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第五章 終わりにしよう
06 炎の決着②
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炎と煙は、麗美の予想以上の速さであっという間に広がった。
「絵美子……」
元来た道を走りながら、麗美は何度も広場の方に振り返っては──煙でもうほとんど見えなくなっている──残してきた友人を想った。
「麗美、スピード落とさないで。煙にやられるよ」百合子が振り返らずに言った。「絵美子なら大丈夫だから。本人だって言ってたでしょ」
「もうすぐ最初の場所だ、麗美ちゃん」保も振り返らない。「そこで待とう」
麗美は初めて、前を走る二人の大人に対して強い怒りと失望を覚えた。
〝必ず後から行くわ〟
あの言葉を、本気で信じているというのか。獣を完全に始末したところで、あの炎と大量の煙から無事に逃れられるとは思えない。助かるとは思えない──たとえ既に死んでいる身なのだとしても。
──これでお別れなんて嫌だ。
図書室で絵美子と初めて出会った際の記憶が蘇った。名前の通りの、絵のような美しさ。
── 仲良くなったばかりなのに。
北欧神話で好きな神様は? エティエンヌ・ロワの小説以外には、どんな本を読む? まだまだ知らない事が沢山ある。
──それに……。
ぶわり、と溢れ出した涙のせいで、麗美の視界がぼやけた。
──死ぬ前だってしんどかったはずなのに……また苦しまなきゃならないの?
体中にのし掛かるような、重く、苦しい思考は、唐突に左腕を引っ張られた事で、強制的に中断させられた。足がもつれ、危うく転びかける。
「熱っ──」
華奢な手は、麗美の腕を離そうとしなかった。叔母のものかと思われたそれは、木々の向こうの暗闇から伸びてきている。よく見れば黒焦げで、肌の色がほとんど残っていない。そして何よりも異様なまでの熱さ──まるで炎そのもののようだ──で、麗美の肌を白いシャツの上から焼こうとした。
「麗美!?」
異変に気付いた百合子が駆け寄って来る。
「熱い熱い熱い! 痛い! やめて熱い!」
麗美はパニックを起こしながらも、必死で黒焦げの手を引き剥がそうとした。
「麗美ぃ……熱い……助けてぇ……」絵美子の声が囁いた。「わたしを見捨てないでぇ……」
「もうその手は喰らわねえよ、クソが!」
パキッ。
保のメリケンサックが黒焦げの手の甲にめり込むと、何かが砕ける音がした。絵美子とは似ても似付かない耳障りな悲鳴が上がると、風もないのに木々の葉が騒めき、黒焦げの手は吸い込まれるようにして暗闇の中に消えていった。
「怪我は!?」
保が麗美の左手を取り、焦げかけたシャツの袖を捲り、ライトを当てた。掴まれていた部分が赤くなっているが、水疱や皮膚の剥がれはない。
「見たところ、軽い火傷だな。戻ったらすぐ冷やそう」
「ねえ、今のは何!? 〝あいつ〟は絵美子が倒してくれるんじゃなかったの? 絵美子は無事なの!?」
百合子は責めるような麗美の視線を受け止め、
「この森には〝あいつ〟以外にも何かがいる。二〇年前もそうだった」
「わ……わたし、やっぱり嫌だ。絵美子を助けに──」
「死にたいの?」
叔母の氷のように冷たい声を聞いたのは、麗美はこれが初めてだった。
「煙はすぐそこまで来てる。何も出来ずに無駄死にするだけよ」
言い返す言葉が見付からず、麗美は唇を噛み締めた。
