あまく、とろけて、開くオメガ

藍沢真啓/庚あき

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自己評価の低い人形

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 まだ寒い日が続くこともあるのに、緑鮮やかなハーブガーデンを横切って店から出ると「憂璃君」と正面に止めた車から出てきた男の声に顔を上げる。

「壱岐さん」
「重いでしょう。私が持ちますよ」

 黒い前髪を斜めに流し、ノンフレームの眼鏡をした細面の美丈夫は、無表情で憂璃から保温と保冷バッグを奪うように取り上げ、後部座席のドアを開く。憂璃は無言で促されるまま座り心地のよい座面に腰を下ろすと、運転席に戻った壱岐の操るハンドルさばきで静かに車が動き出す。

 きっちりと髪を撫でつけ、体格のよい肢体を濃灰のスーツで包んだ壱岐は、一見すると神経質そうで真面目なサラリーマンに見えるが、その実玉霞会のナンバー3の若頭補佐という立場。普段は椿の秘書として影のように付き従う静かな男だが、彼は椿に次いで頭脳派インテリで武闘派でもあった。
 会のシノギの大半が椿と壱岐で稼いでいると教えてくれたのは、時々椿の付き添いで壱岐が来れないときに憂璃の送迎をしてくれる:天竹(あまたけ)という二十代の男だった。

「今日のメニューはなんと言っていましたか、玲司さんは」

 短い時間の滞在だったにも拘らず、妙に疲れてしまって背中をシートに預けてた憂璃は、壱岐からの質問に。

「ローストビーフのサンドウィッチとミネストローネって言ってましたよ」
「ほう。それならカシラもシャッキリ起きてくれそうですね」

 クスクスと笑う壱岐に、言った憂璃も苦笑を漏らす。

 椿は魚よりも肉、和食より洋食が好きな男だった。
 しかし数ヶ月前から家政婦が来なくなって以降、夕飯は憂璃が作るようになっていたが、彼のリクエストは和食が多かった。
 特に色んな味が楽しめる筑前煮が好きなようだ。いつも以上に白米の減りが早くなる。
 きっと、壱岐が勘違いするほどには、椿は玲司の作る食事が好きなのだろう。家政婦は和食メニューの指導が多かったので、洋食は不得手なのだ。

(今度、玲司さんに頼んでお料理教えてもらおうかな)

 頭の中で算段を組んでいると「駄目ですよ」と運転席から冷たい声が聞こえてくる。

 出会った頃に比べると、壱岐の憂璃に対する態度は随分柔和していた。ともすれば椿よりも接する時間が多い壱岐に対して、憂璃は兄のように慕っていた部分もあるからだ。

「え、なにがですか?」
「あなたのことだから、カシラに喜んでもらいたい理由で、玲司さんに料理の手ほどきをお願いしようとしたのではありませんか?」
「っ」

 上目でバックミラー越しに壱岐を見る。厳しい顔をしていたはずの壱岐は、ふっと柔らかな表情になり「あなたは単純ですから分かりますよ」と言って微笑む。

「玲司さんはカシラの友人で番がいるとはいえどもアルファの男性です。カシラは絶対に許さないでしょうね」
「……そうですね。椿さんにとっては僕は商品ですもん。瑕疵がついたら価値が下がってしまいますよね」
「……」

 壱岐は何か物言いたげな顔をしていたが、悲しげに長い睫毛を伏せた憂璃には、その鏡に映る男の表情を見ることはなかった。

 小さく吐息する壱岐は「カシラが暴れる前に早く帰りましょう」と言い、グッとアクセルを踏んだ車は、滑らかに駅と反対の位置にある椿の待つマンションへと向かった。


 憂璃を降ろした壱岐の車が地下駐車場に消えるのを見て、淡い金色に包まれたエントランスへと足を踏み入れる。
 このマンションは椿が所有するうちのひとつで、比較的富裕層の住人ばかりが入居している。憂璃と椿は最上階のペントハウスに住んでおり、椿の安全面を考え、最上階に上るには一般的な暗証番号式のパスワード入力だけではなく、椿と憂璃と壱岐だけに設定された指紋認証と網膜認証を通さないと部屋に帰ることができない。
 それ以前に二十四時間常駐しているコンシェルジュと警備員は、玉霞会のフロント企業から派遣された人間だ。しかも腕力に自信がある強者ばかり。つまり、無駄な鉄砲玉ごときでは最上階にどころか最初の暗証番号を入れる前に確保されてしまう。
 ある意味鉄壁の要塞だと言ったのは、裏社会の教育をしてくれた壱岐だった。
 このマンションだけでなく、椿が別邸として使用している部屋については、往々にして同じセキュリティだと言っていた。
 玉霞会の若頭である椿は常に命を狙われている。
 その椿が酔狂で引き取った憂璃の存在も秘匿にされてはいるものの、どこから情報が漏れているか分からないため、学校の送り迎えも今日のようにちょっとした用事も、壱岐もしくは壱岐の部下の天竹がハンドルを握ってくれた。

