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2-4 エル・ドライド ―― 氷の助言者
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2-4 エル・ドライド ―― 氷の助言者
ディオール領主城の執務室に、紙の匂いとインクのきらめきが満ちる。
セリカは膝上の書見台に細い指をそっと沿わせ、最後の一枚まで目を走らせた。
「――エル・ドライド」
呟く声は、驚きよりも好奇の色が濃い。
隣で控える家令オズワルドが小さく頷いた。
「隣国出、文官として名を上げた男。冷徹にして明晰、との評判ですな。追放の噂は表向き。真は――領主を“見限り”自ら去った、と」
「“追われた”のではなく“去った”。つまり判断ができる人ね」
セリカは紙束を閉じ、ぱちん、と封緘紐を留める。
視線はすでに次の手へと跳躍していた。
「お招きしましょう。 噂のままか、目で確かめたいわ」
「はっ。すぐに使者を」
*
初夏の午後、石畳を踏む靴音が城に満ちた。
現れた男は、質素な外套に包まれながらも、立ち姿が妙に端然としている。礼は深く、目は冷たい。噂通りの“氷”だ。
「エル・ドライド。お招きに与り、感謝申し上げます、公爵令嬢殿」
「ようこそ、エル。お座りになって」
小卓の向かい、セリカは背筋をのばし、年齢相応の小さな体に不釣り合いな統治の気配を纏っている。
簡潔な挨拶ののち、彼女は直球を投げた。
「あなたの噂は存じているわ。領地運営の意見をうかがいたい。できれば――力を貸して」
エルの睫毛がわずかに震え、すぐに安定した。
男は言葉を選ばない。
「ままごとに付き合う趣味はありません」
空気が、刃で裂かれた。
オズワルドが息をのむ間もなく、セリカの瞳が微かに揺れ、そして澄んだ。
「――そう。では**“ままごとではない証拠”**をお見せするわ」
微笑は消え、声音は平板に落ちる。
幼子の頬に、統治者の影が差した。
「わたくしの改革は“理想”では終わらせない。測り、公開し、続けて直す。あなたが求めるのは結果でしょう?」
エルは薄く目を細める。
「言は雄弁。だが改革は、未成熟な体制と指揮では折れる。私は夢想に付き合う気はない」
「ならば――夢想を現実に引きずり出します」
抽斗から取り出したのは、簡潔な紙束。
混植区画の虫害推移、井戸事故の件数推移、水車効率の比較表、そして翌週からの**“毎週公開”**の告示案。
「測る自由を掲げたの。逃げ場のない数字は、反対も賛成も同じ言葉になるわ」
沈黙が、刃より重い。
やがてエルは椅子を引いた。
「――現時点ではお断りします。だが、相談程度なら」
「ええ、結構。次に会う時は、実績を携えて参るわ」
礼を交わし、男は氷の歩幅で去った。
残されたセリカは、ふっと息を吐く。胸の奥に、火が灯るのを感じた。
「ままごと、ね。だったら――覆すだけ」
*
数日後。
セリカは領都の小川で二次審査の実地を回していた。物差しを抱え、泥に膝をつき、数を打つ。
帰路につく山裾の林道。ジーン・クライス――十四歳の少女騎士――が前を警戒し、御者台の兵が手綱を締める。
その時だった。
――カーン! カン!