「絵美子の言葉を……絵美子を信じなさい。ね?」
「そうだ。信じようぜ」保が麗美の肩にそっと手を置いた。「あいつは強いよ、色んな意味で。生きていた時からな」
「ほら、行くよ」
百合子が手を差し出したが、麗美は小さくかぶりを振った。
「麗美──」
「ああ、そうじゃなくって」麗美は少々慌てたように付け加えた。「手を繋いだら、走りにくいから」
「脱出は……どうするの?」
無事に最初の地点まで辿り着くと、麗美は隣で息を切らしている叔母に尋ねた。
「〝あいつ〟を倒せば……抜け出せるはずよ」
麗美は空を覆う分厚い葉のカーテンを中心に、周囲を忙しなく見回した。何処かに切れ目が、出口へと繋がる光がないだろうかと、ほんの僅かな期待を寄せながら。
「まずいな、煙が」
「そうね、だんだん暑くなってきてるし……まあ走ったからってのも、あるかな」
言葉とは裏腹に、二人の大人の声は冷静だ。
「まだ息切らしてんのか。運動不足だな」
「あんたこそ、足腰ヤバいんじゃない?」
何を呑気な、と抗議の声を上げかけた麗美だったが、思い直して半開きの口を閉じた。
──とことん信じているんだ……絵美子を。
それに比べて、麗美はどうだろうか。何度説得されようが、未だに不安で仕方がない。やはり火なんて放たなければ良かったのではないだろうか。他にやり方があったのではないだろうか、と。
──わたしも二〇年前に絵美子と、三人と友達になっていたら……違っていたのかな。
「しかしまさか、あんたがアレを持って来てるとは思わなかった」
笑いかけてくる叔母に、麗美は小首を傾げた。
「ライターとオイル。私も持って来りゃ良かった。すっかり忘れてたよ」
「ああ」保も笑った。「思考がよく似てるんだな。伊達に血が繋がっちゃいないってか?」
「あんた、それ褒めてるんだよね?」
「さあ?」
麗美の口元も緩みかけたその時、三人の視界が真っ白に染まった。
「えーと、何だっけ……『オレの邪魔をするなら、お前の魂を喰らい尽くしてやる』?」
もうもうと立ち込める煙と、今にも身を焦がしそうな赤い炎の中。
白い大蛇は、虫の息で地に伏す獣の頭上で、静かに言った。
「その言葉、そのままそっくり返すわね」
大蛇はカッと口を開いた。
獣には、断末魔の叫びを上げる気力すら残っていなかった。
「絵美子……」
元来た道を走りながら、麗美は何度も広場の方に振り返っては──煙でもうほとんど見えなくなっている──残してきた友人を想った。
「麗美、スピード落とさないで。煙にやられるよ」百合子が振り返らずに言った。「絵美子なら大丈夫だから。本人だって言ってたでしょ」
「もうすぐ最初の場所だ、麗美ちゃん」保も振り返らない。「そこで待とう」
麗美は初めて、前を走る二人の大人に対して強い怒りと失望を覚えた。
〝必ず後から行くわ〟
あの言葉を、本気で信じているというのか。獣を完全に始末したところで、あの炎と大量の煙から無事に逃れられるとは思えない。助かるとは思えない──たとえ既に死んでいる身なのだとしても。
──これでお別れなんて嫌だ。
図書室で絵美子と初めて出会った際の記憶が蘇った。名前の通りの、絵のような美しさ。
── 仲良くなったばかりなのに。
北欧神話で好きな神様は? エティエンヌ・ロワの小説以外には、どんな本を読む? まだまだ知らない事が沢山ある。
──それに……。
ぶわり、と溢れ出した涙のせいで、麗美の視界がぼやけた。
──死ぬ前だってしんどかったはずなのに……また苦しまなきゃならないの?
