無能と蔑まれ婚約破棄された私の数学は、最強の剣術でした~元婚約者が後悔した頃には、寡黙な辺境伯に世界一溺愛されています~

aozora

文字の大きさ
19 / 20

19

しおりを挟む
 振り下ろされる大剣の切っ先が、重力と憎悪に引かれ、死の軌道を描いた。

 ボルグの醜く歪んだ笑顔が、血に濡れたカシアンの姿を映し出す。

 勝利を確信した、その醜悪な顔。時間が、引き伸ばされていく。

 一秒が、永遠にも思えるほどに引き延ばされた。

 だが、その永遠にも似た猶予は、エララにとって思考のための、ほんのわずかな時間に過ぎなかった。

 カシアンを守る。

 その命題が、彼女の世界における唯一の公理となる。

 解は、既に導き出されていた。

 ゴッ、と空気を裂くような音が響く。ボルグの大剣がカシアンの喉笛を断つ、その寸前だった。

 世界からエララの姿が、幻のように掻き消える。

「――なっ!?」

 ボルグの驚愕の声は、音にならなかった。ただ、喉の奥で息を呑むような、不自然な響きだけが漏れる。

 そこにあるはずのものが、ない。

 代わりに、彼の屈強な腕に、信じられないほど軽い衝撃が走った。

 まるで、柳の枝で水面を撫でられたかのような、微かな感触。

 しかし、その刹那、彼の剛腕から全ての力が抜けていった。

 大剣の軌道が、大きく逸れる。

 ボルグの視線が、不審げに自らの腕を捉えた。手首の、腱が集中する一点。そこに、銀色の閃光が触れた痕跡がある。

 傷は、浅い。紙で切ったかのような、細く赤い線が一本走っているだけだった。

 だが、その一本の線が、彼の腕の機能を完全に断絶させていた。

「ぐ……ぁ……?」

 何が起きたのか理解できないまま、ボルグは背後に人の気配を感じて振り返る。

 そこに、エララが立っていた。

 いつの間に。どうやって。

 まるで最初からそこにいたかのように、彼女は音もなく佇んでいる。

 その灰色の瞳は、凍てついた湖面のようだった。感情という波紋が一切存在しない、絶対零度の静寂。

 腰に佩かれたフェイラン鋼の剣は、既に鞘に納まっている。

 抜いたことすら認識させない、神速の抜刀。

 否、それは単なる速さではない。

 ボルグが振り下ろす剣のベクトル、その力のモーメント、重心の移動。その全てを完璧に予測し、最小の力で最大の効果を生む一点に、ただ刃を『置いた』だけなのだ。

 抵抗も、衝突もない。

 ただ、そこにあるべくしてあった刃が、彼の動きという方程式の解を、無慈悲に書き換えた。

「き、貴様……化け物か……っ!」

 恐怖に駆られたボルグが、動く左腕で腰の短剣を抜こうとする。

 だが、その予備動作という変数すら、エララの計算には織り込み済みだった。

 再び、銀色の閃光。

 今度は、ボルグの膝。先ほどと同じ、浅く、しかし致命的なまでに正確な一閃が、彼の脚の腱を断ち切った。

「ぎゃあああああっ!」

 巨体が、崩れ落ちる。

 ボルグは地面に膝をつき、信じられないものを見る目でエララを見上げた。

 か弱い、貴族の令嬢。

 物憂げな顔で本ばかり読んでいるような、線の細い女。

 その女が、今、自分を虫けらのように見下ろしている。その瞳には、侮蔑も怒りもない。ただ、そこにある障害物を処理するかのような、無機質な光だけがあった。

 エララは倒れたボルグを一瞥もせず、その傍らを通り過ぎる。

 その足は、まっすぐに、血だまりの中に横たわるカシアンへと向かっていた。

 残されたならず者たちは、あまりに非現実的な光景に凍り付いていた。最強と信じていた頭目が、赤子の手をひねるように、二合と打ち合うこともなく無力化されたのだ。

 もはや、戦意など残っていなかった。

「……退け」

 エララの、静かだが氷のように鋭い声が響く。

 それは命令であり、宣告だった。

 ならず者たちは、武器を捨て、我先にと逃げ出していく。

 戦場に残されたのは、静寂と、血の匂いと、そして、ただ一人だけを想う少女の姿だった。

「カシアン様……!」

 絶対零度の仮面が、音を立てて砕け散る。

 エララはカシアンのそばに膝をつくと、震える手で彼の傷口に触れた。

 ドレスに染み込んだ彼の血が、じわりと彼女の指先を濡らす。

 熱い。

 あまりにも、熱い。

 それは、失われていく生命の温度だった。

「しっかりしてください、カシアン様! 今、お医者様を……!」

 彼女の灰色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

 それは、彼を傷つけられた怒りでも、敵を排除した達成感でもない。

 ただ、愛する人を失うかもしれないという、原始的な恐怖から生まれた、純粋な悲しみの結晶だった。

 論理も、数式も、ここでは何の役にも立たない。

 この温もりが失われるという可能性を前にして、彼女の築き上げた知性の城は、あまりにも脆く崩れ去っていく。

 エララは、駆けつけた兵士たちに助けを求め、カシアンが担架で運ばれていく間も、その手を固く、固く握りしめて離さなかった。

