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第七・八話 聖女の焦燥と実家からの手紙
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北の塔を背にした馬車の中で、リリアナ・ヴァレンタインは小さく息を吐いた。
窓の外を流れる景色は、来るときよりも鮮やかに見える。それは、シルヴィスへの未練を断ち切り、憑き物が落ちたからかもしれない。あるいは、懐に忍ばせた一通の手紙による呪縛から、解放されたからかもしれない。
「……終わったわね」
彼女は揺れる車内で、これまでの自身の暴走を振り返っていた。そもそも、なぜあそこまで焦ってしまったのか。事の発端は、聖女の耳に届いた、ある噂だった。
『あの人間嫌いの偏屈魔術師が、ついに女を招き入れたらしい』
その噂には、様々な尾ひれがついていた。「絶世の美女だ」「いや、他国の姫君だ」「シルヴィス様が骨抜きにされている」――。それを聞いた時、リリアナの心臓は早鐘を打った。
(まさか。あの方が、特定の人間に心を許すなんて)
リリアナの脳裏に、かつて留学に来たばかりの頃、初めてシルヴィス・クローデルを見た時の記憶が蘇る。
王宮の回廊ですれ違ったその男は、美しかった。だが、それは命あるものの美しさではない。凍てついた氷像のような、触れれば指が張り付いて壊死してしまいそうな、拒絶の美だった。その瞳は、周囲の人間を塵芥か、あるいは実験材料としか見ていないような冷たさを湛えていた。
(……あんな男と結婚したら、私はきっとストレスで胃に穴が開いて死んでしまうわ)
それが、リリアナの偽らざる第一印象だった。だが、彼女はヴァレンタイン公爵家の娘であり、サザランド王国を代表する聖女だ。個人の感情など、家の利益の前では無に等しい。実家からの指令は絶対だった。
『アステリア王国最強と名高い魔術師、シルヴィス・クローデルと婚姻を結べ。聖女の魔力と、彼の天才的な才能。その二つを受け継ぐ子どもが生まれれば、我が公爵家の地位は盤石となる』
愛など求めていない。求められているのは優秀な魔術師の種だけだ。
リリアナは恐怖を押し殺し、事あるごとに会食を願い出た。門前払いも覚悟していた。だが意外なことに、彼はリリアナとの会食には応じた。今思えば、それは単に「隣国の公爵令嬢」に対する、最低限の外交的配慮でしかなかったのだろう。
食事中、彼は不機嫌そうにナイフを動かすだけだった。会話など成立しない。リリアナが何を話しても「ふん」「そうか」と返すのみ。だが、一度だけ。彼が瞳の深淵に光を宿した瞬間があった。
それは、リリアナが祖国の古流魔術の話をした時だ。
「……ほう」
彼はリリアナ自身ではなく、リリアナが持つ魔術の知識に興味を示したのだ。それでも、リリアナはそれを希望の光だと勘違いした。ゆっくりでいい。魔術という共通言語を通じて、少しずつ信頼関係を築いていこう。そう思っていた矢先の、あの噂だった。
(私がこれほど慎重に進めているのに、どこの誰とも知らぬ女が!)
焦燥に駆られたリリアナは、半ば突撃するように北の塔へ向かった。そこで出迎えたのは――エレナ・フォスター。整った顔立ちではあるが、地味で、特徴のないメイドだった。
拍子抜けした。こんな平民の女が、私のライバルだというの? だが、塔に上がり込み、シルヴィスの姿を見た瞬間、リリアナの聖女としての勘が警鐘を鳴らした。
以前会った時とは、明らかに違う。病的だった肌には人間らしい血色が戻り、痩せこけていた頬には張りがある。瞳は明瞭とし、以前のような荒んだ殺気が薄れている。
一目瞭然だった。この偏屈な魔術師は今、心身ともに満たされている。そしてその原因が、甲斐甲斐しく茶を淹れる、あの「ただのメイド」であることも。
(……悔しい!)