金属の悲鳴が森に散る。道が丸太で塞がれ、茂みから粗野な男たちが躍り出た。
「止まれ! 荷を置いて――」
御者が叫ぶより速く、ジーンは馬車の前に跳び出た。細剣が閃く。
だが、数が多い。剣筋に迷いはない、が、力が足りない。
襲い手が一人、二人――背後から崩れ落ちた。
「なっ――ぐえっ!」
木漏れ日の斑が揺れ、灰の外套が森を裂く。
抜かれた刃は過不足がなく、踏み込みは短く深い。エル・ドライドだった。
剣が止むまで、わずか三十呼吸。森が静けさを取り戻す。
「……エル・ドライド?」
セリカの目が丸くなる。
ジーンは剣を下ろし、肩で息をしていた。
「怪我は?」
「か、かすり傷です……」
エルは短くうなずくと、視線をセリカへ。
「もっとまともな護衛を。 忠誠心は買うが、剣は未だ未熟だ」
ジーンの指が震え、唇が噛まれる。
セリカが一歩、前に出た。
「ジーンは立派な騎士よ」
「現実を申し上げている。訓練されていない賊に手こずる時点で、護衛としては失格だ」
言葉は冷たく、しかし正確だ。
セリカは数拍、ジーンの背に視線を置き、やがて小さく頷いた。
「――人を増やすわ。そして鍛える場を作る。“戻り道”だけではなく“伸びる道”も」
エルの目が、ほんの僅かに和らいだ。
「助けたのは、四歳の子を見捨てれば寝覚めが悪いからです」
「それでも――借りは借り。ありがとう、エル」
「側近になる気はない。……相談役なら、時折」
緊張がほどけ、森の匂いが戻る。
セリカはジーンの肩を抱いた。
「戻ったら、剣の先生を探しましょう。ね、ジーン」
「……はい。必ず、強くなります」
*
同じ頃。
城門から少し離れた丘で、エルは石垣を見上げていた。
(四歳、だと?)
嘲りはない。あるのは、呆れに似た感嘆だ。
彼女の掲げる“測る自由”、毎週公開の測定表、匿名審査。
――それは、かつて自分が夢見て捨てた図面と酷似している。ただし、違うのは権限と速度だ。
(提案だけの臣下と、決裁できる領主。決定的な差だ)
彼は自嘲気味に笑う。
そして、冷めた眼差しで弱点を数えた。
(護衛。中間管理。監査。加えて、彼女自身の年齢。
――これを、“測る”だけで乗り切れるか?)
森での一件が、決意をひとつ固める。
(こちらから守る気はない。守る仕組みを“選ばせる”助言なら、してやってもいい)
灰の外套が翻り、城下へと消える。
*
翌週――領都広場。
臨時掲示に新しい紙が並ぶ。**“春期・測定表”**に続いて、もう一枚。
> 【護衛団 “瑞(みず)の槍” 結成告知】
応募:身分不問/実技審査
訓練:基礎剣術/隊列/護衛術(指導:外部教官)
原則:“守りを測る”――週次で巡回成功率・対応時間など公開
ざわめきの中、セリカは低い台に上がる。胸には小さな物差しのブローチ。
その隣、灰の外套が人混みに紛れて腕を組んだ。
「宣言します。わたくしの改革は**“測り続ける改革”**。失敗は終了ではなく、測定の開始。
――ままごとと呼ばれたなら、数字で殴り返します」
静寂。
次いで、均質な拍手が広場を満たした。大きくない、けれど長い、粘りのある音。
(言葉は充分。次は数字だ)
エルは僅かに顎を引き、背を向ける。
去り際、掲示の端に小さく書き足された文字が目に入った。
> “護衛、募集中――強くなりたい人、ここへ。”
斜向かい、ジーンが拳を握りしめている。目は赤く、しかし真っ直ぐだった。
(……良い目だ。伸びる道が見えている)
*
夕刻、執務室。
セリカは日誌にさらさらと羽根を走らせ、最後の行を締める。
> 本日、採択三件(農・工・衛)進行。運輸(荷舟連結)来週実演。
