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少年期 大学入学編
(2)村への途中
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「私は錬金術を修めています。主に調薬、調合についてです」
ドロシーは麗らかな声音で教えてくれた。村への道中で聞いた話では彼女は国立大学で研究員をしているのだという。今日はこの森までフヨウタケを探しに来たのだという。そろそろ村に移って拠点作りをしようと思っていたところだったそうだ。
「大学で研究……。ドロシーは凄いんですね。僕と同じくらいの年なのに王都の大学で錬金術だなんて」
フィンは素直な感想を口にした。フィンは村の中の若者の内、取り分け勤勉な人間であった。一日の仕事を終えると決まって村長の家を訪ね、読み書き算術を学んでいた。村長夫妻も両親もフィンの勤勉さを褒めたし、彼の寡黙さを実に高く評価していた。
しかしながら、この村には一人の村人を進学させてやる余裕がなかったし、また学問させるだけの意義を見出だせてはいなかった。当然、そういった懐の事情をフィンもまた理解していたし、そもそも大学に行きたいがために村長宅に入り浸っている訳でもなかった。現在の生活にフィンは十分に満足していた。実に、フィンは、満足していた。
「あら、フィンは私がいくつに見えるのかしら。きっと貴方の思うより一等、年嵩はあるわよ」
「え、あ、そうか。エルフ族」
「ご明察です。私達エルフ族およびエルフ族の類縁達は人間族と比べて時間の流れがゆったりしています。まあ、私はエルフ族とはいえ生まれつき目が悪くて、森の民として生きていくのが難儀でして。多分、目だけではなく鼻も耳も人間並かあるいはそれに劣るくらいです」
ドロシーの物言いにはいくらかの自嘲と、一方で今の自分のありようを誇る気配が感じられた。フィンは彼女の言葉の調子に、どう返せばいいかわからなくなってしまう。
不意に、枯れ枝の折れる音が聞こえた。フィンの視界の縁を小さい影が抜けようとした。
「失礼します」
フィンは矢を弓につがえながら影を捕捉する。兎だった。跳躍軽やかにこの場から脱しようとするまさにその瞬間だった。
距離があるが間に合うか。逃げる最中にある兎を抜けるか。弦を引き絞る。まだ瘡蓋(かさぶた)にもなっていない指の傷がキリリと痛んだ。
あの兎を、一匹二匹仕留めても用は足りないと、フィンはわかっていた。自分の行いが村を助けられるとも思っていなかった。
矢は一直線に兎の頭部を抜いた。偶然の成果だった。皮を剥いで金子に変えれば、少しは物の役には立ちそうだと微かながら喜びを覚えた。
「フィンは凄いですね」
ドロシーが言う。
フィンは凄い。村の誰かがそう言ってくれるとき、フィンはいつも歯痒かったし、時には悔しかった。フィンの二つ上の兄は剣の腕と即断即決の気性を評価され、王命を受けて警吏の任に就いていた。また、一つ上の兄は狩猟家としての才覚をめきめきと伸ばしていた。そんな兄達に囲まれながらに届く称賛はいかにも空々しかった。
「一手で兎を仕留める様子、本当に見事です。立派なのですね。私には決して真似できない手腕です」
ドロシーがあまりにも屈託なく言うので、不思議な位にその称賛は心身に染みた。フィンは先刻の緊張とは種類を異にする呼吸の苦しさを覚えていた。顔が熱くなる。
「そんな、錬金術師として研究し、学問に携わっているドロシーの方が立派です。何かを発見したり、本を記したり、誰かの役に立つ知識をドロシーは探求しているのでしょう。ドロシーは、僕なんかと違って素晴らしい……」
「……ありがとうございます。謙虚なのですね、フィンは」
少し、ドロシーの声のトーンが落ちた気がした。
兎から矢を抜いてかつぐ。フィンはもうすっかり、ドロシーの顔を見られなくなってしまう。どんな表情をしているのか、フィンにはもうわからない。
