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彼氏との生活が甘すぎる
①
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カーテンの隙間の眺望。だだっ広い街並み。ベランダに出て徹夜明けの体を日光にさらして伸びをすると、関節がところどころボキボキと音を立てた。
同居人もといカレシはとっくの昔に仕事に出かけ、今は独りぼっちだが、有宮ハイネはそれがとても居心地よかった。
「もともとオレには、無理だったんだよ」
誰かと住むなんて、と。手すりに肘をついてため息とともにごちる。
カレシであるトーマス・ハーゼスと正式な同棲が始まって、一か月が経過した。何事も順調そのもので、ハイネはノック無しで部屋に入ってくる以外は何一つ不満が無かったし、トーマスも気になったことがあればすぐ口に出す性格のため、無用なすれ違いを生み出すことはなかった。
ではなぜ、そんな弱気な言葉が飛び出したかといえば、つい先日起きたある出来事が原因だった。
「ルールを決めよう」
帰ってくるなりトーマスが快活に言った。
「ルール?」ハイネはその言葉を復唱する。トーマスは鷹揚に頷いて、ピンと立てた人差し指を小さく横に振る。
「その通り」
「なに言ってんだトーマス。ルールならもう決めてるじゃないか」
何をいまさら、と不思議なものを見る目でハイネはスーツ姿のままのトーマスを上から下まで眺める。
ハイネの言葉の通り、同居する際、二人の間でいくつかのルールを設けたことは互いの記憶にくっきりと刻まれている。それは一度もそのルールが破られたことがないという事実が物語っている。
肩を竦めると、トーマスがそのジェスチャーを模倣して、逞しい肩を上げ下げした。おちょくられていると感じたハイネはむっとする。
「私と、きみは、ただの同居人じゃない。恋人だ。とはいえ私は元から恋人だと思っていたけれどね」
「そ、それは言わないでくれよ」
「はは、ごめん。つまり、もっと詳しく話し合うべきだと思ったんだ。ルールを決めたとはいえ、あれらは互いのスケジュールのすり合わせのようなものだったじゃないか。だからより明確に決めた方がいいと思ってね。私ときみとの生活のために」
「わかったよ。そういうことなら」
それで……と、晴天の空に向かって辛気臭いため息を吹き付け、新たになった二人の決め事を口に出しながら指折り数える。
「朝のコーヒータイム」
「必要。朝食は二人で作る。別々のものを別々で食べる生活より、食費について揉めることがないだろう?」
「そうだね」
朝のコーヒータイムは二人で。朝食を作って、一緒に食べる。
ただし、ハイネの仕事がどうしても立て込んでいる時は例外。それ以外はできるだけ毎朝、たとえ喧嘩中でも顔を合わせる。夕食も同じ。
「いってらっしゃいとただいまのキスも必要だ」
「は?」
腑抜けた声まで何もかも。ショックで真っ白になった頭もしっかり俯瞰で覚えている。トーマスは相変わらずニコニコしていた。
いってらっしゃいとただいまのキス?
しないこともない。ラブラブの夫婦やカップルなら、きっとなんでもないことだろう。しかしハイネは自立してからほとんどを日本で暮らし、しかも社会人となってからは独身期間を長く過ごしている。はっきり物事を言うことは少ない日本人の特徴も同時に顕現しているため、そういったことになれていないことはもちろん。むしろ、そういったダイレクトな愛情表現を子供っぽいとさえ思っていた。
「い、いる?」
「ああ、私のモチベーションとパフォーマンスに関わることだよ」
「だったらそれはオレも同じだ! き、き、キスなんてしたら……」
途端にハイネの顔が熱っぽくなって、額から汗が滲みだした。ただの同居人以上の濃密な接触が毎日の日課となることを想像して悶えていることは明らかだ。
「異論ないようだね」
「ある! 異論ある……ううっ恥ずかしいじゃないか」
「ヘンリー」
「あ、はい……」
トーマスの声が一段階下がって、ハイネは身震いする。あまり良くない傾向だ。
「付き合ってるんだ。そうだよね?」
「う、うん……ごめん。わかったよ」
「だけど、嫌ならそう言ってほしい」
「い、嫌じゃない! 嫌じゃない……慣れてないんだ。好きな人とキス、するのは……」
「ワオ……」
バスケットボールを片手で持ち上げられそうな大きな手がハイネの手を包む。そして、手の甲を何度か摩った後、薬指の付け根にキスを落とした。絶句してトーマスを見上げるが、その目はハイネを見ていない。じっとキスを落としたハイネの左手に注がれている。
「このまま繋いでいてもいい?」
「へっ? あ、うん……もちろん」
甘い雰囲気にのまれるハイネと、もろともしないトーマスと。
恋愛経験値の差に愕然として、ハイネは自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
やっと落ち着いてきたころ、待っていたかのようにトーマスが話の続きを切り出した。
「休日、出かけるときは予定を共有する」
「あ、あぁ……問題ないよ。まあオレが外に出ることなんてほとんどないけど……」
「これから一緒に出かけよう。たくさんね。そういえば同僚に薦められたバーがあるんだ。新しくできたところで、きみはお酒が好きだろう?」
「あ、うん。酒は好きだよ……って話が逸れてるな」
顔を見合わせると二人して口角が緩んだ。
「じゃあ」と弛緩した空気のままにトーマスの唇が柔和に言葉を紡いで……
