あまく、とろけて、開くオメガ

藍沢真啓/庚あき

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処分の行方

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 体が痛い。
 怠くて動かすのも億劫。
 冷たい泥の沼に沈んだように、手足を動かしたくても重みと痛みでつらい。
 僕はどうしたのだろう、と憂璃は指一本動かない体と頭で考える。

 なにか嫌なことがあった。
 臭くて不快で怖気した感覚がうっすらとよみがえる。

 ……あぁ、うっすらと思い出した。ずっと大学部の図書館で自分を追い回していた男が急に襲って……

「……ぅ……」
「憂璃?」

 ふと、近くで低くて優しい声が聞こえた。
 冷たい体が少しだけ温かくなって、憂璃は閉じていた目を薄くひらく。
 そこにはいつものキリッとした表情とは違い、不安そうに眉尻を下げた椿がぼやけた視界いっぱいに映る。どうしてそんなに不安そうな顔をしているのだろうか。
 商品に傷がついて値崩れするのを心配しているのだろうか。もし、そうなら椿にどんな償いをすればいいのだろうか。
 不慮のできごととはいえ、憂璃の油断でこのような自体を招いてしまったかもしれないのだ。

「大丈夫か?」

 そう言って憂璃の乱れた髪を指で梳いてくれる。
 大丈夫だよ、と返したいのに、声が喉に詰まって出てこない。
 首を縦に動かしたいのに倦怠感が酷くてみじろぎすらできない。

「……」
「そうか、大丈夫か。でも、肩を強打してるし、大丈夫だったとはいえ頭も打ったようだから、今日一日はゆっくり寝てろ」

 口を微かに動かしたら、言葉は出ていないのに気づいてくれた。
 黙っていると精巧なパーツで組まれたマネキンのように人間味を感じさせないのに、触れる手も掛けてくる声も甘く、優しく、甘やかな香りに包まれる。
 憂璃はこのささやかな匂いを感じると、とても幸せな気分になれる。
 そうして、あれだけ痛かった体から痛みがすうと抜けていくような気がするのだ。

「つ……ば、き……さ」

 ごめんなさい、と謝りたかった。
 ただでさえ高い金で自分を買わせておいて、その商品の自己管理が悪かったせいで怪我までしてしまったのだ。
 謝って許されるものではない。
 それでも彼に心配をかけてしまったことに、すぐにでも謝罪したいのに声が出てこない。

「憂璃、気にしなくてもいい。……だから泣くな。話は明日起きてからゆっくりしよう。今晩は傍にずっと居てやるから」

 穏やかな声が降り注ぐなか、髪の中を滑る指の温度が心地よい。
 初めての発情期ヒートから椿と一緒に同じベッドで寝るようになったが、その時もこうして頭を撫でてくれる。
 すっかり慣れた気持ちよさと疲労で、憂璃の意識はトロリと糖蜜のように蕩けて深く沈んだ。


    ◇◆◇

「カシラ」

 憂璃の髪を撫でている間に、深い眠りに就いた憂璃を気遣う壱岐の静かな声が椿の耳に届く。

「憂璃さんは」
「点滴が効いたようだ。凛の話では下手に動かないように少し強めの鎮痛剤と精神安定剤を入れてるようだから」

 そうですか、とどこかホッとしたような吐息は背後から聞こえてくる。
 あれだけ憂璃を引き取る時に猛反対していた壱岐も、送迎や教育をするようになってからというもの、一定の距離を保ちながら弟のように可愛がっているのを知っている。
 特に今回は自分が近くにいたにも拘らず起こってしまった事件だ。
 憂璃の安否を知り、本当に安堵したのだろう。

 椿は掠めるだけのキスを憂璃の秀でた額に落とし、絹糸のような髪を丁寧に指で梳く。
 先ほど憂璃にはずっと傍に居るとは言ったが、害した人間とその父親を放置したままだし、落とし前を早く決着させるためにも、今夜中に動いてカタをつけたほうがいいだろう。

