1 / 50
1.
しおりを挟む
私は貴族の中では特別でもなく、どこにでもいる静かな家の長女だった。
それでも、我がラングフォード家は代々王家を支えてきた名門だった。
父は王国軍の副将を務めていて、王城の行事には必ず招かれては、私も幼い頃から何度も王宮へ足を運んでいた。
そのたびに、彼の姿を見ていた。
——王太子サフィル殿下。
幼少の頃から礼節正しく、誰に対しても優しい殿下で、彼と話すたび、私は不安も緊張も溶けていくような気がした。
そうして、気がつけば、周囲は自然と、ラングフォード家の令嬢とサフィル殿下はお似合いだ、と口にするようになっていた。
そればかりか、私たちの間でも、妙に視線の合う時間が長くなる。
そういう日々を過ごせば、自然と淡く願うもので。
そんなある春の日のことだった。
サフィル殿下は私の前に立ち、穏やかな眼差しで告げた。
「セレナ。……ずっと、君を妃として迎えたいと思っていた」
その言葉をもって、両家は正式に婚約を結ぶ。
——そんな折だった。
王都を震わせた「王太子サフィル殿下、重傷」という報せが私の胸を射抜いたのは、昼下がりのこと。
手にしていた茶器が震え、淡い色の液体が揺れる。息が詰まり、視界が霞む。
「……サフィル、様……?」
その名を唱えたときにはもう、足が勝手に動き出していた。戸惑う侍女に外套だけを渡し、飛び出す。焦りからか、馬車を呼ぶ声が裏返った。
馬車は整然とした足並みで、しかし、速く、確かに王宮へと向かっていた。
焦る気持ちを空に向けていれば、ふいに春風が吹く。
それはあの日とはまるで違う、荒れた風だった。
彼との婚約が決まりかけていた頃、暖かい言葉とともにキスをされた帰り道の風——。
それは嫌な過去を吹き上げるように、胸に酷く刺さっていた。
王宮の門が見えた頃には、胸の奥が焦げるように痛く、華麗な足音を響かせることは出来なかった。ただただ、焦りや困惑、心配。そういった感情が足を引きずり、ぐちゃぐちゃなペースで進むばかりだった。
「ここを、通してください!」
「……セレナ嬢、いらしたのですか」
門番の視線に驚きが滲む。
けれど、それを気にしている余裕はなかった。
「殿下のご容体は?今どこに……!」
声を出した瞬間、自分でも驚くほど震えていた。喉がつまって、言葉がうまく形にならない。
門番は返答をためらうようにまつ毛を伏せる。
顔色は決して悪くないのに、沈んだ影だけが濃かった。
「医務室で安静にして、あまり人を入れるな。とのご指示でして」
その言い回しの曖昧さが胸の奥に冷たい針のように刺さる。拒まれているのではなく、隠されている——そんな予感が疼いた。
「一目でいいのです。お願いします」
折れそうな声で訴えると、侍従がゆっくりと息を吐く。諦めというより、こちらの必死さに心を動かされたような息だった。
「……わかりました。ですが、くれぐれも変なことはなさらないように」
門番は観念したようにうなずき、私を先へと促す。
歩き出してすぐ、我慢しきれず駆け足になる。
それはまだまだ、ぐちゃぐちゃのままで。
廊下の灯が流れ、足音が冷たい床石を叩くたび、胸の奥で別の痛みが跳ねる。
どうか——間に合って。
この祈りだけが、息苦しいほど強く脈打っていた。
それでも、我がラングフォード家は代々王家を支えてきた名門だった。
父は王国軍の副将を務めていて、王城の行事には必ず招かれては、私も幼い頃から何度も王宮へ足を運んでいた。
そのたびに、彼の姿を見ていた。
——王太子サフィル殿下。
幼少の頃から礼節正しく、誰に対しても優しい殿下で、彼と話すたび、私は不安も緊張も溶けていくような気がした。
そうして、気がつけば、周囲は自然と、ラングフォード家の令嬢とサフィル殿下はお似合いだ、と口にするようになっていた。
そればかりか、私たちの間でも、妙に視線の合う時間が長くなる。
そういう日々を過ごせば、自然と淡く願うもので。
そんなある春の日のことだった。
