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しおりを挟む目を覚ますとそこは、全く見知らぬ場所だった。
暗くて、黴の匂いが立ち込めている。三方を壁に囲まれ、そして一面だけ鉄格子になっている。冷たい石の床に、自分は倒れていた。
人の気配はなく、辺りはしん……と静まり返っている。
ここは、牢屋と呼ばれる場所ではないか。自分はそこに入れられているのだと気付き、慌ててここに至る状況を思い出そうとした。
けれど、何も思い出せない。記憶が一つも残っていない。自分の名前すらわからない。
自分がどこの誰なのか。家族や友人の顔も。どこで産まれどこで育ちどのように生きてきたのか。そして今、どうして牢屋の中にいるのか。
何一つ思い出せない。
頭の中が真っ白で、何も考えられなくて、ただ呆然と床にへたり込んでいた。
すると足音が聞こえてきた。
「セルマ……っ」
恐らく誰かの名前を呼ぶ、男性の声だ。
顔を上げて鉄格子の向こうを見据えていると、一人の青年が走ってやって来る。
青年と目が合った。すると彼はホッとしたように緊張に強張っていた顔を弛めた。
「ああ、セルマ、良かった……!」
彼ははっきりと、自分に向かって声をかけてきている。でも何も思い出せない自分は彼の事がわからない。
「待っていて、すぐに出してあげるから」
そう言って彼は格子戸に目を向ける。鍵がなかったのか、戸は鎖のようなものでぐるぐるに巻かれて開けられないようになっていた。
彼は鎖の部分に手を翳す。光が放たれ、鎖が音を立てて壊れた。
彼は魔法を使ったのだ。記憶はないのに、誰に教えられる事なく理解する。
解放された扉を開け放ち、青年が中に入り駆け寄ってくる。
「セルマっ……大丈夫? どこか怪我は? 痛いところは?」
青年は美しい顔を蒼白にして、視線を巡らせて体の至るところを確認している。
彼はこんなに自分を心配してくれているのに、彼の事が何もわからない。
申し訳ない気持ちを抱えながら、おずおずと口を開く。
「あの……」
「どうしたの? どこか痛む? 我慢せずに教えて」
「そうではなくて……実は私、何も思い出せなくて……」
「え……?」
「その……記憶がないみたいで……。だから、自分が誰なのかもわからない状態なんです……」
貴方の事もわからないんです……と思いを込めて伝えれば、青年は僅かに目を見開いた。
「覚えてない? 何も?」
「はい……」
「そう……そうか……」
独り言のように呟いて、少しの間黙り込んだ後、青年は冷静に状況を理解した様子で説明してくれる。
「俺はマルクス。そして君の名前はセルマ」
「マルクス、さん……」
「そんな呼び方はしないで。どうかマルクスと呼んで」
熱の籠った彼の視線がセルマをとらえる。
「俺達は夫婦なんだよ」
「えっ……」
今度はセルマが目を見開いた。
「そ、そうだったのですか……っ?」
「ああ」
「す、すみません、私、何も覚えていなくて……」
「謝る事はないよ。たとえセルマが全て忘れてしまったとしても、俺の君を愛する気持ちは何も変わらないから」
マルクスは愛しいものを見るような目でこちらを見つめ、微笑む。彼の視線と言葉に頬が熱くなる。
ぽう……っと彼の顔に見惚れそうになり、しかしすぐに現実に引き戻される。
「でも、ひょっとして私は罪人なのではないですか……? だから牢屋に入れられていたのですよね? こんな事をしたら、貴方も罪に問われてしまうんじゃ……」
「それは違うよ」
マルクスはきっぱりと否定する。
「君は罪人なんかじゃない。何の罪も犯してはいないよ」
「それなら、私はどうしてこんな所に……?」
「実は、俺達の結婚を妬む者がいて……。俺達を引き離そうと君を拉致してここに監禁したんだ。ここはもう使われていない古い監獄で、人が近づかないから監禁場所に選んだんだろう」
「そう、なんですね……」
