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「……おい、この書類はどうなっているんだ! 昨日の夜までに終わらせておけと言っただろう!」
アステリア王宮の執務室。リュント王子の怒声が、静かな廊下にまで響き渡った。
目の前には、山積みになった書類の束。かつてはパルメが、茶をしばきながら片手間で終わらせていた量である。
「も、申し訳ございません殿下……。パルメ様がいらっしゃった頃は、彼女が事前に要約と分類を済ませてくださっていたのですが……。我々だけでは、内容の精査に倍の時間がかかりまして……」
震える文官の言葉に、リュントは机を激しく叩いた。
「パルメ、パルメと……どいつもこいつもあいつの名前を出すな! あんな女、もうこの王宮には関係ないんだ!」
「ですが殿下、あの方が担当していた隣国との通商調整が決裂し、現在、物価が三割ほど上昇しておりまして……」
「それは……それは一時的なものだ! それより、ミリアはどうした! 彼女の笑顔で、私の疲れを癒やしてくれと言ったはずだぞ!」
リュントが救いを求めるように叫ぶと、タイミングよく扉が開き、可憐な(自称)聖女ミリアが姿を現した。
「リュント様ぁ~! 大変ですぅ、見てください!」
ミリアは泣きそうな顔で駆け寄ると、リュントの腕にしがみついた。
「どうしたミリア、何か嫌なことでもあったのか?」
「あのね、さっきお茶会に出たんですけど、お菓子に私が苦手なピスタチオが入ってたんですぅ。これって、パルメ様の残党による嫌がらせですよね? 私、怖くて夜も眠れません……」
リュントは一瞬、言葉を失った。
(……ピスタチオ? そんなことで、この国家存亡の危機に騒いでいるのか?)
パルメであれば、嫌がらせなど受けた瞬間に相手を論理的に再起不能にし、ついでにその菓子メーカーの利権を掌握して、より質の高い菓子を流通させていたことだろう。
「……あー、そうか。それは怖かったね。後でその菓子職人をクビにしておこう。それよりミリア、この予算案のチェックを少し手伝ってくれないか?」
「えぇ~? 難しい字がいっぱいで、ミリア、頭が痛くなっちゃいますぅ。あ、そうだ! リュント様、明日のお祭りに着ていくドレス、新作がいいなぁ!」
「お祭り? 明日は隣国の使節団を迎える晩餐会だろう? 遊びではないんだぞ」
「ミリアにとっては、リュント様と一緒なら全部お祭りですっ! えへへ!」
ミリアのあざとい笑顔。以前なら鼻の下を伸ばしていたはずのリュントだったが、今はその笑顔を見るたびに、こめかみのあたりがピキピキと音を立てる。
「……ミリア、少し静かにしていてくれ。私は今、非常に忙しいんだ」
「ひどぉーい! パルメ様がいなくなったから、これからはずっと一緒だって約束したのに!」
「っ……! その名前を出すなと言っているだろう!」
リュントが思わず怒鳴ると、ミリアは「ヒィッ!」と声を上げ、顔芸のような驚き顔で固まった。
そこへ、血相を変えた騎士団長が飛び込んできた。
「殿下! 報告いたします! 例の、パルメ・ド・ラ・メールの領地にて、不穏な動きが観測されました!」
リュントは椅子から飛び上がった。
「不穏な動きだと!? ついにあいつ、反旗を翻したのか!」
「いえ、それが……。ド・ラ・メール領が、近隣の領主たちを『赤い悪魔のソース』と称する謎の物質で次々と制圧……もとい、胃袋を掴んでおりまして。現在、周辺諸国との経済圏をパルメ様が独占しつつあります!」
「赤い、悪魔のソース……? なんだそれは、新手の生物兵器か!?」
「いえ、非常に美味しいピリ辛の調味料だそうで……。食べた者は皆、『パルメ様に逆らっては、この美味(しあわせ)が手に入らなくなる』と涙を流して誓っているとか」
リュントは目眩を感じ、額を押さえた。
「……あいつ、追放されたはずだろう? どうして、追放される前より影響力が増しているんだ……」
「さらに、隣国のセドリック王子が、パルメ様の農作業を『騎士の修行』と称して手伝っているとの情報も入っております」
「セドリックだと!? あの不気味なほど完璧な王子が、なぜ泥遊びに……!」
リュントは、自分が手放したものが、実は「王国の守護神」であり「黄金の卵を産むガチョウ」であり、そして「他国が喉から手が出るほど欲しがる逸材」だったことを、ようやく肌で感じ始めていた。
「……リュント様ぁ、お腹空いちゃいましたぁ。パフェ食べたいですぅ」
足元でミリアが袖を引く。
「……ミリア。パフェの材料である牛乳も砂糖も、今、パルメが流通を止めているせいで価格が高騰しているんだよ……」
「えぇー、パルメ様ってば意地悪! 本当に悪役令嬢ですね!」
「……黙れ。もう一言でもしゃべったら、君をパルメの領地に強制送還するぞ」
「……はぇ?」
リュントは、真っ白な書類の山に顔を埋めた。
彼が夢見ていた「愛に満ちた平穏な日々」は、パルメという有能すぎる盾がなくなった瞬間、ただの「地獄の残業」へと姿を変えたのである。
「パルメ……。……いや、なんでもない。仕事に戻るぞ。……あぁ、胃が痛い……」