「それじゃあ行くか」
「入口にベータの者を数人配置させましたが、中の警備は」
「いや、必要ない。そもそもこの特別室棟に入るには手順踏まないと無理だしな」

 それ以前にこの場の存在を知っている人間というのは、国の中でもほんのひと握りだろう。

 大部屋は存在せず、全てが個室。更にひと部屋の平米数も差はあるもののホテルのジュニアスイート並の広さとクオリティが確保されている。
 全室、バストイレ完備、付き添い用のベッドとミニキッチンが備え付けられており、各階にコンシェルジュと警備員が配置され、細かくボディチェックと身分証明ができないと奥に入ることすら叶わないという徹底ぶりだ。

 表だろうが裏だろうが、上級アルファの名付きは伊達ではないのだ。
 その表の『四神』のひとつ、寒川家が管理する病院。セキュリティも並大抵のものではない。

「では、お仕置きはさっさと終わらせて、早く憂璃さんの元に帰らなくてはいけませんね」
「お仕置きって……」

 たまに壱岐は突飛な発言をする。
 きっと憤怒している椿の気持ちを軽くしようとしての発言に違いないと思うのだが、軽くなるどころか脱力してしまいそうになる。

「まあ、いい。凛の話では朝まで絶対に起きないそうだから、それまでに帰ってくればいいだろう」

 後ろ髪を引かれる思いで病室を後にする。
 実家に戻る途中で凛にアルファ抑制剤の話をするのを思い出したものの、改めればいいかと嘆息をついた。



 玉霞会、玉之浦本家は、椿と憂璃が住む位置の対角線上で反対側、春の街の近くに構えられた純和風の武家屋敷だ。
 広大な敷地の中心に屋敷があり、その中で椿の両親と家政婦、会の下の者が下働きとして二十人程生活している。
 椿も大学に入るまでは屋敷にはいたものの、その大半は椿のために建てられた別棟にて生活をしていた。
 アルファというのは、例え子どもであってもアルファが同一空間にいるのをよしとしない。そのための離れだったが、寂しいと感じなかったのは、両親がおしみない愛情を注いでくれたからだろう。

「「「お帰りなさい、カシラ!」」」

 長屋門をくぐると、左右に並んだ屋敷に住む会の者たちが寸分の狂いもなく頭を下げてくる。この場にいるほとんどがベータで占められているのは、アルファの縄張り意識だけでなく、番であるオメガを守るためでもあるのだろう。
 椿は軽く首肯し、奥の玄関に立つふたりの男性へと目を向ける。
 片方は父である玉之浦柾たまのうらまさき、父の隣に立つもうひとりが性別上は男性だが、椿を産んだオメガである玉之浦葵衣たまのうらあおい
 葵衣は椿の姿を認めるなり、西陣織の着物の裾を翻して駆けてくる。

「椿! 憂璃ちゃんは大丈夫なの!?」

 顔を青くし、椿のスーツの袖を皺にしながら血相を変えて問いただしてくる母に、椿は「心配しなくてもいい」と一言を告げる。

「一応頭を打ったのもあって、経過観察で一晩入院することになった。まあ、肩は脱臼しかけでしばらく固定になったから、多少生活に不便はでるかもしれないな」

 安心させるように凛から聞いた内容を話すと、葵衣は「はぁぁぁ」と肺の中の空気を吐き出す勢いで安堵の溜息を漏らす。
 三年前に、憂璃を連れて本家に挨拶に行った際、同じオメガだからか、葵衣が憂璃を実の子以上に気に入り、たまに外に連れて買い物をしていると壱岐から聞いていたが、まさかここまで心配をしてくれてることに驚きを隠せない。