「商品が傷ものになるのは避けたいですもんね」

 先ほどは何気なしに憂璃は言葉をこぼしたが、壱岐は憂璃の言葉を聞いて、少し悲しげに微笑んでいたのに気づいていた。

 憂璃はデスクに立って柔和に微笑むコンシェルジュと、エレベーターホール前に立つ警備員にペコリと頭を下げて、幾度となく押した暗証番号を打ちガラス扉が開くのを待つ。
 通常、住人が暗証番号を押して開かれた扉が閉まる前に別の人間が続いて入る……といった行動をしてくる不届き者もいるようだが、ここでは暗証番号を打たない人間が通り抜ける前に警備員に止められてしまう。
 そういった細かな配慮も、このマンションの住人が安心している部分でもあるようだ。

 磨かれた大理石はどこもかしこも顔が映るほど艶めき、ときおり自分が身分不相応な罪悪感にさいなまれる。
 多分、椿は憂璃が売られた先が身分も資産もある人物だった場合、怖じけることなく生きていけるようにこうして躾てくれているのだろう。
 慣れなくてはいけない。
 無様な商品を押し付けられたと椿が誰からも責められないように。
 憂璃は俯けそうになる顔を上げる。気高く、価値のある、孤高のオメガの顔で──

 両端を防弾ガラスを嵌め込んで光を取り入れた最上階のエントランスは室内と思えないほど明るく、眩しさに目を眇める。逆に夜になると遠くにある中心地のビル群の光が星のように瞬き、あまり出歩くことのない憂璃の目を楽しませる。

「ただいま帰りました」

 指紋認証と網膜認証で玄関を開け、広々とした玄関に入る。黒と白の大理石で構成されたモダンな床と壁には無駄なものは一切なく、他者の侵入を拒否しているかに感じた。

「お帰り。メシはどうした」

 意外とはっきりとした低く艶のある声に、憂璃はハッとなり顔を声のした方に向ける。
 黒のTシャツに黒のジーンズ、入浴したばかりなのか、黒髪はいつもよりも黒く艶を帯び、男の色気が溢れていた。

「椿さん……食事は今、壱岐さんが持ってくると」
「遅くなりましたカシラ」

 憂璃の背後から言葉を遮るように壱岐の声が響く。

「壱岐、お前にしては珍しいな。何かあったのか」
「ええ、まあ。羽虫が一匹、マンションの付近を飛び回っていたので排除を」
「……そうか」

 困ったものだ、と吐き捨て、椿は踵を返してリビングへと歩き出す。

「壱岐さん。羽虫って?」

 壱岐に向き直り首を傾げて問いただせば、困ったように眉を寄せた壱岐は「なんでもありませんよ」と、言葉を濁して憂璃の背中を押す。

「ほら、カシラが空腹で機嫌が悪くなる前に、さっさと準備いたしましょう。コーヒーをお淹れしますよ」
「わぁ、僕壱岐さんのコーヒー好きです。だって酸っぱくも苦くもないですもん」
「でも、ミルクは沢山、でしょ」

 からかい口調の壱岐の言葉に頬を染めて憂璃は小さく頷く。
 上司であり幼馴染でもある椿が買った憂璃は、やっと三年目にして自己主張できるようになった、と壱岐は内心で感慨深いものを感じていた。

 最初はとんでもない金額をふっかけてきたオメガの男にも腹が立ち、それに諾と言って億単位の金を支払った椿にも、人生を諦めたような目で抵抗もなく着いてきた憂璃にも、壱岐は憤りを感じていた。
 そもそも玉霞会では人身売買なんてしていない。
 グレイではあってもホワイト寄りのビジネスでシノギを上げている。
 背景は極道であっても、実際はただの一般企業と変わりがないのだ。
 椿も反社会的な商売を嫌悪しているはずなのだが……

(きっと、あの日からカシラも憂璃君も変わったかに思える。憂璃君が迎えた発情期ヒートが……)

「壱岐さん?」

 どうしたんですか? と、赤い瞳が不安げに揺れ見上げてくる。
 憂璃は優しい子だ。
 実の母親から育児放棄されて育ち、最終的には大金と引き換えに売られたにも拘らず恨み言ひとつも漏らさず、椿が与えた教育や学校の勉強にも真面目に取り組んできた。
 見た目ばかり気にする生徒が多いオメガクラスの中でも飛躍的に成績の良い憂璃を、このままオメガクラスに埋没させるのは惜しいとさえ教師に言わしめてる程だ。
 あの見た目で人の感情に敏感な癖に、どこか抜けてる少年に対して、壱岐も憤慨する気持ちが軟化し、弟のように気づいたら接するようになっていた。
 身内に甘いな、と壱岐は内心で苦笑を漏らす。

「いえ、なんでもありません。さあ行きましょう」
「はい」

 靴を脱ぎ、壁と一体化したシューズクローゼットに自分の靴をしまい、手にスリッパを持って壱岐の前にそっと置く。
 控えめな気遣いに胸を温かくし、小走りでリビングに向かう憂璃の背中を見つめる。

 椿がなんの意図で憂璃を買い、そして誰かに売ると言ったのか。
 名家『四季』のひとつである玉之浦家の次期当主の考えは、幼い頃に椿と出会った孤児の壱岐には分からない。

 壱岐はひとつ息を吐き、靴を脱いで憂璃が用意してくれたスリッパに足を通す。

(もし、憂璃君を泣かせたら、あなたでも許されませんよ、カシラ)

 しばらくの間は羽虫という、椿のセフレの排除に力を入れようと、眼鏡の奥の瞳を光らせていた。
 
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