回想を打ち切ったハイネは思考をかき消すように髪をぐちゃぐちゃに搔きまわす。苦悩に満ちた呻き声をあげるが、思い出したくない記憶は海馬の屋上から真っ逆さまに落っこちて、空耳とともにハイネの脳裏に降臨する。
「セックスの頻度は?」
同居人もといカレシはとっくの昔に仕事に出かけ、今は独りぼっちだが、有宮ハイネはそれがとても居心地よかった。
「もともとオレには、無理だったんだよ」
誰かと住むなんて、と。手すりに肘をついてため息とともにごちる。
カレシであるトーマス・ハーゼスと正式な同棲が始まって、一か月が経過した。何事も順調そのもので、ハイネはノック無しで部屋に入ってくる以外は何一つ不満が無かったし、トーマスも気になったことがあればすぐ口に出す性格のため、無用なすれ違いを生み出すことはなかった。
ではなぜ、そんな弱気な言葉が飛び出したかといえば、つい先日起きたある出来事が原因だった。
「ルールを決めよう」
帰ってくるなりトーマスが快活に言った。
「ルール?」ハイネはその言葉を復唱する。トーマスは鷹揚に頷いて、ピンと立てた人差し指を小さく横に振る。
「その通り」
「なに言ってんだトーマス。ルールならもう決めてるじゃないか」
何をいまさら、と不思議なものを見る目でハイネはスーツ姿のままのトーマスを上から下まで眺める。
ハイネの言葉の通り、同居する際、二人の間でいくつかのルールを設けたことは互いの記憶にくっきりと刻まれている。それは一度もそのルールが破られたことがないという事実が物語っている。
肩を竦めると、トーマスがそのジェスチャーを模倣して、逞しい肩を上げ下げした。おちょくられていると感じたハイネはむっとする。
「私と、きみは、ただの同居人じゃない。恋人だ。とはいえ私は元から恋人だと思っていたけれどね」
「そ、それは言わないでくれよ」
「はは、ごめん。つまり、もっと詳しく話し合うべきだと思ったんだ。ルールを決めたとはいえ、あれらは互いのスケジュールのすり合わせのようなものだったじゃないか。だからより明確に決めた方がいいと思ってね。私ときみとの生活のために」
「わかったよ。そういうことなら」
それで……と、晴天の空に向かって辛気臭いため息を吹き付け、新たになった二人の決め事を口に出しながら指折り数える。
「朝のコーヒータイム」
「必要。朝食は二人で作る。別々のものを別々で食べる生活より、食費について揉めることがないだろう?」
「そうだね」
朝のコーヒータイムは二人で。朝食を作って、一緒に食べる。
ただし、ハイネの仕事がどうしても立て込んでいる時は例外。それ以外はできるだけ毎朝、たとえ喧嘩中でも顔を合わせる。夕食も同じ。
「いってらっしゃいとただいまのキスも必要だ」
「は?」
腑抜けた声まで何もかも。ショックで真っ白になった頭もしっかり俯瞰で覚えている。トーマスは相変わらずニコニコしていた。
いってらっしゃいとただいまのキス?
しないこともない。ラブラブの夫婦やカップルなら、きっとなんでもないことだろう。しかしハイネは自立してからほとんどを日本で暮らし、しかも社会人となってからは独身期間を長く過ごしている。はっきり物事を言うことは少ない日本人の特徴も同時に顕現しているため、そういったことになれていないことはもちろん。むしろ、そういったダイレクトな愛情表現を子供っぽいとさえ思っていた。
「い、いる?」
「ああ、私のモチベーションとパフォーマンスに関わることだよ」
「だったらそれはオレも同じだ! き、き、キスなんてしたら……」
途端にハイネの顔が熱っぽくなって、額から汗が滲みだした。ただの同居人以上の濃密な接触が毎日の日課となることを想像して悶えていることは明らかだ。
「異論ないようだね」
「ある! 異論ある……ううっ恥ずかしいじゃないか」
「ヘンリー」
「あ、はい……」
トーマスの声が一段階下がって、ハイネは身震いする。あまり良くない傾向だ。
「付き合ってるんだ。そうだよね?」
「う、うん……ごめん。わかったよ」
「だけど、嫌ならそう言ってほしい」
「い、嫌じゃない! 嫌じゃない……慣れてないんだ。好きな人とキス、するのは……」
「ワオ……」
バスケットボールを片手で持ち上げられそうな大きな手がハイネの手を包む。そして、手の甲を何度か摩った後、薬指の付け根にキスを落とした。絶句してトーマスを見上げるが、その目はハイネを見ていない。じっとキスを落としたハイネの左手に注がれている。
「このまま繋いでいてもいい?」
「へっ? あ、うん……もちろん」
甘い雰囲気にのまれるハイネと、もろともしないトーマスと。
恋愛経験値の差に愕然として、ハイネは自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。
やっと落ち着いてきたころ、待っていたかのようにトーマスが話の続きを切り出した。
「休日、出かけるときは予定を共有する」
「あ、あぁ……問題ないよ。まあオレが外に出ることなんてほとんどないけど……」
「これから一緒に出かけよう。たくさんね。そういえば同僚に薦められたバーがあるんだ。新しくできたところで、きみはお酒が好きだろう?」
「あ、うん。酒は好きだよ……って話が逸れてるな」
顔を見合わせると二人して口角が緩んだ。
「じゃあ」と弛緩した空気のままにトーマスの唇が柔和に言葉を紡いで……
回想を打ち切ったハイネは思考をかき消すように髪をぐちゃぐちゃに搔きまわす。苦悩に満ちた呻き声をあげるが、思い出したくない記憶は海馬の屋上から真っ逆さまに落っこちて、空耳とともにハイネの脳裏に降臨する。
「セックスの頻度は?」
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