サフィル殿下は私の前に立ち、穏やかな眼差しで告げた。
「セレナ。……ずっと、君を妃として迎えたいと思っていた」
その言葉をもって、両家は正式に婚約を結ぶ。
——そんな折だった。
王都を震わせた「王太子サフィル殿下、重傷」という報せが私の胸を射抜いたのは、昼下がりのこと。
手にしていた茶器が震え、淡い色の液体が揺れる。息が詰まり、視界が霞む。
「……サフィル、様……?」
その名を唱えたときにはもう、足が勝手に動き出していた。戸惑う侍女に外套だけを渡し、飛び出す。焦りからか、馬車を呼ぶ声が裏返った。
馬車は整然とした足並みで、しかし、速く、確かに王宮へと向かっていた。
焦る気持ちを空に向けていれば、ふいに春風が吹く。
それはあの日とはまるで違う、荒れた風だった。
彼との婚約が決まりかけていた頃、暖かい言葉とともにキスをされた帰り道の風——。
それは嫌な過去を吹き上げるように、胸に酷く刺さっていた。
王宮の門が見えた頃には、胸の奥が焦げるように痛く、華麗な足音を響かせることは出来なかった。ただただ、焦りや困惑、心配。そういった感情が足を引きずり、ぐちゃぐちゃなペースで進むばかりだった。
「ここを、通してください!」
「……セレナ嬢、いらしたのですか」
門番の視線に驚きが滲む。
けれど、それを気にしている余裕はなかった。
「殿下のご容体は?今どこに……!」
声を出した瞬間、自分でも驚くほど震えていた。喉がつまって、言葉がうまく形にならない。
門番は返答をためらうようにまつ毛を伏せる。
顔色は決して悪くないのに、沈んだ影だけが濃かった。
「医務室で安静にして、あまり人を入れるな。とのご指示でして」
その言い回しの曖昧さが胸の奥に冷たい針のように刺さる。拒まれているのではなく、隠されている——そんな予感が疼いた。
「一目でいいのです。お願いします」
折れそうな声で訴えると、侍従がゆっくりと息を吐く。諦めというより、こちらの必死さに心を動かされたような息だった。
「……わかりました。ですが、くれぐれも変なことはなさらないように」
門番は観念したようにうなずき、私を先へと促す。
歩き出してすぐ、我慢しきれず駆け足になる。
それはまだまだ、ぐちゃぐちゃのままで。
廊下の灯が流れ、足音が冷たい床石を叩くたび、胸の奥で別の痛みが跳ねる。
どうか——間に合って。
この祈りだけが、息苦しいほど強く脈打っていた。
99
あなたにおすすめの小説
【完結】本日、私の妹のことが好きな婚約者と結婚いたしました
音芽 心
恋愛
私は今日、幼い頃から大好きだった人と結婚式を挙げる。
____私の妹のことが昔から好きな婚約者と、だ。
だから私は決めている。
この白い結婚を一年で終わらせて、彼を解放してあげることを。
彼の気持ちを直接聞いたことはないけれど……きっとその方が、彼も喜ぶだろうから。
……これは、恋を諦めていた令嬢が、本当の幸せを掴むまでの物語。
白い結婚は終わりました。――崩れない家を築くまで
しおしお
恋愛
「干渉しないでくださいませ。その代わり、私も干渉いたしません」
崩れかけた侯爵家に嫁いだ私は、夫と“白い結婚”を結んだ。
助けない。口を出さない。責任は当主が負う――それが条件。
焦りと慢心から無謀な契約を重ね、家を傾かせていく夫。
私は隣に立ちながら、ただ見ているだけ。
放置された結果、彼は初めて自分の判断と向き合うことになる。
そして――
一度崩れかけた侯爵家は、「選び直す力」を手に入れた。
無理な拡張はしない。
甘い条件には飛びつかない。
不利な契約は、きっぱり拒絶する。
やがてその姿勢は王宮にも波及し、
高利契約に歪められた制度そのものを立て直すことに――。
ざまあは派手ではない。
けれど確実。
焦らせた者も、慢心した者も、
気づけば“選ばれない側”になっている。
これは、干渉しない約束から始まる静かな逆転劇。
そして、白い結婚を終え、信頼で立つ家へと変わっていく物語。
