で建てられた家々。
そして領地を流れる川には、頑丈で美しいアーチ橋が架かっている。
一年という短い期間で、この土地は驚くほどの発展を遂げていた。
「……美しいですわ。まるで、完璧な証明を目の当たりにしているようです」
エララが感嘆の息を漏らすと、カシアンは隣で静かに頷いた。
「君の知恵がなければ、この景色はなかった」
「いいえ。カシアン様が、私の言葉を信じてくださったからです。そして、領地の皆さんが力を貸してくれたから……」
その通りだ、とカシアンは微笑む。
「エララ」
不意に、彼は真剣な声でエララの名前を呼んだ。
エララが彼の方を向くと、カシアンは懐から小さな布包みを取り出し、ゆっくりと開いた。
その中にあったのは、一本の指輪だった。
王都で見るような、大粒の宝石が飾られた華美なものではない。
それは、鈍い銀色の輝きを放つ、極めてシンプルな意匠の指輪だった。
素材は、エララの剣と同じフェイラン鋼。
表面には、よく見なければわからないほど繊細な、無限を意味する幾何学模様が刻まれている。
「鍛冶師の友人に頼んで、打ってもらったものだ」
カシアンは指輪を手に取り、エララの前にゆっくりと跪いた。
「豪華な宝石は、君には似合わないと思った。君の本質は、その知性そのものだ。だから、君の思考を体現したこの金属で、作りたかった」
彼の黒い瞳が、まっすぐにエララを見つめている。
その眼差しは、深い愛情と確かな決意に満ちていた。
「君の剣のように、無駄がなく、本質だけで構成されていて、そして何よりも美しい。そんな我々の未来を、君と共に築きたい」
カシアンは、エララの左手を取った。
その手は、かつては剣を握り、今は子供たちにチョークを握らせる、温かくしなやかな手だ。
「エララ・フォン・ヘムロック。私の妻になってほしい。私の人生という方程式の、永遠の解として、これからもそばにいてくれないか」
風が丘を吹き抜け、エララの銀髪を優しく揺らす。
彼女の灰色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではない。
失われたものを取り戻した喜びでもない。
ただ、自分のありのままが、これ以上ないほど美しい形で肯定されたことへの、静かで深い感動だった。
「……はい、カシアン様」
エララは、満面の笑みを浮かべた。
それは、太陽の下で咲き誇る花のように、明るく、迷いのない笑顔だった。
「これほどまでに心が震えるとは思いませんでしたわ。まさしく、私の人生における、最も幸福な『証明』です」
カシアンは安堵したように息をつくと、優しく指輪を彼女の薬指にはめた。
フェイラン鋼の指輪は、まるでずっとそこにあったかのように、エララの指にしっくりと馴染んだ。
立ち上がったカシアンは、エララをそっと抱きしめる。
二人の影が、夕陽に照らされた丘の上に、一つに重なっていた。
後日、王都から訪れた行商人が、遠い噂話を運んできた。
アラリック王子の治世は、困難を極めているらしい。
彼の強引なやり方は貴族たちの離反を招き、イゾルデとの関係も冷え切っているという。
エララを見捨てたヘムロック公爵家もまた、社交界での信用を失い、その権勢には陰りが見えているとのことだった。
その話を聞いた時も、エララの心は凪いだ湖のように穏やかだった。
「そうですか」
彼女はただ、それだけを呟いて、淹れたてのハーブティーに口をつけた。
もはや、それは彼女が解くべき問題ではない。
彼らの世界で導き出される解がどのようなものであっても、エララの幸福を揺るがす変数にはなり得なかった。
彼女の世界は、ここにあるのだから。
春の日差しが降り注ぐ、新しい領主の館の庭で、エララは子供たちに星の軌道を教えている。
その傍らでは、カシアンが領地の新しい設計図を広げ、彼女に意見を求めていた。
穏やかで、知的で、愛に満ちた日常。
ふと、森との境界の茂みががさりと揺れた。
そこから姿を現したのは、銀色の毛並みを持つ、狼に似た大きな獣だった。
それはこのフェイランの地に古くから棲むと言われる守り神で、人々が親しみを込めて「フェン」と呼ぶ存在だ。
フェンは大きなあくびを一つすると、エララとカシアンの足元にやってきて、気持ちよさそうに体を擦り付けた。
まるで、この土地そのものが、二人を祝福しているかのようだ。
エララはフェンの柔らかな毛を撫でながら、発展していく領地を見渡す。
かつて彼女の世界は、解のない問題ばかりに思えた。
自身の価値、社会との軋轢、愛されることの難しさ。
しかし、今ならわかる。
解がなかったのではない。
ただ、解を導き出すための、正しい座標軸を持っていなかっただけだ。
カシアンが、そっとエララの手を握る。
薬指にはめられた指輪が、太陽の光を浴びて静かに輝いた。
「君の描く線は、どんな魔法よりも美しい」
いつか彼が言ってくれた言葉が、胸によみがえる。
エララはカシアンを見上げ、幸せに微笑んだ。
この解のある世界で、彼と共に、これからもたくさんの美しい証明を描いていく。
その未来を思うと、エララの心は、無限に広がる星空を見つけた時のような、静かな喜びに満たされるのだった。
≪完≫
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