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第十・五話 嵐の夜のチェス盤と大人のホットワイン
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窓の外では、叩きつけるような激しい雨風が吹き荒れていた。
時折走る稲光が、薄暗い北の塔の内部を一瞬だけ青白く切り取る。だが、その轟音も分厚い石壁の中までは届かない。
執務室の中央で、硬質な駒が盤を打つ音だけが、静謐な空間に響いていた。
「……チェック」
「ふむ」
シルヴィスが気だるげに指先を動かし、黒のナイトで退路を塞ぐ。
向かいの椅子に深く腰掛けたアレクシス王太子は、盤面を見つめて小さく息を吐いた。王宮での執務や、煌びやかだが中身のない夜会から抜け出してきた彼にとって、この偏屈な魔術師の塔は唯一、仮面を外せる場所だった。
だが今夜のアレクシスは、ただ羽を休めに来たわけではない。
「……で、あのメイドをどうするつもりなのかな」
クイーンを動かしながら、アレクシスは静かに切り出した。シルヴィスは頬杖をついたまま、視線だけをこちらに向ける。
「なんだ、いまさら」
「周りがうるさくてね。いい加減、ただのメイドだと言い張るのにも限界が来ている」
アレクシスは盤面から目を離し、偏屈な魔術師の紫紺の瞳を射抜くように見据えた。
「鉄の女、エレナ・フォスター。彼女に関する調査報告書は読んだ。身辺は潔白、他国の間者である線も薄い。……が、問題は彼女自身ではなく、君だ」
シルヴィスの眉がわずかに動く。
「これまで何十人もの使用人を追い返してきた、王国最強の魔術師。その君が、たった一人のメイドを特別扱いしている。……その事実が貴族たちにどう映るか、君なら分かるだろう?」
魔術師シルヴィスは、この国の武力の要であり、一種の生きた兵器として畏怖されている。彼が誰にもなびかず、孤高であることは、ある意味で権力バランスの安定装置でもあった。
だが、その彼が特定の個人に執着を見せれば、そこが急所になる。あるいは、取り入ろうとするハイエナたちの標的になる。
「勘違いしないでくれ。僕は君を制御したいんじゃない。心配してるんだ」
王太子としての冷徹な声音。しかしシルヴィスは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「俺はただ、快適な生活環境を維持しているに過ぎない。……それに」
シルヴィスが次の言葉を紡ごうとした時、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします。お夜食をお持ちしました」
静かに入ってきたのは、噂の渦中にあるメイド、エレナだった。
完璧な所作でサイドテーブルにトレイを置く。そこから漂ってきた芳醇な香りに、アレクシスは思わず言葉を止めた。
「これは……」
「今夜は冷えますので。スパイスを効かせたホットワインと、一口サイズのチーズパイでございます」
グラスに注がれた深紅の液体からは、シナモンやクローブの甘くスパイシーな香りが湯気と共に立ち上っている。添えられたパイは焼きたてで、バターの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
エレナは二人の会話を一切聞かなかったかのように、あるいは最初から空気であったかのように、音もなく一礼して部屋を出て行った。
残されたのは、男二人と、湯気を立てるワイン。
「……まったく」
アレクシスは苦笑し、グラスを手に取った。
口に含むと、温かいワインの熱と共に、柑橘の爽やかさと蜂蜜のコクが喉を潤していく。アルコールが冷えた体に染み渡り、張り詰めていた神経がほどけていくのがわかった。甘いだけではない。複雑で、深みのある大人の味だ。
「……美味いな」
「だろう」
シルヴィスもグラスを傾け、どこか自慢げに目を細めている。その無防備な表情を見て、アレクシスは溜息をつくと同時に、肩の力を抜いた。
「まんまと毒を盛られたわけか」
「人聞きの悪いことを言うな。これはただのワインだ」
「いいや、猛毒だよ……」
アレクシスはチーズパイを一つ摘まみ、サクサクとした食感を楽しんだ。
シルヴィスが彼女を側に置くリスクを理解していないはずがない。それでもここに置いているのは、彼女がもたらすこの温かさが、彼にとって代えがたいものだからだろう。
「……まあいい。僕のほうで何とかしてみるさ」
「余計なことをするな。自分の縄張りは自分で守る」
シルヴィスはチェス盤に視線を戻し、白のルークを指先で弾いた。
「チェックメイトだ」