「葵衣」

 ゆっくりとした足取りでこちらにやってくる父、柾に。

「この度は憂璃の件でご迷惑をおかけします」

 と、深々と腰を折り謝罪を示す。
 血縁上は親子で、盃を交わしたといっても、彼は玉霞会を纏める人物なのだ。
 いずれはその位置に登りつめる椿ではあったが、多くの他人の目がある以上は、会長と若頭の関係を崩すわけにはいかない。

「ああ、おおごとにならずに済んで良かったな、椿」
「はい。それで、例の男と父親は」

 黒染めの御召に博多織の角帯を身につけた父は、椿の年齢の子がいるとは思えないほどに若々しい。それは母の葵衣にも同じことが言えるが。

「それは中に入ってから仔細を話そう。ところで椿、お前食事はどうした」

 問われてみれば、商談中に壱岐から電話を受け、そのまま病院へと駆け込んだ。天竹が買ったコーヒーも結局口にしていないし、病院にいる間も憂璃に気を取られて食事の概念がすっかり失念していた。

「いえ、まだ……ですが」
「そうか、それなら葵衣が食事を用意してくれている。話はその時でいいか?」

 上が黒と言えばそれがどれだけ白でも黒と賛同しなくてはいけない世界。
 父も人の耳が多くある場所でこれ以上話すつもりもないし、それ以上に母を人目に晒したくないのだろう。
 椿は諾と返し、両親の後に続いて屋敷に入ったのだった。


 壱岐を帯同し、プライベートな区域にあるダイニングへと入った椿は、テーブルの上に所狭しと並ぶ皿の数を見て、これは? と目線で父に問う。椿の隣で壱岐も呆けた顔をしているから、あまりの量にあきれているのだろう。

「お前、この間こっちに帰ってきた時、何も言わずに離れにそのまま行ってしまっただろう。だから久々にこっちに来ると知った葵衣がはりきってな……」
「はぁ……」
「ほら、三人とも、こっちに座って。せっかく温かいのが冷めちゃうから」

 先日、憂璃と揉めた際、椿は本家に戻ってはきた。
 ただし、揉めた理由が子どものような悋気と悟られ、特に母に知られた日には盛大に責められるのが予測したのもあり、父には滞在の挨拶はしたものの、母には何も言わずにいたのだ。
 まさか後になってこうなるとは思わなかったが。

「まあ、葵衣も久々にお前に会えて嬉しいんだろうよ。たまには息子の勤めを果たせ」

 心は逸るものの、両親の心遣いを無碍にすることはできず、渋々と壱岐と並んで四人で掛けても大きなテーブルに設置された椅子に腰を下ろした。
 壱岐の同席を両親が咎めないのは、この男も両親にとっては身内と断定しているからだ。

 母はオメガの名家である珠城家の長男で、父とは幼い頃からの婚約者同士だったという。
 紆余曲折あり、ふたりが二十五の時に番となり、籍を入れた翌年、椿が誕生した。
 彼らは運命ではないが、だからこそ、父は母を屋敷からほとんど外に出さなくなっていた。
 父は母が運命に出会うのを恐れていた。
 運命は遺伝子の強制力で、体が引き合う。
 長年想いを重ねてきても、運命の前では全てが吹き飛ぶのだ。
 故に父は、母が運命と出会わないよう、家に縛り付けた。唯一の救いは、母がそれを苦なく受け入れ、父に愛情を注いでいるところか。

 憂璃は椿の運命だが、それだから今の状況を受け入れたわけではない。
 十六という年齢差に悩み、苦悩したうえで、憂璃を愛することに決めたのだ。

 四人はしばし美味しい食事を堪能していたが、柾から「それで」と硬い声が椿へと向けられたことにより、和やかな空気が一転し緊張に包まれる。

「アイツらはどうするつもりだ」

 ピン、と張り詰めた空気の中、柾はひじきの白和えに手を伸ばし安穏と言葉を口にする。
 もし椿に主導権があるのなら、憂璃を傷つけた男もその父親も一緒にどこかで処分したい。
 例え玉霞会が肉体的制裁をしても、殺すまでの非道をしないと分かっていても、あの男は憂璃を犯すつもりで襲い、当の憂璃が抵抗したために、あのような結果になったのだ。