隣に立つという選択こそが、最大のざまあでした。
悪役令嬢なので最初から愛されないことはわかっていましたが、これはさすがに想定外でした。
ふまさ
恋愛
──こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに。
彩香だったときの思いが、ふと蘇り、フェリシアはくすりと笑ってしまった。
ありがとう、前世の記憶。おかげでわたしは、クライブ殿下を好きにならずにすんだわ。
だからあるのは、呆れと、怒りだけだった。
※『乙女ゲームのヒロインの顔が、わたしから好きな人を奪い続けた幼なじみとそっくりでした』の、ifストーリーです。重なる文章があるため、前作は非公開とさせていただきました。読んでくれたみなさま、ありがとうございました。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
身代わりの恋だと思っていました〜記憶を失った私に、元婚約者が泣いて縋る理由〜
恋せよ恋
恋愛
「君を愛している。一目惚れだったんだ」
18歳の伯爵令嬢エリカは、9歳年上のリヒャルト伯爵から
情熱的な求婚を受け、幸せの絶頂にいた。
しかし、親族顔合わせの席で運命が狂い出す。
彼の視線の先にいたのは、エリカの伯母であり、
彼の学生時代の恋人で「初めての女性」だった……ミレイユ。
「あの子は私の身代わりでしょう」「私はあなただけなの」
伯母ミレイユの甘い誘惑と、裏切りの密会。
衝撃の事実を目撃したエリカは、階段から転落し、
彼と過ごした愛しくも残酷な二年間の記憶だけを失ってしまう。
「……あの、どちら様でしょうか?」
無垢な瞳で問いかけるエリカに、絶望し泣き崩れるリヒャルト。
裏切った男と、略奪を企てた伯母。
二人に待ち受けるのは、甘い報復と取り返しのつかない後悔だった。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
探さないでください。旦那様は私がお嫌いでしょう?
雪塚 ゆず
恋愛
結婚してから早一年。
最強の魔術師と呼ばれる旦那様と結婚しましたが、まったく私を愛してくれません。
ある日、女性とのやりとりであろう手紙まで見つけてしまいました。
もう限界です。
探さないでください、と書いて、私は家を飛び出しました。
眠り姫は十年後、元婚約者の隣に別の令嬢を見つけました
鍛高譚
恋愛
幼い頃、事故に遭い10年間も眠り続けていた伯爵令嬢アーシア。目を覚ますと、そこは見知らぬ大人の世界。成長した自分の身体に戸惑い、周囲の変化に困惑する日々が始まる。
そんな彼女を支えるのは、10年前に婚約していた幼馴染のレオン。しかし、目覚めたアーシアに突きつけられたのは、彼がすでに新しい婚約者・リリアナと共に未来を築こうとしている現実だった――。
「本当に彼なの?」
目の前のレオンは、あの頃の優しい少年ではなく、立派な青年へと成長していた。
彼の隣には、才色兼備で知的な令嬢リリアナが寄り添い、二人の関係は既に「当然のもの」となっている。
アーシアは過去の婚約に縋るべきではないと分かりつつも、彼の姿を目にするたびに心がざわめく。
一方でレオンもまた、アーシアへの想いを完全に断ち切れてはいなかった。
幼い頃の約束と、10年間支え続けてくれたリリアナへの誠意――揺れ動く気持ちの狭間で、彼はどんな未来を選ぶのか。
「私の婚約者は、もう私のものではないの?」
「それでも私は……まだ、あなたを――」
10年間の空白が引き裂いた二人の関係。
心は10歳のまま、だけど身体は大人になったアーシアが、新たな愛を見つけるまでの物語。
運命の婚約者との再会は、果たして幸福をもたらすのか――?
涙と葛藤の三角関係ラブストーリー、ここに開幕!
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる