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第一章〈幼なじみ主従〉編
1.11 史上最悪の王妃イザボー・ド・バヴィエール
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幼いころに、誰かから聞いた寝物語だったのだろうか。
聖ラドゴンドの言い伝えを知ってから、私は記憶にない母妃の姿を聖女に投影してあこがれた。
「私の母上はフランス王妃なんだって。ラドゴンド様みたいな人かもしれないよ」
幸か不幸か、父王も母妃も末っ子王子の存在を忘れていた。
私もまた、王家の堕落と宮廷の退廃ぶりを知らずに育てられた。
***
母妃イザボー・ド・バヴィエールはバイエルン公の令嬢で、神聖ローマ皇帝の曾孫だった。
14歳のときにフランス王家に輿入れして王妃となった。
翌年には長女イザベル王女を出産する。私の一番上の姉である。
父王シャルル六世は生まれつき心の弱い人であったが、美しい王妃を得て、かわいい子をもうけ、次第に安定するかに見えた。
結婚して五年目には、みずから親政を開始した。
王の乱心と王家の崩壊は突然だった。
王の居室へつづく回廊には、非常時に備えて装飾を兼ねた武具をいくつか設置している。
ある日、寝室から飛び出してきた父王はいきなり武具を取り上げた。
由緒ある剣や槍がいくつも転げ落ちた。武具の刃に触れたのか、父王の手から血が流れた。
父王は錯乱し、傷も痛みも忘れてなにごとかを叫んだ。
ただならぬ父王の様子に、護衛役の近衛騎士たちが集まってきた。
王の血を見て、みなが止めに入った。
父王は手ごろな剣を抜き払うと、今しがた飛び出して来た自室に向かって叫んだ。
「殺してやる!!」
選りすぐりの屈強な騎士たちに羽交い締めにされ、それでもなお父王は暴れた。
王の居室へ続く回廊には、各所の見張り役と王を護衛する近衛騎士たちが何人も控えている。
厳重な監視の目をかいくぐって何者かが侵入することは考えにくい。
だが、父王の言動は明らかに異常だった。近衛騎士たちは暴れる王が負傷しないよう押さえながら、即座に警戒態勢を敷いた。
ただちに王の居室を調べなければならない。
父王が再び「殺してやる!」と叫んだ。
近衛騎士のひとりが王の居室にいる何者かに呼びかけた。
「そこに誰かいるのか」
返答はなかったが、父王は気が触れたように暴れながら喚いた。
「誰も入るな。誰も見るな! 余が手づから殺してくれよう!!」
近衛騎士たちは視線を交わしながらうなずき、数人で突入しようとしたその時。
居室の内側から扉が開いた。あらわれたのは、透けるように薄い肌着をまとった王妃イザボーと王弟オルレアン公だった。
王の憎悪は、妻である王妃と実弟に向けられていた。
「よくも、おめおめと……!」
王の居室へ自由に出入りする者は限られる。親子、夫婦、兄弟姉妹たち近親者だけだ。
近衛騎士たちはある予感を抱きながら、おそるおそる王の居室を点検した。
やはり侵入者はなく、不審な様子も見当たらなかった。ただひとつ、寝具が乱れていたことを除いて。
父王は、血走った目で王妃と弟を睨みつけながら何度も叫んだ。
「恥知らずめ! 二人とも殺してやる! 必ず殺してやる!!」
父王は興奮して何度も「殺す」と喚き散らした。
その一方で、王妃イザボーと王弟オルレアン公は責められているのに悪びれるどころか平然と沈黙していた。
ついに父王が近衛騎士の静止を振り切ろうとした時、王妃は怯えたように後ずさり、王弟は利き手で細剣を構え、空いた手で王妃をかばった。
父王が力任せに突いた抜き身の大剣を、王弟は鞘に納めたままの細剣でたたき落とした。
勝負は一瞬だった。
ぶざまな姿で床に転がった父王に、王弟は手を差し伸べた。
「兄上、お静かに。騒ぎすぎです。子供たちが起きてしまいます」
王子や王女は、養育専用の離宮サン・ポール邸にいる。騒ぎが聞こえるはずがない。
それでも、王弟のささやきは父王の生まれつき不安定な心を大きく揺さぶった。
妻の不貞と弟の裏切りを目撃して、王は反射的に怒りをぶちまけたが、今度は恐ろしい推測が脳裏によぎったのだろう。
「一体、いつから……」
「何も問題ありません。兄上の御子たちは全員『王家の血を引く子』ですから」
父王の言葉にならない絶叫がこだました。
王妃イザボーは一言も発することなく、夫とその弟を見下ろしていた。
***
母妃と王弟の情事を目撃したから、父王は狂ったのか。
それとも、父王が狂っていたから、母妃は王弟にすがったのか。
どちらが先だったのか、私には分からない。
以来、父王は発狂して政治の場から遠ざかった。
代わりに、王弟オルレアン公が宮廷の実権を握った。
しかし、母妃イザボーの愛人は王弟だけではなく、名のある貴族と見境なく関係を持った。
王妃と取り巻きたちの醜聞は民衆の耳に入るほど知れ渡り、いつしか「淫乱王妃」と呼ばれるようになった。
王弟オルレアン公の暗殺は、権力闘争だったとも、痴情のもつれだったとも言われている。
父王は、犯人を捕まえることも処罰することもしなかった。
王妃の愛人・ブルゴーニュ公が王弟を殺害し、宮廷で権力を振るった。
