冬の一陽

聿竹年萬

文字の大きさ
20 / 71
少年期 大学入学~生活編

(N33)救済

しおりを挟む
 先生は苦しそうに息をしながらこちらを見ていた。その表情は苦しさを抑えながら努めて微笑むようであった。


「先生、どうしたんですか。何かご用が?」


 フィンはすぐに彼女の元に駆け寄る。先生が、僕に用事を、頼みごとをくれるなら難度だって立ち直る。オリヴァントがなんと言おうと、彼女が求めてくれるなら僕はそれだけで堪えられる。


「ううん……。用があったわけではないの」


「――っ。では、何かお困りのことが」


 ドロシーはゆるゆると首を振る。
 フィンは師の手を取る。まだ病に覚束ない彼女を布団まで連れて行かねばと思った。しかし、彼女の肉軆(からだ)は砂袋のように重く、手を引いても動こうとしない。


「フィン、貴方の泣く声が聞こえたから」


 書斎の入口から彼女のベッドまでその距離たっぷり三十歩である。普段ならば然したることもない距離であるが、今の彼女にはそれがどれほど遠いものであったか。




「……なんで」


 なんで僕なんかのために、とフィンが口走るその瞬間のことだった。ドロシーが少年の頭を撫でてそれを制した。


「僕は、泣いてなんかいませんよ……」


 ドロシーのその手は優しく柔らかで、まるで慰めるための手つきに思われ、フィンは己の意気地のなさに唇を噛む。声が震えてしまうのを隠せない。


「辛いときには泣いてもいいのですよ」


 フィンはひととき、息を止め、唇を固く噛みしめる。自分の奥底から何かが溢れようとするのを必死にせき止める。ドロシーの掌だけが無遠慮に頭を掻き乱す。


「ごほっ、ごほっ」


 師の渇いた咳がが響く。ドロシーは肘の内側で口元を覆う。
 呆けている場合ではないとフィンは気を取り戻し、彼女の体を支えながらベッドまで介助する。


 ベッドに横たわらせ布団をかける。彼女の呼吸は忙しなく、一層苦しげである。
 氷嚢の中に魔術で氷を追加する。


「フィン、聞いてください」


 布団の中からフィンを見上げながら弱々しくも芯のある調子でドロシーが言葉を続ける。その行為がどれほどの疲労を伴うものか。


「先生、無理に喋らないでください。よくないです」


 ドロシーの言葉は酷く胸を締め付ける。彼女の言葉が胸に染み入る度に、心の奥底から絞り出されそうになる。やめて欲しい。


「貴方が貴方の望むようになることだけを、それを私は望んでいます」


 ドロシーは腕を伸ばしてフィンの首に手をかけると自分の肩先に引き寄せた。フィンの鼻先は師の肩口に埋もれる。不思議と安心する香りがする。


「貴方が何を望み、何を選んでも、私は……私は貴方を承認しますから。きっと迷わないで」


 フィンはいよいよ涙を堪えかねて身を震わせた。声だけは上げまいと下唇を噛んではいたが、ドロシーは構うことなくフィンの頭を繰り返し撫でていた。


 人に喜んでほしい、という思いは兄に劣り、肉體(からだ)も小さかったフィンに取って、周囲の人へのせめてもの恩返しの思いであった。しかしながらその思いは悲しくも受け入れられず、ともかくも「余計なことだけはしてくれるな」という言葉を生来の素直さで実践してきた。


 師の窮状に自分にできないことはないかと思案しなかった訳ではない。当然、彼は師のためにとあれこれと思索した。しかしながら、「先生に見限られたくない」という気持ちがあまりにも強まってしまった今の彼にとって、指示や許可のない行動がどれほど恐ろしいものかは推して知るほかはない。


 そんな彼に病の身を押して気をかけ、心を尽くしてくれる小さな師の言葉がどれほどの恵みであったかは本人でさえもその全容を計り知れないでいる。


――ようやく、少しは溶けただろうか。


 意識できることも少なく、頭痛と眩暈と皮膚の焼ける痛みに思考の大部分を奪われながらも、ドロシーは自分の肩口が湿っていくのを幾分の安堵を持って感じていた。この後のことを考える余裕などありはしなかったが、とにかくフィンの内から澱が自分の肩口に溶けて落ちていく今この時間が、不思議と愛おしかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜

深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。 処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。 なぜなら彼女は―― 前世で“トップインフルエンサー”だったから。 処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。 空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。 タイトルは―― 『断罪なう』。 王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。 すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、 国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。 そして宣言される、前代未聞のルール。 支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。 処刑台は舞台へ。 断罪はエンタメへ。 悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。 これは、 処刑されるはずだった悪役令嬢が、 “ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。 支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、 それとも――自由か。

断罪後のモブ令息、誰にも気づかれずに出奔する

まる
ファンタジー
断罪後のモブ令息が誰にも気づかれないよう出奔して幸せを探す話

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

【完結】あなたに知られたくなかった

ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。 5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。 そんなセレナに起きた奇跡とは?

処理中です...