王宮の深い闇の中に、王子の後悔の溜息が虚しく消えていった。
アステリア王宮の執務室。リュント王子の怒声が、静かな廊下にまで響き渡った。
目の前には、山積みになった書類の束。かつてはパルメが、茶をしばきながら片手間で終わらせていた量である。
「も、申し訳ございません殿下……。パルメ様がいらっしゃった頃は、彼女が事前に要約と分類を済ませてくださっていたのですが……。我々だけでは、内容の精査に倍の時間がかかりまして……」
震える文官の言葉に、リュントは机を激しく叩いた。
「パルメ、パルメと……どいつもこいつもあいつの名前を出すな! あんな女、もうこの王宮には関係ないんだ!」
「ですが殿下、あの方が担当していた隣国との通商調整が決裂し、現在、物価が三割ほど上昇しておりまして……」
「それは……それは一時的なものだ! それより、ミリアはどうした! 彼女の笑顔で、私の疲れを癒やしてくれと言ったはずだぞ!」
リュントが救いを求めるように叫ぶと、タイミングよく扉が開き、可憐な(自称)聖女ミリアが姿を現した。
「リュント様ぁ~! 大変ですぅ、見てください!」
ミリアは泣きそうな顔で駆け寄ると、リュントの腕にしがみついた。
「どうしたミリア、何か嫌なことでもあったのか?」
「あのね、さっきお茶会に出たんですけど、お菓子に私が苦手なピスタチオが入ってたんですぅ。これって、パルメ様の残党による嫌がらせですよね? 私、怖くて夜も眠れません……」
リュントは一瞬、言葉を失った。
(……ピスタチオ? そんなことで、この国家存亡の危機に騒いでいるのか?)
パルメであれば、嫌がらせなど受けた瞬間に相手を論理的に再起不能にし、ついでにその菓子メーカーの利権を掌握して、より質の高い菓子を流通させていたことだろう。
「……あー、そうか。それは怖かったね。後でその菓子職人をクビにしておこう。それよりミリア、この予算案のチェックを少し手伝ってくれないか?」
「えぇ~? 難しい字がいっぱいで、ミリア、頭が痛くなっちゃいますぅ。あ、そうだ! リュント様、明日のお祭りに着ていくドレス、新作がいいなぁ!」
「お祭り? 明日は隣国の使節団を迎える晩餐会だろう? 遊びではないんだぞ」
「ミリアにとっては、リュント様と一緒なら全部お祭りですっ! えへへ!」
ミリアのあざとい笑顔。以前なら鼻の下を伸ばしていたはずのリュントだったが、今はその笑顔を見るたびに、こめかみのあたりがピキピキと音を立てる。
「……ミリア、少し静かにしていてくれ。私は今、非常に忙しいんだ」
「ひどぉーい! パルメ様がいなくなったから、これからはずっと一緒だって約束したのに!」
「っ……! その名前を出すなと言っているだろう!」
リュントが思わず怒鳴ると、ミリアは「ヒィッ!」と声を上げ、顔芸のような驚き顔で固まった。
そこへ、血相を変えた騎士団長が飛び込んできた。
「殿下! 報告いたします! 例の、パルメ・ド・ラ・メールの領地にて、不穏な動きが観測されました!」
リュントは椅子から飛び上がった。
「不穏な動きだと!? ついにあいつ、反旗を翻したのか!」
「いえ、それが……。ド・ラ・メール領が、近隣の領主たちを『赤い悪魔のソース』と称する謎の物質で次々と制圧……もとい、胃袋を掴んでおりまして。現在、周辺諸国との経済圏をパルメ様が独占しつつあります!」
「赤い、悪魔のソース……? なんだそれは、新手の生物兵器か!?」
「いえ、非常に美味しいピリ辛の調味料だそうで……。食べた者は皆、『パルメ様に逆らっては、この美味(しあわせ)が手に入らなくなる』と涙を流して誓っているとか」
リュントは目眩を感じ、額を押さえた。
「……あいつ、追放されたはずだろう? どうして、追放される前より影響力が増しているんだ……」
「さらに、隣国のセドリック王子が、パルメ様の農作業を『騎士の修行』と称して手伝っているとの情報も入っております」
「セドリックだと!? あの不気味なほど完璧な王子が、なぜ泥遊びに……!」
リュントは、自分が手放したものが、実は「王国の守護神」であり「黄金の卵を産むガチョウ」であり、そして「他国が喉から手が出るほど欲しがる逸材」だったことを、ようやく肌で感じ始めていた。
「……リュント様ぁ、お腹空いちゃいましたぁ。パフェ食べたいですぅ」
足元でミリアが袖を引く。
「……ミリア。パフェの材料である牛乳も砂糖も、今、パルメが流通を止めているせいで価格が高騰しているんだよ……」
「えぇー、パルメ様ってば意地悪! 本当に悪役令嬢ですね!」
「……黙れ。もう一言でもしゃべったら、君をパルメの領地に強制送還するぞ」
「……はぇ?」
リュントは、真っ白な書類の山に顔を埋めた。
彼が夢見ていた「愛に満ちた平穏な日々」は、パルメという有能すぎる盾がなくなった瞬間、ただの「地獄の残業」へと姿を変えたのである。
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王宮の深い闇の中に、王子の後悔の溜息が虚しく消えていった。
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