嫉妬と、プライドが燃え上がった。彼は食事によって飼い慣らされている。ならば、聖女である私にだってできるはずだ。最高級の食材と、最高の魔術を使えば、平民の手料理など足元にも及ばないはず。
そう信じて挑んだ料理対決。結果は、惨敗だった。「家畜の餌以下」と吐き捨てられた屈辱に涙して帰った夜、リリアナは実家の父へ手紙を書いた。『シルヴィス様との婚姻は難しいかもしれません。彼は、心に決めた相手がいるようです』と。
すぐに返信が来た。重厚な羊皮紙に記されていたのは、慰めでも励ましでもなく、冷徹な通告だった。
『何のために留学させていると思っている。泣き言など不要だ。公爵令嬢としての有用性を示せ』
『もしクローデル家との縁談をまとめられないのなら、即刻帰国せよ。有用な相手など、他にもいくらでもいる』
その文字を見た瞬間、リリアナの中で何かが冷めた。自分は、父にとって政治の道具でしかない。シルヴィスへの憧れも、聖女としての誇りも、家の利益の前には無価値なのだ。だからこそ、彼女は覚悟を決めた。恋だの愛だのはもういい。道具として生きるなら、せめて最高級の道具として、シルヴィスに利益を提示しよう。
それがあの、破格の条件を突きつけた乾いたプロポーズだったのだ。
「……でも、振られてしまったわね」
リリアナは自嘲気味に笑った。完敗だった。金も、名誉も、魔力も。彼にとっては、あのメイドが作る一杯の紅茶以下の価値しかなかったのだ。
けれど不思議と、心は晴れやかだった。精一杯やって、砕け散った。父の命令も、もうどうでもいい。私は私の矜持を持って、戦って負けたのだから。
「……お幸せに。偏屈魔術師様」
リリアナは懐の手紙を細かく引き裂き、窓の外へと捨てた。紙吹雪となって風に舞うそれらは、彼女の初恋の欠片のようにも見えた。
窓の外を流れる景色は、来るときよりも鮮やかに見える。それは、シルヴィスへの未練を断ち切り、憑き物が落ちたからかもしれない。あるいは、懐に忍ばせた一通の手紙による呪縛から、解放されたからかもしれない。
「……終わったわね」
彼女は揺れる車内で、これまでの自身の暴走を振り返っていた。そもそも、なぜあそこまで焦ってしまったのか。事の発端は、聖女の耳に届いた、ある噂だった。
『あの人間嫌いの偏屈魔術師が、ついに女を招き入れたらしい』
その噂には、様々な尾ひれがついていた。「絶世の美女だ」「いや、他国の姫君だ」「シルヴィス様が骨抜きにされている」――。それを聞いた時、リリアナの心臓は早鐘を打った。
(まさか。あの方が、特定の人間に心を許すなんて)
リリアナの脳裏に、かつて留学に来たばかりの頃、初めてシルヴィス・クローデルを見た時の記憶が蘇る。
王宮の回廊ですれ違ったその男は、美しかった。だが、それは命あるものの美しさではない。凍てついた氷像のような、触れれば指が張り付いて壊死してしまいそうな、拒絶の美だった。その瞳は、周囲の人間を塵芥か、あるいは実験材料としか見ていないような冷たさを湛えていた。
(……あんな男と結婚したら、私はきっとストレスで胃に穴が開いて死んでしまうわ)
それが、リリアナの偽らざる第一印象だった。だが、彼女はヴァレンタイン公爵家の娘であり、サザランド王国を代表する聖女だ。個人の感情など、家の利益の前では無に等しい。実家からの指令は絶対だった。
『アステリア王国最強と名高い魔術師、シルヴィス・クローデルと婚姻を結べ。聖女の魔力と、彼の天才的な才能。その二つを受け継ぐ子どもが生まれれば、我が公爵家の地位は盤石となる』
愛など求めていない。求められているのは優秀な魔術師の種だけだ。
リリアナは恐怖を押し殺し、事あるごとに会食を願い出た。門前払いも覚悟していた。だが意外なことに、彼はリリアナとの会食には応じた。今思えば、それは単に「隣国の公爵令嬢」に対する、最低限の外交的配慮でしかなかったのだろう。
食事中、彼は不機嫌そうにナイフを動かすだけだった。会話など成立しない。リリアナが何を話しても「ふん」「そうか」と返すのみ。だが、一度だけ。彼が瞳の深淵に光を宿した瞬間があった。
それは、リリアナが祖国の古流魔術の話をした時だ。
「……ほう」
彼はリリアナ自身ではなく、リリアナが持つ魔術の知識に興味を示したのだ。それでも、リリアナはそれを希望の光だと勘違いした。ゆっくりでいい。魔術という共通言語を通じて、少しずつ信頼関係を築いていこう。そう思っていた矢先の、あの噂だった。
(私がこれほど慎重に進めているのに、どこの誰とも知らぬ女が!)