「俺は……」


    ◇◆◇

「……あれで良かったんですか、カシラ」
「……」

 本家をあとにし、再び憂璃の入院する病院に向かう車中、壱岐は正面をまっすぐに見据えながら椿に問う。

「仕方ないだろう。親の言葉は絶対だからな」
「それは……確かにそう、ですが……」

 これ以上問い詰められるのも嫌になり、椿は愛用の煙草を口にして火をつける。深く煙を吸い込むと強いニコチンの刺激に脳が酩酊したように頭が痺れる。
 疲れた体と心には、これくらいの強い煙草が丁度いい。

 クラリと脳が揺れる刺激の中、身の内で依然暴れ続ける衝動をかわし続ける。

 結局、椿は父、柾の提言により茶咲の組は破門。息子ともども早々に街から出るよう勧告。破門状が今頃全国に周知されているはずだ。茶咲は二度と極道になれないし、まっとうに生きていく前に警察に身柄を持っていかれるだろう。
 茶咲はやってはいけないことをやり、警察に目をつけられた。病巣は早くに処置するに限ると言わんばかりの父の行動に、茶咲を破門するきっかけを今回の件で勝ち得たのだろう。要は父親は憂璃の件を引き合いに自分の思惑を得たのだ。

(我が親ながら胸糞が悪い)

 そして、憂璃に関しては、安直だが金で片をつけさせられた。現金で一億。
 納得できなくてもしなくてはいけなかった。
 受け入れる代わりとして、あの茶咲の息子に一発食らわせることができたが……

(それでもまだ怒りが燻ってる)

 苛立ちをあらわすように椿は煙草のフィルターを噛み、こみ上げる怒りを耐える。
 こんな感情を抱えたまま憂璃の元に帰るわけにはいかない。
 椿はまだほとんど燃えていない煙草を灰皿に押し潰す。

「壱岐」
「はい」
「さっきの慰謝料についてだが、憂璃には内緒にして、南の桐龍に運用を頼んでくれないか」
「そうですね。一度どこかで綺麗にしたほうがいいでしょうね」

 わかりました、と承諾する壱岐の返事を聞き、着いたら起こしてくれと言い残し目を閉じる。

 春の街を挟んで関東の半分を支配する桐龍組若頭は、椿の幼馴染で親友のひとりだ。
 彼は椿と同じように独自で会社を企業しており、メインが株運用をやっていたはず。
 憂璃の慰謝料としての一億を、一度桐龍の元に預け、それを元手に資産を増やしたほうがいい。そのお金は憂璃のものとなり、茶咲のものではなくなる。
 まっさらで、真っ当な憂璃の財産となるのだ。

(本人は臆して言葉にしないが、学ぶのが好きな子だ。やはり大学には行かせてやりたいしな)

 きっと椿の懐で大学ともなると拒否するだろう。
 本人は自分をまだ商品と思い、いずれ椿の元から離れていくと信じて疑っていない。
 それならこの金はお前のだ、と言って渡せば、戸惑うものの受け入れてくれるだろう。多分。

 ほどなく憂璃は高校三年生になる。
 更に進路のことについて学校側も詳しく調査するに違いない。
 なんとかそれまでには憂璃を説得して、できるならば、椿の長年の思いも告げることができれば……

(あれもこれもと欲張るのは危険かもしれない……な)

 椿は茶咲のような馬鹿な人間がでてこないよう、とあることを思い浮かべたものの、きっと凛は盛大に怒るだろう。
 しかしこの役割を他人に任せたくない。
 己の番は己が守るのだと、最悪の場合は強行しようと誓い、深く座面に体を預けた。
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