 まるで、それが彼をこの世に繋ぎとめる、唯一のアンカーであるかのように。

 ***

 辺境伯の館の一室は、薬草の匂いと、張り詰めた沈黙に満たされていた。

 カシアンはベッドに横たわり、浅い呼吸を繰り返している。腕の傷は深く、高熱が続いていた。

 医師は最善を尽くしたと言い、後は本人の生命力次第だと告げて、部屋を辞した。

 それから、丸二日。

 エララは、一睡もせずにカシアンの傍らに座り続けていた。

 侍女が持ってくる食事にもほとんど手をつけず、ただ濡らした布で彼の額を拭い、乾いた唇を湿らせ、そして、祈るようにその顔を見つめていた。

 彼女の頭の中では、無数の数式が明滅しては消えていく。

 彼の呼吸の間隔、脈拍の速さ、体温の微細な変化。

 全てのデータを入力しても、導き出される解は『不確定』という、最も残酷なものだった。

 世界は数式でできている、と賢者ギデオンは言った。

 けれど、この人の命という変数は、あまりにも複雑で、あまりにも尊い。

 私の知性など、この人の温もりの前では、何の意味も持たないではないか。

 失ってしまったら?

 もう二度と、あの優しい声が聞けなくなってしまったら?

 私の描く線を、魔法よりも美しいと言ってくれる人が、いなくなってしまったら?

 その想像は、鋭い刃となってエララの心を切り刻んだ。

 三日目の夜明け前。

 暖炉の火が静かに揺らめき、部屋に淡い光と影を落としている。

 疲れ果てたエララが、カシアンの手を握ったまま、ベッドの脇でうたた寝をしかけた、その時だった。

「……エララ」

 掠れた、しかし聞き間違えるはずもない声が、彼女の名前を呼んだ。

 はっと顔を上げたエララの視線の先で、カシアンの黒い瞳が、ゆっくりと開かれていた。

「カシアン様……っ!」

 エララの瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 声にならない嗚咽が、喉の奥から込み上げてくる。

「よかった……っ! 本当に……本当によかった……っ!」

 彼女は握りしめていた彼の手を自らの額に押し当て、ただ泣きじゃくった。

 カシアンは、そんな彼女の姿を、愛おしげに見つめている。

 彼は痛みに顔をしかめながらも、自由な方の腕を伸ばし、そっとエララの銀色の髪を撫でた。

「泣かないでくれ。君が……泣いている顔は、見たくない」

「だって……! 私、怖かったのです……! あなたが、このまま……」

 言葉が続かない。

 カシアンは、弱々しくも確かな力で、彼女の体を自分の方へと引き寄せた。

 エララは、彼の胸に顔をうずめる形になる。

 トクン、トクン、と。

 彼の心臓の鼓動が、確かに伝わってくる。

 それは、世界で最も美しい証明だった。

「すまなかった。心配をかけた」

 カシアンの優しい声が、頭上から降ってくる。

「君を……守れて、よかった」

「いいえ……っ!」

 エララは顔を上げ、涙に濡れた瞳でカシアンをまっすぐに見つめた。

「もう、あんな無茶は……なさらないでください! 私が……私が守ります! あなたのことも、このフェイランのことも。私のこの剣と、この知性にかけて、必ず……! 誓います……!」

 その言葉に、カシアンは驚いたように少し目を見開いた。

 そして、すぐに、たまらなく優しい笑みを浮かべた。

「ああ……君は、本当に強いな」

 彼は、そっとエララの頬に手を添え、親指で涙の跡を拭う。

「エララ。私はずっと、考えていた。私の人生は、複雑な問題ばかりで、なかなか解が見つからない、厄介なものだと思っていた」

 その黒い瞳が、真剣な光を帯びて、エララの心を射抜く。

「王都での確執も、この辺境の統治も、全てが変数だらけの方程式だった。だが、君と出会って、わかったんだ」

 彼の言葉が、静かな部屋に響き渡る。

「私の人生という問題の、ただ一つの解は君だ」

 エララの呼吸が、止まった。

 灰色の瞳が、大きく見開かれる。

 ただ一つの、解。

 それは、エララがずっと求め続けてきた言葉。

 彼女の存在そのものを肯定する、何よりも美しい答えだった。

「君がいれば、他のどんな問題も解ける気がする。君が、私の世界の……座標軸になってくれる」

 カシアンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 エララは、もう戸惑わなかった。

 彼女はそっと目を閉じる。

 そして、二人の唇が、静かに重なった。

 それは、慰めでも、同情でもない。

 互いの魂が、唯一無二の正解を見つけ出したことを確かめ合うような、深く、優しい口づけだった。

 恋という名の未解決問題に、今、最も美しい解が与えられた瞬間だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約破棄された宰相です。 正直、婚約者も宰相も辞めたかったので丁度よかったです