「でもね、フィン。学問は、錬金術は、人々の役に立つ発明や発見は私の成果ではないのですよ。学問は、延々と、一見無為に見える、果てもわからず煉瓦を積み続けるという狂行に取り組み続けた、狂人達の吐き出した物の上澄みなのですよ」
ドロシーの言葉は、フィンには一度には理解できなかった。ドロシーの言い様は間違いなく自嘲していながら、しかして誇る様も確かにあった。
再度、ドロシーの顔を見ることができた。ちらちらと降りる雪と雪の狭間に覗くドロシーの顔は、その表情は生気に満ちているようだった。同時に、フィンの知る限りの言葉では表し尽くせない表情でもあった。
強いて表すなら、ある晩夏、山中で道に迷った日のこと。道を探すべく斜面をとにかく登りに登った先、視界が開けた。木々の壁が一面だけ開けて、山の麓の森が皆足元に見えたあの瞬間をフィンは思い出した。まだ山道に戻れてもいない。状況は解決していない。不安もあるし寂しさもあった。それでも心のどこかで「よかった」と感じていた。もしかしたら、あのときの自分は、今のドロシーと同じ顔をしていたのかも知れない。と、根拠の乏しい推測に、不思議な確信を覚えた。
「どうしましたか。フィン。貴方にはまだ難しい話だったかしら」
いっそ、錯覚なのだろうとフィン自身も考えた。葉を散らし、色彩を寂しくした木々を背景に、彩度の低い色素のドロシーが、その寒々とした世界に光を与えてさえいるようにフィンには見えた。フィンは、ドロシーのことが酷く羨ましくなってしまった。
「いいえ、ドロシーさん。ドロシーさんのお話は理解できませんでした。けれど、ドロシーさんが誇っていることは理解できました」
ドロシーはフィンの意外な返答にたちまち喜び、満面の笑みを浮かべた。
「さあ、村まで戻りましょう。ご案内いたします。今から帰って手配すれば、夕飯には猪が間に合うかも知れません」
ドロシーの足元が木の根が張り出して、不安定な足場になっているのを見て、フィンはエスコートしようと手を差し出した。差し出してから自分の手が傷だらけで強張って、乾きかけの血がじくじくとしているのに気がついた。フィンは手を拭おうと引っ込めようとしたが、それより早くドロシーの泥だらけの手が捕まえた。ドロシーの手は想像していたより柔く、細く、温かだった。
ドロシーは麗らかな声音で教えてくれた。村への道中で聞いた話では彼女は国立大学で研究員をしているのだという。今日はこの森までフヨウタケを探しに来たのだという。そろそろ村に移って拠点作りをしようと思っていたところだったそうだ。
「大学で研究……。ドロシーは凄いんですね。僕と同じくらいの年なのに王都の大学で錬金術だなんて」
フィンは素直な感想を口にした。フィンは村の中の若者の内、取り分け勤勉な人間であった。一日の仕事を終えると決まって村長の家を訪ね、読み書き算術を学んでいた。村長夫妻も両親もフィンの勤勉さを褒めたし、彼の寡黙さを実に高く評価していた。
しかしながら、この村には一人の村人を進学させてやる余裕がなかったし、また学問させるだけの意義を見出だせてはいなかった。当然、そういった懐の事情をフィンもまた理解していたし、そもそも大学に行きたいがために村長宅に入り浸っている訳でもなかった。現在の生活にフィンは十分に満足していた。実に、フィンは、満足していた。
「あら、フィンは私がいくつに見えるのかしら。きっと貴方の思うより一等、年嵩はあるわよ」
「え、あ、そうか。エルフ族」
「ご明察です。私達エルフ族およびエルフ族の類縁達は人間族と比べて時間の流れがゆったりしています。まあ、私はエルフ族とはいえ生まれつき目が悪くて、森の民として生きていくのが難儀でして。多分、目だけではなく鼻も耳も人間並かあるいはそれに劣るくらいです」
ドロシーの物言いにはいくらかの自嘲と、一方で今の自分のありようを誇る気配が感じられた。フィンは彼女の言葉の調子に、どう返せばいいかわからなくなってしまう。
不意に、枯れ枝の折れる音が聞こえた。フィンの視界の縁を小さい影が抜けようとした。
「失礼します」
フィンは矢を弓につがえながら影を捕捉する。兎だった。跳躍軽やかにこの場から脱しようとするまさにその瞬間だった。