焦燥に駆られたリリアナは、半ば突撃するように北の塔へ向かった。そこで出迎えたのは――エレナ・フォスター。整った顔立ちではあるが、地味で、特徴のないメイドだった。
拍子抜けした。こんな平民の女が、私のライバルだというの? だが、塔に上がり込み、シルヴィスの姿を見た瞬間、リリアナの聖女としての勘が警鐘を鳴らした。
以前会った時とは、明らかに違う。病的だった肌には人間らしい血色が戻り、痩せこけていた頬には張りがある。瞳は明瞭とし、以前のような荒んだ殺気が薄れている。
一目瞭然だった。この偏屈な魔術師は今、心身ともに満たされている。そしてその原因が、甲斐甲斐しく茶を淹れる、あの「ただのメイド」であることも。
(……悔しい!)
嫉妬と、プライドが燃え上がった。彼は食事によって飼い慣らされている。ならば、聖女である私にだってできるはずだ。最高級の食材と、最高の魔術を使えば、平民の手料理など足元にも及ばないはず。
そう信じて挑んだ料理対決。結果は、惨敗だった。「家畜の餌以下」と吐き捨てられた屈辱に涙して帰った夜、リリアナは実家の父へ手紙を書いた。『シルヴィス様との婚姻は難しいかもしれません。彼は、心に決めた相手がいるようです』と。
すぐに返信が来た。重厚な羊皮紙に記されていたのは、慰めでも励ましでもなく、冷徹な通告だった。
『何のために留学させていると思っている。泣き言など不要だ。公爵令嬢としての有用性を示せ』
『もしクローデル家との縁談をまとめられないのなら、即刻帰国せよ。有用な相手など、他にもいくらでもいる』
その文字を見た瞬間、リリアナの中で何かが冷めた。自分は、父にとって政治の道具でしかない。シルヴィスへの憧れも、聖女としての誇りも、家の利益の前には無価値なのだ。だからこそ、彼女は覚悟を決めた。恋だの愛だのはもういい。道具として生きるなら、せめて最高級の道具として、シルヴィスに利益を提示しよう。
それがあの、破格の条件を突きつけた乾いたプロポーズだったのだ。
「……でも、振られてしまったわね」
リリアナは自嘲気味に笑った。完敗だった。金も、名誉も、魔力も。彼にとっては、あのメイドが作る一杯の紅茶以下の価値しかなかったのだ。
けれど不思議と、心は晴れやかだった。精一杯やって、砕け散った。父の命令も、もうどうでもいい。私は私の矜持を持って、戦って負けたのだから。
「……お幸せに。偏屈魔術師様」
リリアナは懐の手紙を細かく引き裂き、窓の外へと捨てた。紙吹雪となって風に舞うそれらは、彼女の初恋の欠片のようにも見えた。
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