護衛団“瑞の槍”募集告示。隊付教官:目下交渉中。
扉が叩かれる。
オズワルドが恭しく差し出したのは、短い書状だった。
「エル・ドライド殿より、お返しが」
封を切る。紙は一行だけで、氷のように簡潔だった。
> 『相談、週一で。測定表、事前に。――E.D.』
セリカは息を弾ませ、小さく笑う。
「――ようこそ、“現実”へ」
窓外、薄藍の空に初星が滲む。
鐘がぽうん、と鳴り、身分の上にも下にも、同じ音が落ちてゆく。
“ままごと”は、もう終わり。
測る自由が、ディオールを現実に繋ぎ止める。
そして氷の助言者は、週に一度、その目盛りを厳しく見に来るだろう。
ディオール領主城の執務室に、紙の匂いとインクのきらめきが満ちる。
セリカは膝上の書見台に細い指をそっと沿わせ、最後の一枚まで目を走らせた。
「――エル・ドライド」
呟く声は、驚きよりも好奇の色が濃い。
隣で控える家令オズワルドが小さく頷いた。
「隣国出、文官として名を上げた男。冷徹にして明晰、との評判ですな。追放の噂は表向き。真は――領主を“見限り”自ら去った、と」
「“追われた”のではなく“去った”。つまり判断ができる人ね」
セリカは紙束を閉じ、ぱちん、と封緘紐を留める。
視線はすでに次の手へと跳躍していた。
「お招きしましょう。 噂のままか、目で確かめたいわ」
「はっ。すぐに使者を」
*
初夏の午後、石畳を踏む靴音が城に満ちた。
現れた男は、質素な外套に包まれながらも、立ち姿が妙に端然としている。礼は深く、目は冷たい。噂通りの“氷”だ。
「エル・ドライド。お招きに与り、感謝申し上げます、公爵令嬢殿」
「ようこそ、エル。お座りになって」
小卓の向かい、セリカは背筋をのばし、年齢相応の小さな体に不釣り合いな統治の気配を纏っている。
簡潔な挨拶ののち、彼女は直球を投げた。
「あなたの噂は存じているわ。領地運営の意見をうかがいたい。できれば――力を貸して」
エルの睫毛がわずかに震え、すぐに安定した。
男は言葉を選ばない。
「ままごとに付き合う趣味はありません」
空気が、刃で裂かれた。
オズワルドが息をのむ間もなく、セリカの瞳が微かに揺れ、そして澄んだ。
「――そう。では**“ままごとではない証拠”**をお見せするわ」
微笑は消え、声音は平板に落ちる。
幼子の頬に、統治者の影が差した。
「わたくしの改革は“理想”では終わらせない。測り、公開し、続けて直す。あなたが求めるのは結果でしょう?」
エルは薄く目を細める。
「言は雄弁。だが改革は、未成熟な体制と指揮では折れる。私は夢想に付き合う気はない」
「ならば――夢想を現実に引きずり出します」
抽斗から取り出したのは、簡潔な紙束。
混植区画の虫害推移、井戸事故の件数推移、水車効率の比較表、そして翌週からの**“毎週公開”**の告示案。
「測る自由を掲げたの。逃げ場のない数字は、反対も賛成も同じ言葉になるわ」
沈黙が、刃より重い。
やがてエルは椅子を引いた。
「――現時点ではお断りします。だが、相談程度なら」
「ええ、結構。次に会う時は、実績を携えて参るわ」
礼を交わし、男は氷の歩幅で去った。
残されたセリカは、ふっと息を吐く。胸の奥に、火が灯るのを感じた。
「ままごと、ね。だったら――覆すだけ」
*
数日後。
セリカは領都の小川で二次審査の実地を回していた。物差しを抱え、泥に膝をつき、数を打つ。
帰路につく山裾の林道。ジーン・クライス――十四歳の少女騎士――が前を警戒し、御者台の兵が手綱を締める。
その時だった。
――カーン! カン!
