冬の一陽

聿竹年萬

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少年期 大学入学編

(1)二人の出会い

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 二人が出会ったのはかれこれ六十年前のことで、フィンが十一歳の頃のことだった。当時村には流行り病が蔓延しており、重篤な症状になる者も多かった。落命にはいたらぬものの村という機能を発揮できなくなるくらいには危機的状況であったし、女子供に限らず後遺症に悩まされる者も少なくはなかった。
 冬前の蓄えに手をつけることで、辛うじて息を絶やさないでいられたが、もはや目前に迫った冬の到来を予感して、村には寂しい静けさが満々ていた。
 フィンはここ連日、森に入り浸っていた。父の使う弦のよく絞られた弓を担いで、息を殺して森の中を駆け回っていた。村中が生きるのに精いっぱいで、病床にない男連中は城下町まで買い出しに出かけている。彼らが無事に、二束三文の価格で糧食を持って帰られれば良し、そうでなくとも流行り病の治療法でも仕入れられれば村を覆う病魔も諸共快方に向かうのであるが、時期が時期ということもあり旅路も大儀であるし、格安の保存食を見つけるのも難儀だ。流行り病は不意に現れて、生活を荒らすだけ荒らして去っていくから流行り病なのだから治療法の発見は今後の役には立っても、現状の解決には期待できない。
 この年にして大人に混じって狩猟や開墾に熱心なフィンは、現状まだ健康な自分がすべきことを考えた結果、こうして兎一匹でも構わないから、と野山を駆けているのである。
 彼の指はささくれ、弦を引き絞る指には血が滲んでいた。父が作ってくれたモカシンもすっかりぼろぼろだ。昨日はリスを捕った。一昨日はくくり罠にかかった鹿を持ち帰った。しかし、まだ全然足りなかった。
 不意に茂みの向こうにそれなりの大きさの気配を感じて足を止める。姿は見えないが、木の生え際をまさぐる音がする。音が移動する。足音の感覚はやや離れている。二足歩行しているようだ。
 熊か、と脳裏に過る。熊の毛皮は当然のこと、その筋肉も堅牢で、この父の弓を目いっぱい引き絞って急所目掛けて何本もの矢を放ってようやく撃沈できる獣である。フィンは今すぐ逃げるべきだと考えたが、体が全く反応してくれなかった。極度の緊張に呼吸が浅くなる。胸が苦しい。足が震える。
 ああ、くそっ。足が動かないなら、せめて矢をつがえなくちゃ!
 震える手で矢筒から抜く。弓につがえる。フィンはまだ一度も、父と同じように弦を引き絞れたことはなかった。
 森に入る前にニオイ消しはしてきた。どうか向こうがこちらに気が付かないで去ってくれることを祈るしかできなかった。
 果たして、その気配は徐々にフィンの方へ向かって動き始めた。ザクザクと他を気にしないような大らかな足取りにますます呼吸が乱れる。冷たい汗が背中を通る。ちらちらと雪が降り始めたのが、フィンの狭窄に陥った視界に入り込んだ。例年より一週間早い初雪だと、震える脳で考えていた。
「わぁ、雪ね」
 茂みの気配は、場に似つかわしくない、いや、正確に表すならば、フィンの緊張とは全く逆の調子で、柔らかに言葉を落とした。
 数拍の間を置いて、茂みの中から一人の娘が現れた。青みがかったグレーの髪を三つ編みにしてして肩からおろしている。丸眼鏡で耳長の娘だった。丸い硝子の向こうの瞳の色は光沢の美しい灰色だった。
 年の頃はフィンとそう変わらないように見えた。彼女は大層な革鞄を背負い、肩からは水筒だの藤籠だのがかけられている。右手に握られた大ぶりの鉈が彼女の矮躯に似つかわしくなく、一層の違和感を醸していた。
 フィンは、ようやく呼吸を思い出した。すっかり葉の色を落とした木々の間、降り始めた初雪の反射の中にあってその少女の色彩はフィンの目を奪うのに充分であった。さして鮮やかとは言えない彼女の髪の色が、瞳が、フィンの眼床に焼き付くようだった。
「あら。こんにちは。近くの村の方ですか?」
 少女の声には、少女らしからぬ落ち着きがあった。穏やかでゆったりとした調子には耳朶がひりつく。
 フィンです。名乗ろうとしたが音が出なかった。鼻がツンとした。泥を纏った獣臭が彼女の後方から漂ってきた。フィンの行動は不思議と滑らかだった。
 臭いがフィンの鼻に届くころには、既に茂みを乱暴に突っ切ろうとする音がしていた。フィンは弓を捨てて少女の元に駆けだしていた。少女は呆気に取られて硬直している。茂みの中から猪が現れる。少女はまだ気が付いていない。フィンは彼女の手から鉈を奪うと勢いそのままに振り上げた。猪の眉間には皺が寄っている。荒い息、極度の警戒状態になっているのが一瞥してわかる。
 フィンの振り下ろす鉈が猪の首に食い込む。猪の悲鳴が響く。喉の奥から呼気が鋭い隙間風のように放たれる。無力化にまだ至っていない。矢筒から矢を抜く。フィンはそれを猪の眼に狙いを定めて――数瞬、その目がフィンの眼を射抜いたような気がした――突き立てた。
 やがて、猪の体の緊張は、口の空いた水筒のように力なく抜けていった。二歩、三歩と後退りしたあと、大儀そうに猪は倒れた。まるで地響きが聞こえるようだった。
 猪が動かなくなるのを見て、ようやくその大きさが見えた。フィンと同じかそれ以上の大きさをした猪だった。これは、村に戻って大人たちの手を借りるか馬を借りないと村まで運ぶのも難しそうだった。
「ありがとうございます」
 彼女の声に、フィンの弛緩した意識は引き戻された。
「私、ドロシーと言います。危ないところを助けていただき本当にありがとうございます」
 ドロシーと名乗った彼女は大人が大人にするような礼を持ってフィンに謝辞を述べた。フィンは訳も分からず恥ずかしくなった。
「僕は、大丈夫。これ、ありがとう」
 緊張のあまり、とはいえドロシーと比べると何段も形になっていない自分の言葉にますます恥ずかしくなる。鉈を猪の頸から抜くと、フィンは落ち葉で血を拭ってからドロシーに返した。
 鉈を受け取るドロシーの手は意外なほどに傷だらけで、泥だらけであった。それだけで、少しだけフィンはドロシーに気安さを感じることが出来た。
「僕は、フィンと申します。貴女にお会いできて今日という日は良き日となるでしょう」
 精一杯、フィンの知る限りにおいて大人らしい挨拶を返した。ドロシーは一瞬間虚を突かれた風であったが、心からの感謝を覚えつつ冬前の一陽のように微笑んだ。
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