鍛高譚
恋愛
内容紹介 「婚約破棄だ! そして宰相もクビだ!」 王宮の舞踏会で突然そう宣言したのは、女性問題を繰り返す問題王太子ユリウス。 婚約者であり王国宰相でもあるレティシアは、静かに答えた。 「かしこまりました」 ――正直、本当に辞めたかったので。 これまで王太子の女性問題の後始末、慰謝料交渉、教会対応、社交界の火消し…… すべて押し付けられていたレティシアは、婚約も宰相職もあっさり辞任。 そしてその瞬間―― 王宮が止まった。 料理人が動かない。 書類が処理されない。 伝令がいない。 ついにはトイレの汚物回収まで止まり、王宮は大混乱。 さらに王太子の新たな女性問題が発覚し、教会は激怒。 噂は王都中に広がり、王宮は完全に統治不能に。 そしてついに―― 教会・貴族・王家が下した決断は、 「王太子廃嫡」 そして。 「レティシア、女王即位」 婚約破棄して宰相をクビにした結果、 王宮を止めてしまった元王太子の末路とは――? これは、婚約破棄された宰相が女王になるまでの 完全自業自得ざまぁ物語。

公爵家の家政を10年回した私が出ていったら、3ヶ月で領地が破綻しました

歩人
ファンタジー
エレナは公爵家に嫁いで10年、夫は愛人に入れ込み、義母には「家政婦代わり」と 罵られた。だが領地の財務も、商会との交渉も、使用人の管理も、全部エレナが やっていた。ある日、義母から「あなたの代わりなんていくらでもいる」と言われ、 エレナは静かに離縁届を出した。「では、代わりの方にお任せください」 辺境の町で小さな商会を開いたエレナ。10年間の実務経験は伊達ではなかった。 商会はたちまち繁盛する。一方、エレナがいなくなった公爵家は3ヶ月で経営破綻。 元夫が「戻ってこい」と泣きつくが—— 「お断りです。あと、10年分の未払い給金を請求いたしますね」

「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します

スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」 眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。 隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。 エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。 しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。 彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。 「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」 裏切りへのカウントダウンが今、始まる。 スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!

婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています

由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、 悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。 王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。 だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、 冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。 再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。 広場で語られる真実。 そして、無自覚に人を惹きつけてしまう リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。 これは、 悪役令嬢として断罪された少女が、 「誰かの物語の脇役」ではなく、 自分自身の人生を取り戻す物語。 過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、 彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。

物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜

丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。 与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。 専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、 失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。 そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、 セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。 「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」 彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、 彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。 嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、 広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、 独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。 栄養と愛情を取り戻したセレナは、 誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、 社交界で注目される存在となる。 一方、セレナを失った伯爵家は、 彼女の能力なしでは立ち行かず、 ゆっくりと没落していくのだった――。 虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。

「お前は用済みだ」役立たずの【地図製作者】と追放されたので、覚醒したチートスキルで最高の仲間と伝説のパーティーを結成することにした

黒崎隼人
ファンタジー
「お前はもう用済みだ」――役立たずの【地図製作者(マッパー)】として所属パーティーから無一文で追放された青年、レイン。死を覚悟した未開の地で、彼のスキルは【絶対領域把握(ワールド・マッピング)】へと覚醒する。 地形、魔物、隠された宝、そのすべてを瞬時に地図化し好きな場所へ転移する。それは世界そのものを掌に収めるに等しいチートスキルだった。 魔力制御が苦手な銀髪のエルフ美少女、誇りを失った獣人の凄腕鍛冶師。才能を活かせずにいた仲間たちと出会った時、レインの地図は彼らの未来を照らし出す最強のコンパスとなる。 これは、役立たずと罵られた一人の青年が最高の仲間と共に自らの居場所を見つけ、やがて伝説へと成り上がっていく冒険譚。 「さて、どこへ行こうか。俺たちの地図は、まだ真っ白だ」

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

無魔力の令嬢、婚約者に裏切られた瞬間、契約竜が激怒して王宮を吹き飛ばしたんですが……

タマ マコト
ファンタジー
王宮の祝賀会で、無魔力と蔑まれてきた伯爵令嬢エリーナは、王太子アレクシオンから突然「婚約破棄」を宣告される。侍女上がりの聖女セレスが“新たな妃”として選ばれ、貴族たちの嘲笑がエリーナを包む。絶望に胸が沈んだ瞬間、彼女の奥底で眠っていた“竜との契約”が目を覚まし、空から白銀竜アークヴァンが降臨。彼はエリーナの涙に激怒し、王宮を半壊させるほどの力で彼女を守る。王国は震え、エリーナは自分が竜の真の主であるという運命に巻き込まれていく。

処理中です...