記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる

きまま

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私は貴族の中では特別でもなく、どこにでもいる静かな家の長女だった。

それでも、我がラングフォード家は代々王家を支えてきた名門だった。
父は王国軍の副将を務めていて、王城の行事には必ず招かれては、私も幼い頃から何度も王宮へ足を運んでいた。

そのたびに、彼の姿を見ていた。
——王太子サフィル殿下。

幼少の頃から礼節正しく、誰に対しても優しい殿下で、彼と話すたび、私は不安も緊張も溶けていくような気がした。

そうして、気がつけば、周囲は自然と、ラングフォード家の令嬢とサフィル殿下はお似合いだ、と口にするようになっていた。
そればかりか、私たちの間でも、妙に視線の合う時間が長くなる。
そういう日々を過ごせば、自然と淡く願うもので。

そんなある春の日のことだった。
サフィル殿下は私の前に立ち、穏やかな眼差しで告げた。

「セレナ。……ずっと、君を妃として迎えたいと思っていた」

その言葉をもって、両家は正式に婚約を結ぶ。
——そんな折だった。

王都を震わせた「王太子サフィル殿下、重傷」という報せが私の胸を射抜いたのは、昼下がりのこと。
手にしていた茶器が震え、淡い色の液体が揺れる。息が詰まり、視界が霞む。

「……サフィル、様……?」

その名を唱えたときにはもう、足が勝手に動き出していた。戸惑う侍女に外套だけを渡し、飛び出す。焦りからか、馬車を呼ぶ声が裏返った。


馬車は整然とした足並みで、しかし、速く、確かに王宮へと向かっていた。
焦る気持ちを空に向けていれば、ふいに春風が吹く。
それはあの日とはまるで違う、荒れた風だった。
彼との婚約が決まりかけていた頃、暖かい言葉とともにキスをされた帰り道の風——。
それは嫌な過去を吹き上げるように、胸に酷く刺さっていた。



王宮の門が見えた頃には、胸の奥が焦げるように痛く、華麗な足音を響かせることは出来なかった。ただただ、焦りや困惑、心配。そういった感情が足を引きずり、ぐちゃぐちゃなペースで進むばかりだった。

「ここを、通してください!」

「……セレナ嬢、いらしたのですか」

門番の視線に驚きが滲む。
けれど、それを気にしている余裕はなかった。

「殿下のご容体は?今どこに……!」

声を出した瞬間、自分でも驚くほど震えていた。喉がつまって、言葉がうまく形にならない。
門番は返答をためらうようにまつ毛を伏せる。
顔色は決して悪くないのに、沈んだ影だけが濃かった。

「医務室で安静にして、あまり人を入れるな。とのご指示でして」

その言い回しの曖昧さが胸の奥に冷たい針のように刺さる。拒まれているのではなく、隠されている——そんな予感が疼いた。

「一目でいいのです。お願いします」

折れそうな声で訴えると、侍従がゆっくりと息を吐く。諦めというより、こちらの必死さに心を動かされたような息だった。

「……わかりました。ですが、くれぐれも変なことはなさらないように」

門番は観念したようにうなずき、私を先へと促す。
歩き出してすぐ、我慢しきれず駆け足になる。
それはまだまだ、ぐちゃぐちゃのままで。
廊下の灯が流れ、足音が冷たい床石を叩くたび、胸の奥で別の痛みが跳ねる。

どうか——間に合って。
この祈りだけが、息苦しいほど強く脈打っていた。
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