自分が犯罪者ではなかった事に心から安堵する。確かに壁や床を見るとかなり年季が入っていて、建物自体古いように見える。人の気配がないという事は、看守もいないという事だ。
彼の言う通り、ここは長く放置されている場所なのだろう。
「ごめん、セルマ……」
マルクスは深い悔恨に満ちた表情で謝った。
「俺が君を守りきれなくて……。みすみす君を攫われて、こんな場所に閉じ込められる事になってしまった……。その上、記憶まで失ってしまうなんて……。本当にごめん、セルマ……。こんな不甲斐ない夫で……」
「そんな、謝らないで……。こうして助けに来てもらえただけで充分です。一人で不安だったので、マルクスが来てくれて本当に嬉しい」
小さく微笑めば、マルクスは「ああ……」と感極まったように声を上げる。そして彼はセルマをぎゅうっと抱き締めた。
「セルマっ……君が無事で本当に良かった……」
彼の声は震えていた。本当に自分を心配してくれていたのだと伝わってくる。
今の自分にとって彼は全く知らない相手だ。けれど、こうして強く抱き締められると酷く安心できた。記憶はなくても、彼は信頼できる相手だと、心からそう思えた。
「心配かけてごめんなさい。助けに来てくれてありがとう」
セルマは手を伸ばし、彼の背中をそっと撫でた。
無事を確かめるようにしっかりとセルマを抱き締めた後、彼は名残惜しみつつ体を離した。
「外に馬車を待たせているんだ。さあ、俺達の家に帰ろう」
そう言ってマルクスはセルマを抱えて立ち上がる。
「あの、私、自分で歩けるわ……」
「ごめんね。俺が君を手離したくないんだ。まだ君を自分の腕に抱いていたい」
「っ……」
懇願するように見つめられ、セルマはそれを断れなかった。恥ずかしかったが、彼に抱えられて移動する。
外に出て、そのまま馬車に乗せられた。馬車の中でも彼はセルマを離そうとせず、セルマは彼の膝の上に座っている状態になる。
「あの……辛くない?」
「辛くなんてないよ。こうして君の重みを感じていられる時間が幸せなんだ」
彼は蕩けるように微笑んで、すり……と頬を寄せて甘えてくる。
彼はとてもストレートに思いを伝えてくる。照れ臭くて、でも決して嫌ではない。
自分は妻として、彼に深く愛されていたのだろう。記憶を失くしてしまった不安は大きいが、彼のような夫が傍にいてくれるのならきっと大丈夫だ。
彼の胸に頬をくっつけて、とろりと目を細める。
「セルマ、眠かったらこのまま寝てしまっていいからね」
「ありがとう」
精神的には疲れている。だがまだ興奮状態にあるので眠れそうにはない。
「目を閉じて、リラックスしてごらん」
彼の言葉に従い、ゆっくりと瞼を閉じる。
するとマルクスはセルマに気づかれないよう魔法を発動し、彼女を眠らせた。
セルマは気づかなかった。それから三日間、ずっと眠り続ける事になるのを。三日かけて、その時いた場所から隣国へと移動していた事を。
目を覚ましたセルマが、自分が三日も眠り続けていたなんて、その日の日付もわかっていない彼女が気づけるはずもなかった。
それを利用して、マルクスは敢えて言わなかった。
そして深い深い森の中に彼女を連れてきた。人里離れたこの場所に、ポツンと一軒の家が建っている。
「これが俺達の家だよ」
目を覚ましたセルマと馬車を降り、彼は目の前の家を指してそう言った。
「素敵な家……」
セルマはその家を見て呟いた。
過度な飾り付けはなく、シンプルな家だった。赤色の屋根にクリーム色の壁。森に囲まれているので、メルヘンチックな雰囲気の可愛らしい家だ。
「さあ、中に入ろう」
彼に手を引かれ、家の中へと導かれる。
実はここに足を踏み入れるのははじめてだなんて、記憶のないセルマは思いもしない。マルクスと結婚している自分は彼とここで暮らしていたのだと、そう信じて疑いもしなかった。
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