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16. ハチミツとレモン
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桐生さんのマンションは、都心を見下ろすタワーマンション。
ドラマに映画、舞台まで。とにかく売れっ子俳優だ。当然だろう。
「何を飲もうか?」
桐生さんは、オレのコートをハンガーにかけると、バーカウンターに入っていく。
ウィスキーのボトルに手を伸ばしかけ、少しだけ迷うようにその手を止めた。
「やっぱり、今夜はこっちだな」
そう呟くと、カウンターの奥から金色の缶を取り出す。
「紅茶、ですか?」
「心が冷えてる時は、強い酒よりこれが効く」
穏やかに微笑むと、ティーポットに茶葉を入れた。立ちのぼる湯気とともに、紅茶の香りがフワッと漂う。
「桐生さん、前にカフェの店長の役も演じてましたね」
「よく知っているね」
カップに薄くスライスしたレモンを置き、その上から紅茶を注いだ。琥珀色の液体がわずかに明るく揺れる。
「仕上げはこれ」
「ハチミツ?」
「いや、魔法の薬だよ」
真面目な顔をして、黄金色に輝くハチミツをカップへ落とす。
オレは促されるまま、ソファに並んで座ると、カップを受け取った。
「さぁ、今夜は紅茶で乾杯だな」
湯気の向こうで、桐生さんの微笑みがやわらかく滲んで見えた。
唇を寄せると、懐かしい甘酸っぱさが舌の上に広がる。
——ハチミツとレモン。
あの日、伊勢と二人で寒空の下で分け合った、あのホットレモンの味。
胸の奥が、静かに締め付けられた。
紅茶の温かさが、涙を誘うように、じんわりと沁みてくる。
でも、それは苦しみや悲しみとは違った。
「……オレ、TOMARIGIを辞めようと思ってたんです」
オレは胸の奥に溜まっていたものを、やっと口にした。
「伊勢くんと湊くんの姿を見るのが、辛かったから?」
「はい。でも、それだけじゃなかった」
「ん?」
桐生さんは少し首を傾げる。
「今日の劇場は、僕と伊勢の思い出の場所なんです」
「へぇ」
「何も無かった頃の自分を思い出しました。キラキラ輝くアイドルになりたいと、ひたすら努力していた。前だけ見ていた頃です」
今では、伊勢と桐生さんのドラマ、続編の映画が続けてヒットしたことから、TOMARIGIの知名度がグンと上がった。
蒼真も、ハイブランドのアンバサダーに就任が決まった。
次のドームツアーは、更なる飛躍につながるはずだ。
「じゃあ、オレは?オレは、TOMARIGIのために何ができるんだろう。足を引っ張るばかりで、自分の価値を見出せない」
桐生さんの瞳が、ゆっくりと細められた。
「だから、辞めようと?」
「はい。でも、桐生さんの演技を見て、そんな考えが変わりました」
紅茶をひとくち飲むと、優しい甘さとほど良い酸味が、心に染みてきた。
「桐生さんみたいに、自分の力で光で誰かを照らしたい。そう、思いました。できない理由を伊勢のせいにして、ただ、自分に甘えていただけだと気が付いた」
桐生さんはカップをテーブルに置くと、オレの髪をそっと撫でた。子供に『いいこ』と褒めてくれるみたいに。
「やっぱり、君はちゃんと自分で前を向ける人だな」
その声は、舞台の照明よりも温かく、深く響いた。
「過去の思い出は消えない。切ない思いは、君を縛る鎖じゃない。苦しみ悩むのは、君が優しい人間である証なんだ」
オレの頬に指先でそっと触れた。そのとき初めて、オレは自分が泣いていることに気が付いた。桐生さんの指先が涙で濡れて光る。
「理久のファンは、君の光に照らされているよ」
オレはただ涙を流した。桐生さんは一粒も逃さないよう、何度も頬を拭ってくれる。
「ついでに言えば、俺もTOMARIGIの片倉理久のファンのひとりだ」
「桐生さん」
「ここは、『翔』と呼んで欲しいな、ベッドの中だけと限定した覚えは無いからね」
そう言うと、オレの頬を両手で優しく包み込んだ。
「翔……」
「うん、それがいい」
桐生さんは嬉しそうに笑った。29歳の年上の男なのに、少年のような笑顔だった。
まるで、伊勢に初めて出会った時のような感覚。
「身体から始まる関係なんて、ダメだと思ってました」
「理久?」
自分の痛みを受け入れること。想いを否定しないこと。心と体に正直になること。
「これは、オレにとって逃げ道じゃない。ひとつの形かもって、思い始めています」
桐生さんは、オレの顎を優しく持ち上げ、瞳を覗き込んだ。
「TOMARIGIを辞めてしまえば、俺との関係は単なる逃避で終わった。だが、君は逃げなかった。俺が理久の心を奪えたならとても光栄だ」