盤面を見れば、いつの間にか王は追い詰められていた。アレクシスは降参のポーズで両手を上げ、残りのワインを飲み干す。
外の嵐はまだ続いている。だが、この塔の中だけは、スパイスの香りと穏やかな沈黙に満たされていた。
時折走る稲光が、薄暗い北の塔の内部を一瞬だけ青白く切り取る。だが、その轟音も分厚い石壁の中までは届かない。
執務室の中央で、硬質な駒が盤を打つ音だけが、静謐な空間に響いていた。
「……チェック」
「ふむ」
シルヴィスが気だるげに指先を動かし、黒のナイトで退路を塞ぐ。
向かいの椅子に深く腰掛けたアレクシス王太子は、盤面を見つめて小さく息を吐いた。王宮での執務や、煌びやかだが中身のない夜会から抜け出してきた彼にとって、この偏屈な魔術師の塔は唯一、仮面を外せる場所だった。
だが今夜のアレクシスは、ただ羽を休めに来たわけではない。
「……で、あのメイドをどうするつもりなのかな」
クイーンを動かしながら、アレクシスは静かに切り出した。シルヴィスは頬杖をついたまま、視線だけをこちらに向ける。
「なんだ、いまさら」
「周りがうるさくてね。いい加減、ただのメイドだと言い張るのにも限界が来ている」
アレクシスは盤面から目を離し、偏屈な魔術師の紫紺の瞳を射抜くように見据えた。
「鉄の女、エレナ・フォスター。彼女に関する調査報告書は読んだ。身辺は潔白、他国の間者である線も薄い。……が、問題は彼女自身ではなく、君だ」
シルヴィスの眉がわずかに動く。
「これまで何十人もの使用人を追い返してきた、王国最強の魔術師。その君が、たった一人のメイドを特別扱いしている。……その事実が貴族たちにどう映るか、君なら分かるだろう?」
魔術師シルヴィスは、この国の武力の要であり、一種の生きた兵器として畏怖されている。彼が誰にもなびかず、孤高であることは、ある意味で権力バランスの安定装置でもあった。
だが、その彼が特定の個人に執着を見せれば、そこが急所になる。あるいは、取り入ろうとするハイエナたちの標的になる。
「勘違いしないでくれ。僕は君を制御したいんじゃない。心配してるんだ」
王太子としての冷徹な声音。しかしシルヴィスは、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「俺はただ、快適な生活環境を維持しているに過ぎない。……それに」
シルヴィスが次の言葉を紡ごうとした時、控えめなノックの音が響いた。
「失礼いたします。お夜食をお持ちしました」
静かに入ってきたのは、噂の渦中にあるメイド、エレナだった。
完璧な所作でサイドテーブルにトレイを置く。そこから漂ってきた芳醇な香りに、アレクシスは思わず言葉を止めた。
「これは……」
「今夜は冷えますので。スパイスを効かせたホットワインと、一口サイズのチーズパイでございます」
グラスに注がれた深紅の液体からは、シナモンやクローブの甘くスパイシーな香りが湯気と共に立ち上っている。添えられたパイは焼きたてで、バターの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
エレナは二人の会話を一切聞かなかったかのように、あるいは最初から空気であったかのように、音もなく一礼して部屋を出て行った。
残されたのは、男二人と、湯気を立てるワイン。
「……まったく」
アレクシスは苦笑し、グラスを手に取った。
口に含むと、温かいワインの熱と共に、柑橘の爽やかさと蜂蜜のコクが喉を潤していく。アルコールが冷えた体に染み渡り、張り詰めていた神経がほどけていくのがわかった。甘いだけではない。複雑で、深みのある大人の味だ。
「……美味いな」
「だろう」
シルヴィスもグラスを傾け、どこか自慢げに目を細めている。その無防備な表情を見て、アレクシスは溜息をつくと同時に、肩の力を抜いた。
「まんまと毒を盛られたわけか」
「人聞きの悪いことを言うな。これはただのワインだ」
「いいや、猛毒だよ……」
アレクシスはチーズパイを一つ摘まみ、サクサクとした食感を楽しんだ。
シルヴィスが彼女を側に置くリスクを理解していないはずがない。それでもここに置いているのは、彼女がもたらすこの温かさが、彼にとって代えがたいものだからだろう。
「……まあいい。僕のほうで何とかしてみるさ」
「余計なことをするな。自分の縄張りは自分で守る」
シルヴィスはチェス盤に視線を戻し、白のルークを指先で弾いた。
「チェックメイトだ」
盤面を見れば、いつの間にか王は追い詰められていた。アレクシスは降参のポーズで両手を上げ、残りのワインを飲み干す。
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