記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま

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医務室の扉が開いた瞬間、薬草の匂いと淡い光が部屋を包んでいた。
ベッドに横たわる青年は銀の髪に深い蒼の瞳を持っている。それはサフィルの特徴と合っていた。

「……サフィル様……」

安堵が漏れた声に、サフィルはゆっくりと顔を向けた。けれど、その訝しむような瞳は私を知らなかった。彼は私をじっと見つめ、ほんの一拍遅れて眉を寄せる。

「……誰だ?」

と、サフィルが小さく呟く。
喉がひゅっと縮み、足元が揺れた。体が冷えていくのに、心臓だけが暴れている。
——私を忘れている?

「わたしは、セレ……」

「……ああ。侍女か」

名乗ろうとすれば、彼はそう安心しきったように告げた。
侍女——。
胸の奥で音もなく、粉雪のように何かが静かに崩れたような気がした。

サフィルは記憶を失っている。
どこまで忘れているのだろうか。
——いや、それよりも。
彼は私を興味のない人間を見るような目で見ている。それが何より苦しかった。

嫌な静寂の中、重い扉がわずかに軋み、側近の男、ルシオンが影のように滑り込んできた。
彼はサフィルの実弟だ。兄を尊敬するルシオンにとって、王太子の側に仕えるのは自然な選択だった。少年の頃から兄の最も近くにいたいと必死に努力して手に入れた立場だった。

だからだろうか。
彼の足取りには急ぎの気配があり、妙に音を殺していた。

「殿下、無理をしてはなりませんよ。それに、あなたも取り乱してはなりません」

ルシオンがそう忠告のように言葉を漏らしながら近づいてきて、瞬間、私の腕を軽く掴んだ。それはこの場にいることを否定するように、力強く骨を軋ませ、この場から追い出そうと、グッと力が籠っていた。
ぐい、と腕が引かれ、足元が揺れる。
投げ飛ばされるのかもしれない、とそんな最悪の想像が胸を駆け抜けた。
私は思わず、目を閉じる。

「……動かすな」

ふと、低く落ちたサフィルの声が落ちた。それははまるで水底から響くように重く、室内の空気をひとつ震わせる。
側近が思わず手を止め、ゆっくりと、私は降ろされる。

「殿下?」

「その侍女を……ここに置け」

ルシオンの問いに、サフィルはそう淡々と答えた。
そして、ゆっくりと、視線が動く。
記憶は真っ白のはずなのに、ただ――私を捉えた蒼だけが、やわらかく揺れた。
触れもしないのに頬を撫でられたような、そんな錯覚すら招く温度で。
まるで、ここにいるべき人間を本能だけで選ぶようで。

「殿下、この女は侍女では……」

ルシオンの声は焦りを混ぜて鋭く響いた。
部屋の空気がぴりりと張りつめ、嘘を暴こうとする刃のように私の背中へと迫る。

侍女でない、とホントを言われれば、すべてが崩れる。そればかりか、彼のそばに立つ機会すら失われるのは明白だった。

――だったら、嘘でもいい。守れるのは私しかいない。

「……いえ、侍女です。殿下の世話は任せてください」

言い切った瞬間、胸の奥で心臓がどくんと跳ねた。自分の声だけがやけに澄んで響き、沈黙の中に放り出される。真実を差し出すより、この嘘のほうが彼を救える。そう思い込まないと、胸が壊れそうだった。

「彼女もそう言っている」

「はぁ……、いいでしょう。殿下がそうおっしゃるのなら」

ルシオンは諦めたように、ため息を漏らした。
サフィルの目が細められる。懐かしさと困惑、そのどちらともつかない表情が、彼の記憶の空白をやさしく染めているようだった。
そして、私の胸の奥で、かつての約束の残響がひそやかに痛んだ。
その痛みは、もう決して後戻りできない道の始まりを告げる合図のようだった。
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