体中にのし掛かるような、重く、苦しい思考は、唐突に左腕を引っ張られた事で、強制的に中断させられた。足がもつれ、危うく転びかける。
「熱っ──」
華奢な手は、麗美の腕を離そうとしなかった。叔母のものかと思われたそれは、木々の向こうの暗闇から伸びてきている。よく見れば黒焦げで、肌の色がほとんど残っていない。そして何よりも異様なまでの熱さ──まるで炎そのもののようだ──で、麗美の肌を白いシャツの上から焼こうとした。
「麗美!?」
異変に気付いた百合子が駆け寄って来る。
「熱い熱い熱い! 痛い! やめて熱い!」
麗美はパニックを起こしながらも、必死で黒焦げの手を引き剥がそうとした。
「麗美ぃ……熱い……助けてぇ……」絵美子の声が囁いた。「わたしを見捨てないでぇ……」
「もうその手は喰らわねえよ、クソが!」
パキッ。
保のメリケンサックが黒焦げの手の甲にめり込むと、何かが砕ける音がした。絵美子とは似ても似付かない耳障りな悲鳴が上がると、風もないのに木々の葉が騒めき、黒焦げの手は吸い込まれるようにして暗闇の中に消えていった。
「怪我は!?」
保が麗美の左手を取り、焦げかけたシャツの袖を捲り、ライトを当てた。掴まれていた部分が赤くなっているが、水疱や皮膚の剥がれはない。
「見たところ、軽い火傷だな。戻ったらすぐ冷やそう」
「ねえ、今のは何!? 〝あいつ〟は絵美子が倒してくれるんじゃなかったの? 絵美子は無事なの!?」
百合子は責めるような麗美の視線を受け止め、
「この森には〝あいつ〟以外にも何かがいる。二〇年前もそうだった」
「わ……わたし、やっぱり嫌だ。絵美子を助けに──」
「死にたいの?」
叔母の氷のように冷たい声を聞いたのは、麗美はこれが初めてだった。
「煙はすぐそこまで来てる。何も出来ずに無駄死にするだけよ」
言い返す言葉が見付からず、麗美は唇を噛み締めた。
「絵美子の言葉を……絵美子を信じなさい。ね?」
「そうだ。信じようぜ」保が麗美の肩にそっと手を置いた。「あいつは強いよ、色んな意味で。生きていた時からな」
「ほら、行くよ」
百合子が手を差し出したが、麗美は小さくかぶりを振った。
「麗美──」
「ああ、そうじゃなくって」麗美は少々慌てたように付け加えた。「手を繋いだら、走りにくいから」
「脱出は……どうするの?」
無事に最初の地点まで辿り着くと、麗美は隣で息を切らしている叔母に尋ねた。
「〝あいつ〟を倒せば……抜け出せるはずよ」
麗美は空を覆う分厚い葉のカーテンを中心に、周囲を忙しなく見回した。何処かに切れ目が、出口へと繋がる光がないだろうかと、ほんの僅かな期待を寄せながら。
「まずいな、煙が」
「そうね、だんだん暑くなってきてるし……まあ走ったからってのも、あるかな」
言葉とは裏腹に、二人の大人の声は冷静だ。
「まだ息切らしてんのか。運動不足だな」
「あんたこそ、足腰ヤバいんじゃない?」
何を呑気な、と抗議の声を上げかけた麗美だったが、思い直して半開きの口を閉じた。
──とことん信じているんだ……絵美子を。
それに比べて、麗美はどうだろうか。何度説得されようが、未だに不安で仕方がない。やはり火なんて放たなければ良かったのではないだろうか。他にやり方があったのではないだろうか、と。
──わたしも二〇年前に絵美子と、三人と友達になっていたら……違っていたのかな。
「しかしまさか、あんたがアレを持って来てるとは思わなかった」
笑いかけてくる叔母に、麗美は小首を傾げた。
「ライターとオイル。私も持って来りゃ良かった。すっかり忘れてたよ」
「ああ」保も笑った。「思考がよく似てるんだな。伊達に血が繋がっちゃいないってか?」
「あんた、それ褒めてるんだよね?」
「さあ?」
麗美の口元も緩みかけたその時、三人の視界が真っ白に染まった。
「えーと、何だっけ……『オレの邪魔をするなら、お前の魂を喰らい尽くしてやる』?」
もうもうと立ち込める煙と、今にも身を焦がしそうな赤い炎の中。
白い大蛇は、虫の息で地に伏す獣の頭上で、静かに言った。
「その言葉、そのままそっくり返すわね」
大蛇はカッと口を開いた。
獣には、断末魔の叫びを上げる気力すら残っていなかった。
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