距離があるが間に合うか。逃げる最中にある兎を抜けるか。弦を引き絞る。まだ瘡蓋(かさぶた)にもなっていない指の傷がキリリと痛んだ。
あの兎を、一匹二匹仕留めても用は足りないと、フィンはわかっていた。自分の行いが村を助けられるとも思っていなかった。
矢は一直線に兎の頭部を抜いた。偶然の成果だった。皮を剥いで金子に変えれば、少しは物の役には立ちそうだと微かながら喜びを覚えた。
「フィンは凄いですね」
ドロシーが言う。
フィンは凄い。村の誰かがそう言ってくれるとき、フィンはいつも歯痒かったし、時には悔しかった。フィンの二つ上の兄は剣の腕と即断即決の気性を評価され、王命を受けて警吏の任に就いていた。また、一つ上の兄は狩猟家としての才覚をめきめきと伸ばしていた。そんな兄達に囲まれながらに届く称賛はいかにも空々しかった。
「一手で兎を仕留める様子、本当に見事です。立派なのですね。私には決して真似できない手腕です」
ドロシーがあまりにも屈託なく言うので、不思議な位にその称賛は心身に染みた。フィンは先刻の緊張とは種類を異にする呼吸の苦しさを覚えていた。顔が熱くなる。
「そんな、錬金術師として研究し、学問に携わっているドロシーの方が立派です。何かを発見したり、本を記したり、誰かの役に立つ知識をドロシーは探求しているのでしょう。ドロシーは、僕なんかと違って素晴らしい……」
「……ありがとうございます。謙虚なのですね、フィンは」
少し、ドロシーの声のトーンが落ちた気がした。
兎から矢を抜いてかつぐ。フィンはもうすっかり、ドロシーの顔を見られなくなってしまう。どんな表情をしているのか、フィンにはもうわからない。
「でもね、フィン。学問は、錬金術は、人々の役に立つ発明や発見は私の成果ではないのですよ。学問は、延々と、一見無為に見える、果てもわからず煉瓦を積み続けるという狂行に取り組み続けた、狂人達の吐き出した物の上澄みなのですよ」
ドロシーの言葉は、フィンには一度には理解できなかった。ドロシーの言い様は間違いなく自嘲していながら、しかして誇る様も確かにあった。
再度、ドロシーの顔を見ることができた。ちらちらと降りる雪と雪の狭間に覗くドロシーの顔は、その表情は生気に満ちているようだった。同時に、フィンの知る限りの言葉では表し尽くせない表情でもあった。
強いて表すなら、ある晩夏、山中で道に迷った日のこと。道を探すべく斜面をとにかく登りに登った先、視界が開けた。木々の壁が一面だけ開けて、山の麓の森が皆足元に見えたあの瞬間をフィンは思い出した。まだ山道に戻れてもいない。状況は解決していない。不安もあるし寂しさもあった。それでも心のどこかで「よかった」と感じていた。もしかしたら、あのときの自分は、今のドロシーと同じ顔をしていたのかも知れない。と、根拠の乏しい推測に、不思議な確信を覚えた。
「どうしましたか。フィン。貴方にはまだ難しい話だったかしら」
いっそ、錯覚なのだろうとフィン自身も考えた。葉を散らし、色彩を寂しくした木々を背景に、彩度の低い色素のドロシーが、その寒々とした世界に光を与えてさえいるようにフィンには見えた。フィンは、ドロシーのことが酷く羨ましくなってしまった。
「いいえ、ドロシーさん。ドロシーさんのお話は理解できませんでした。けれど、ドロシーさんが誇っていることは理解できました」
ドロシーはフィンの意外な返答にたちまち喜び、満面の笑みを浮かべた。
「さあ、村まで戻りましょう。ご案内いたします。今から帰って手配すれば、夕飯には猪が間に合うかも知れません」
ドロシーの足元が木の根が張り出して、不安定な足場になっているのを見て、フィンはエスコートしようと手を差し出した。差し出してから自分の手が傷だらけで強張って、乾きかけの血がじくじくとしているのに気がついた。フィンは手を拭おうと引っ込めようとしたが、それより早くドロシーの泥だらけの手が捕まえた。ドロシーの手は想像していたより柔く、細く、温かだった。
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