王家も宮廷も、根底から腐っていた。
王国は、手の施しようがないほどに傾いていた。
野心家のイングランド王ヘンリーは虎視眈々と、フランス王国の没落を見守っていた。
聖ラドゴンドの言い伝えを知ってから、私は記憶にない母妃の姿を聖女に投影してあこがれた。
「私の母上はフランス王妃なんだって。ラドゴンド様みたいな人かもしれないよ」
幸か不幸か、父王も母妃も末っ子王子の存在を忘れていた。
私もまた、王家の堕落と宮廷の退廃ぶりを知らずに育てられた。
***
母妃イザボー・ド・バヴィエールはバイエルン公の令嬢で、神聖ローマ皇帝の曾孫だった。
14歳のときにフランス王家に輿入れして王妃となった。
翌年には長女イザベル王女を出産する。私の一番上の姉である。
父王シャルル六世は生まれつき心の弱い人であったが、美しい王妃を得て、かわいい子をもうけ、次第に安定するかに見えた。
結婚して五年目には、みずから親政を開始した。
王の乱心と王家の崩壊は突然だった。
王の居室へつづく回廊には、非常時に備えて装飾を兼ねた武具をいくつか設置している。
ある日、寝室から飛び出してきた父王はいきなり武具を取り上げた。
由緒ある剣や槍がいくつも転げ落ちた。武具の刃に触れたのか、父王の手から血が流れた。
父王は錯乱し、傷も痛みも忘れてなにごとかを叫んだ。
ただならぬ父王の様子に、護衛役の近衛騎士たちが集まってきた。
王の血を見て、みなが止めに入った。
父王は手ごろな剣を抜き払うと、今しがた飛び出して来た自室に向かって叫んだ。
「殺してやる!!」
選りすぐりの屈強な騎士たちに羽交い締めにされ、それでもなお父王は暴れた。
王の居室へ続く回廊には、各所の見張り役と王を護衛する近衛騎士たちが何人も控えている。
厳重な監視の目をかいくぐって何者かが侵入することは考えにくい。
だが、父王の言動は明らかに異常だった。近衛騎士たちは暴れる王が負傷しないよう押さえながら、即座に警戒態勢を敷いた。
ただちに王の居室を調べなければならない。
父王が再び「殺してやる!」と叫んだ。
近衛騎士のひとりが王の居室にいる何者かに呼びかけた。
「そこに誰かいるのか」
返答はなかったが、父王は気が触れたように暴れながら喚いた。
「誰も入るな。誰も見るな! 余が手づから殺してくれよう!!」
近衛騎士たちは視線を交わしながらうなずき、数人で突入しようとしたその時。
居室の内側から扉が開いた。あらわれたのは、透けるように薄い肌着をまとった王妃イザボーと王弟オルレアン公だった。
王の憎悪は、妻である王妃と実弟に向けられていた。
「よくも、おめおめと……!」
王の居室へ自由に出入りする者は限られる。親子、夫婦、兄弟姉妹たち近親者だけだ。
近衛騎士たちはある予感を抱きながら、おそるおそる王の居室を点検した。
やはり侵入者はなく、不審な様子も見当たらなかった。ただひとつ、寝具が乱れていたことを除いて。
父王は、血走った目で王妃と弟を睨みつけながら何度も叫んだ。
「恥知らずめ! 二人とも殺してやる! 必ず殺してやる!!」
父王は興奮して何度も「殺す」と喚き散らした。
その一方で、王妃イザボーと王弟オルレアン公は責められているのに悪びれるどころか平然と沈黙していた。
ついに父王が近衛騎士の静止を振り切ろうとした時、王妃は怯えたように後ずさり、王弟は利き手で細剣を構え、空いた手で王妃をかばった。
父王が力任せに突いた抜き身の大剣を、王弟は鞘に納めたままの細剣でたたき落とした。
勝負は一瞬だった。
ぶざまな姿で床に転がった父王に、王弟は手を差し伸べた。
「兄上、お静かに。騒ぎすぎです。子供たちが起きてしまいます」
王子や王女は、養育専用の離宮サン・ポール邸にいる。騒ぎが聞こえるはずがない。
それでも、王弟のささやきは父王の生まれつき不安定な心を大きく揺さぶった。
妻の不貞と弟の裏切りを目撃して、王は反射的に怒りをぶちまけたが、今度は恐ろしい推測が脳裏によぎったのだろう。
「一体、いつから……」
「何も問題ありません。兄上の御子たちは全員『王家の血を引く子』ですから」
父王の言葉にならない絶叫がこだました。
王妃イザボーは一言も発することなく、夫とその弟を見下ろしていた。
***
母妃と王弟の情事を目撃したから、父王は狂ったのか。
それとも、父王が狂っていたから、母妃は王弟にすがったのか。
どちらが先だったのか、私には分からない。
以来、父王は発狂して政治の場から遠ざかった。
代わりに、王弟オルレアン公が宮廷の実権を握った。
しかし、母妃イザボーの愛人は王弟だけではなく、名のある貴族と見境なく関係を持った。
王妃と取り巻きたちの醜聞は民衆の耳に入るほど知れ渡り、いつしか「淫乱王妃」と呼ばれるようになった。
王弟オルレアン公の暗殺は、権力闘争だったとも、痴情のもつれだったとも言われている。
父王は、犯人を捕まえることも処罰することもしなかった。
王妃の愛人・ブルゴーニュ公が王弟を殺害し、宮廷で権力を振るった。
王家も宮廷も、根底から腐っていた。
王国は、手の施しようがないほどに傾いていた。
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