そして、深いキスにオレは静かに目を閉じた。
ドラマに映画、舞台まで。とにかく売れっ子俳優だ。当然だろう。
「何を飲もうか?」
桐生さんは、オレのコートをハンガーにかけると、バーカウンターに入っていく。
ウィスキーのボトルに手を伸ばしかけ、少しだけ迷うようにその手を止めた。
「やっぱり、今夜はこっちだな」
そう呟くと、カウンターの奥から金色の缶を取り出す。
「紅茶、ですか?」
「心が冷えてる時は、強い酒よりこれが効く」
穏やかに微笑むと、ティーポットに茶葉を入れた。立ちのぼる湯気とともに、紅茶の香りがフワッと漂う。
「桐生さん、前にカフェの店長の役も演じてましたね」
「よく知っているね」
カップに薄くスライスしたレモンを置き、その上から紅茶を注いだ。琥珀色の液体がわずかに明るく揺れる。
「仕上げはこれ」
「ハチミツ?」
「いや、魔法の薬だよ」
真面目な顔をして、黄金色に輝くハチミツをカップへ落とす。
オレは促されるまま、ソファに並んで座ると、カップを受け取った。
「さぁ、今夜は紅茶で乾杯だな」
湯気の向こうで、桐生さんの微笑みがやわらかく滲んで見えた。
唇を寄せると、懐かしい甘酸っぱさが舌の上に広がる。
——ハチミツとレモン。
あの日、伊勢と二人で寒空の下で分け合った、あのホットレモンの味。
胸の奥が、静かに締め付けられた。
紅茶の温かさが、涙を誘うように、じんわりと沁みてくる。
でも、それは苦しみや悲しみとは違った。
「……オレ、TOMARIGIを辞めようと思ってたんです」
オレは胸の奥に溜まっていたものを、やっと口にした。
「伊勢くんと湊くんの姿を見るのが、辛かったから?」
「はい。でも、それだけじゃなかった」
「ん?」
桐生さんは少し首を傾げる。
「今日の劇場は、僕と伊勢の思い出の場所なんです」
「へぇ」
「何も無かった頃の自分を思い出しました。キラキラ輝くアイドルになりたいと、ひたすら努力していた。前だけ見ていた頃です」
今では、伊勢と桐生さんのドラマ、続編の映画が続けてヒットしたことから、TOMARIGIの知名度がグンと上がった。
蒼真も、ハイブランドのアンバサダーに就任が決まった。
次のドームツアーは、更なる飛躍につながるはずだ。
「じゃあ、オレは?オレは、TOMARIGIのために何ができるんだろう。足を引っ張るばかりで、自分の価値を見出せない」
桐生さんの瞳が、ゆっくりと細められた。
「だから、辞めようと?」
「はい。でも、桐生さんの演技を見て、そんな考えが変わりました」
紅茶をひとくち飲むと、優しい甘さとほど良い酸味が、心に染みてきた。
「桐生さんみたいに、自分の力で光で誰かを照らしたい。そう、思いました。できない理由を伊勢のせいにして、ただ、自分に甘えていただけだと気が付いた」
桐生さんはカップをテーブルに置くと、オレの髪をそっと撫でた。子供に『いいこ』と褒めてくれるみたいに。
「やっぱり、君はちゃんと自分で前を向ける人だな」
その声は、舞台の照明よりも温かく、深く響いた。
「過去の思い出は消えない。切ない思いは、君を縛る鎖じゃない。苦しみ悩むのは、君が優しい人間である証なんだ」
オレの頬に指先でそっと触れた。そのとき初めて、オレは自分が泣いていることに気が付いた。桐生さんの指先が涙で濡れて光る。
「理久のファンは、君の光に照らされているよ」
オレはただ涙を流した。桐生さんは一粒も逃さないよう、何度も頬を拭ってくれる。
「ついでに言えば、俺もTOMARIGIの片倉理久のファンのひとりだ」
「桐生さん」
「ここは、『翔』と呼んで欲しいな、ベッドの中だけと限定した覚えは無いからね」
そう言うと、オレの頬を両手で優しく包み込んだ。
「翔……」
「うん、それがいい」
桐生さんは嬉しそうに笑った。29歳の年上の男なのに、少年のような笑顔だった。
まるで、伊勢に初めて出会った時のような感覚。
「身体から始まる関係なんて、ダメだと思ってました」
「理久?」
自分の痛みを受け入れること。想いを否定しないこと。心と体に正直になること。
「これは、オレにとって逃げ道じゃない。ひとつの形かもって、思い始めています」
桐生さんは、オレの顎を優しく持ち上げ、瞳を覗き込んだ。
「TOMARIGIを辞めてしまえば、俺との関係は単なる逃避で終わった。だが、君は逃げなかった。俺が理久の心を奪えたならとても光栄だ」
そして、深いキスにオレは静かに目を閉じた。
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