金属の悲鳴が森に散る。道が丸太で塞がれ、茂みから粗野な男たちが躍り出た。
「止まれ! 荷を置いて――」
御者が叫ぶより速く、ジーンは馬車の前に跳び出た。細剣が閃く。
だが、数が多い。剣筋に迷いはない、が、力が足りない。
襲い手が一人、二人――背後から崩れ落ちた。
「なっ――ぐえっ!」
木漏れ日の斑が揺れ、灰の外套が森を裂く。
抜かれた刃は過不足がなく、踏み込みは短く深い。エル・ドライドだった。
剣が止むまで、わずか三十呼吸。森が静けさを取り戻す。
「……エル・ドライド?」
セリカの目が丸くなる。
ジーンは剣を下ろし、肩で息をしていた。
「怪我は?」
「か、かすり傷です……」
エルは短くうなずくと、視線をセリカへ。
「もっとまともな護衛を。 忠誠心は買うが、剣は未だ未熟だ」
ジーンの指が震え、唇が噛まれる。
セリカが一歩、前に出た。
「ジーンは立派な騎士よ」
「現実を申し上げている。訓練されていない賊に手こずる時点で、護衛としては失格だ」
言葉は冷たく、しかし正確だ。
セリカは数拍、ジーンの背に視線を置き、やがて小さく頷いた。
「――人を増やすわ。そして鍛える場を作る。“戻り道”だけではなく“伸びる道”も」
エルの目が、ほんの僅かに和らいだ。
「助けたのは、四歳の子を見捨てれば寝覚めが悪いからです」
「それでも――借りは借り。ありがとう、エル」
「側近になる気はない。……相談役なら、時折」
緊張がほどけ、森の匂いが戻る。
セリカはジーンの肩を抱いた。
「戻ったら、剣の先生を探しましょう。ね、ジーン」
「……はい。必ず、強くなります」
*
同じ頃。
城門から少し離れた丘で、エルは石垣を見上げていた。
(四歳、だと?)
嘲りはない。あるのは、呆れに似た感嘆だ。
彼女の掲げる“測る自由”、毎週公開の測定表、匿名審査。
――それは、かつて自分が夢見て捨てた図面と酷似している。ただし、違うのは権限と速度だ。
(提案だけの臣下と、決裁できる領主。決定的な差だ)
彼は自嘲気味に笑う。
そして、冷めた眼差しで弱点を数えた。
(護衛。中間管理。監査。加えて、彼女自身の年齢。
――これを、“測る”だけで乗り切れるか?)
森での一件が、決意をひとつ固める。
(こちらから守る気はない。守る仕組みを“選ばせる”助言なら、してやってもいい)
灰の外套が翻り、城下へと消える。
*
翌週――領都広場。
臨時掲示に新しい紙が並ぶ。**“春期・測定表”**に続いて、もう一枚。
> 【護衛団 “瑞(みず)の槍” 結成告知】
応募:身分不問/実技審査
訓練:基礎剣術/隊列/護衛術(指導:外部教官)
原則:“守りを測る”――週次で巡回成功率・対応時間など公開
ざわめきの中、セリカは低い台に上がる。胸には小さな物差しのブローチ。
その隣、灰の外套が人混みに紛れて腕を組んだ。
「宣言します。わたくしの改革は**“測り続ける改革”**。失敗は終了ではなく、測定の開始。
――ままごとと呼ばれたなら、数字で殴り返します」
静寂。
次いで、均質な拍手が広場を満たした。大きくない、けれど長い、粘りのある音。
(言葉は充分。次は数字だ)
エルは僅かに顎を引き、背を向ける。
去り際、掲示の端に小さく書き足された文字が目に入った。
> “護衛、募集中――強くなりたい人、ここへ。”
斜向かい、ジーンが拳を握りしめている。目は赤く、しかし真っ直ぐだった。
(……良い目だ。伸びる道が見えている)
*
夕刻、執務室。
セリカは日誌にさらさらと羽根を走らせ、最後の行を締める。
> 本日、採択三件(農・工・衛)進行。運輸(荷舟連結)来週実演。
護衛団“瑞の槍”募集告示。隊付教官:目下交渉中。
扉が叩かれる。
オズワルドが恭しく差し出したのは、短い書状だった。
「エル・ドライド殿より、お返しが」
封を切る。紙は一行だけで、氷のように簡潔だった。
> 『相談、週一で。測定表、事前に。――E.D.』
セリカは息を弾ませ、小さく笑う。
「――ようこそ、“現実”へ」
窓外、薄藍の空に初星が滲む。
鐘がぽうん、と鳴り、身分の上にも下にも、同じ音が落ちてゆく。
“ままごと”は、もう終わり。
測る自由が、ディオールを現実に繋ぎ止める。
そして氷の助言者は、週に一度、その目盛りを厳しく見に来るだろう。
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