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大波乱の休日
しおりを挟む扉が開いた瞬間、彼の視線が一度、空を切った。そこに立っているのは、俺だと思っていたはずだった。けれど、彼を迎えたのはフィリオン様。その事実を理解するまでの、ほんの一瞬。彼の表情が、きれいに固まる。
驚きは声にならず、ただ目だけがわずかに見開かれる。期待していた輪郭と違う影を前に、戸惑いが遅れて滲み出る。扉の内と外で、想定していた会話が音もなく崩れていくのがわかった。
「品行方正なロランに遊び人で有名なヒューゴ・ファレルが何の用だい?」
その声は、俺や別の誰かに向けられる優しい声と似ているようで、明らかに違った。
彼は、誰に対しても同じように優しかった。声の温度も、視線の柔らかさも、分け隔てなく差し出す人だった。
だからこそ、その違いは際立つ。彼の目の前にいる男に向けられたその声には、余分なものが削ぎ落とされているような気がした。
「おっと、邪魔しちったか?」
「そうかもしれないね」
いつもより声は低く、短い。丁寧ではあるが、距離を測るような言葉遣いで、感情の居場所を与えない。微笑みもないのかもしれないと思うほどの違いだった。まるで最初から線を引いていたかのように、踏み込ませない態度を怪訝に思う。
俺はベッドから立ち上がり、フィリオン様の背後からそっと顔を覗かせる。バッチリと視線があったヒューゴ・ファレルはニヤッと意地の悪い笑みを浮かべて、俺からフィリオン様へ視線を戻した。
「なーんだ、オレが来なくても進展してたっつーわけか」
「何のことかな。君はロランの部屋を訪ねてくるほどロランと仲が良いとでも勘違いしているのかい?」
「くくっ、まぁ、悪くはねぇよ?おいロランちゃん、また出直すわ。昨日は逃げられちまったからな。例の話について現在進行形で話が進んでんならいいが、息詰まってるんならまた作戦練り直そうぜ」
空気が冷えるのを感じた。 それはおそらくフィリオン様の温度だと俺は思った。あいつの言葉は、確実に彼の神経に刺さっている。この2人は初対面ではなく、俺の知らない微妙な関係性があるのだと容易に察せられるほど不自然だった。
俺に話しかけた夕焼け色の彼には何の言葉も返せず、ひらりと振られた手の残像だけが残る。フィリオン様の手によって閉じられた扉と共に、彼が振り返る。振り返った彼の顔は、いつもと変わらないはずだった。
口元には薄い微笑みがあり、態度も落ち着いている。けれど、その整えられた表情の奥で、別の感情が息を潜めているような気がした。視線が一瞬だけ鋭くなり、すぐに柔らかさを装う。その切り替えの速さが、かえって違和感を増した。
「あの男は部屋を訪ねてくるほど仲が良いのかい?昨日の朝、あまり近付かないよう忠告したはずだったけれど遅かったのかな」
「い、いえ!部屋を訪ねてきたのなんて初めてですし、そもそも会話をしたのも数日前が初めてで全く仲良くありません!俺も彼には迷惑してるんです」
「なるほど。それは可哀想に。ロランちゃん、なんて親しげに呼ばれているから誤解してしまったよ。すまないね」
「こちらこそ忠告をして頂いたのに申し訳ありません。それにしてもなぜ彼は俺の部屋を知っていたんでしょうか…?」
「その疑問は私にも刺さるね。私は同室者のピートくんと食堂で会ってロランのことを聞いたら部屋で憂鬱にしていると教えられたんだ。彼に部屋番号を聞いてやって来たのだけど、あいつはもしかしたら不当な方法で部屋番号を知ったのかもしれない。危険な人物だから」
「そ、そんなにやばい奴だったんですか」
フィリオン様が危険人物だとはっきり言うのなら相当な危険人物なのかもしれない。あの飄々とした態度と野性的な荒々しさは珍しいものの、そこまで危険視していなかった俺は表情を強張らせた。
「つかぬことをお聞きしますが、フィリオン様は彼とお知り合いなんですか?」
「知り合いというほどでもないが、彼の男爵家と我が伯爵家は昔から仕事の取引関係にあってね。子供のときから数えて何度か、正式な社交場で顔を合わせたことがある程度だ」
「そうなんですね…」
それにしてはフィリオン様の彼に対する言葉や声は棘が深すぎたような気がする。俺を心配してくれたからなのか、俺には言えない何かがあるのか。
気になるがフィリオン様の言葉を鵜呑みにするのならば考えても仕方のないことだとかぶりを振った。
彼はしばらく口を閉ざした。視線を伏せ、胸の奥で言葉の重さを確かめるように、長い沈黙を置く。その間、周囲の空気は張りつめ、俺は次に落ちてくるものを待っていた。
「ねぇ、ロラン」
「はい」
「君にこれだけは伝えておきたい」
やがて、彼は重々しく口を開く。低く抑えた声は、ためらいと覚悟を同時に含み、言葉ひとつひとつが慎重に選ばれているのがわかる。軽々しく発せば壊れてしまう何かを、両手で扱うような話し方だった。
「俺は将来、君に私の家令になってほしいと思っている」
「…!?」
その言葉は、前触れもなく投げ込まれた。意味を理解するより先に、胸の奥が跳ね、思考が一拍遅れる。耳に届いたはずなのに、現実感が追いつかず、しばらくの間、音の余韻だけが残った。
驚きは声にならない。息が止まり、視線だけが相手を捉える。何か返さなければと思うのに、言葉が形を失って散っていく。さっきまで確かだった世界の輪郭が、ほんの少し歪んだ。
「今…な、んて…」
「立派な家令を目指している君を、私の家令にしたいと言ったんだ」
やがて、遅れて理解が追いつく。その瞬間、胸の奥に別の感情が重なり、驚きは確信へと変わる。瞬きを余分に繰り返し、瞳は意味もなく右往左往動く。
驚きと動揺を隠せない俺の両肩に手の重みをのせた彼は、少し身をかがめて俺と視線の高さを合わせると、もう一度言い聞かせるように言った。
「君を家令として伯爵家に迎えたい。だから、付き合う人間は厳選しなければいけないんだ」
3年前、ぼんやりと家令を目指していた俺の目標は、フィリオン様の家令になりたいというはっきりとした夢に変わった。
無事に家令科に進むことができ、専門的なことを学び初めてから早8ヶ月。卒業試験までまだ3年と数ヶ月は学ぶべき未熟な俺を、彼はすでに家令に迎えようとしてくれている。
その事実が驚きに引きずられて嬉しさを呼ぶと共に、不安と困惑、そして疑問も引き連れてきた。
「た、大変光栄なことだと存じておりますが、な、なぜこんな俺なんかをあなたの家令に…」
「私は人を見る目を養ってきた。君の勉強家なところや決して時間を無駄にしない一面、何より商人家で培われた礼儀作法は素晴らしいものがある。私の言葉にも忠実で将来、伯爵家当主となったら君にそばで支えてもらいたいと思ったんだ」
「も、もったいないお言葉でございます…っ」
「君はきっと立派で優秀な家令になる。この学園を卒業したらすぐにでも伯爵家に迎えたい。返事は今すぐにでなくていいから、考えておいてくれ」
「は、はい…!」
本当は嬉しすぎてすぐにでも頷きたいのに、夢を叶えるチャンスが目の前にある興奮からただ頷くことしか出来なかった。
「それじゃあ、私は失礼するよ。今日の夕食はしっかり摂るように。君が倒れたりなどしたら私がひどく心配することを覚えておいてくれ」
「は、はい…!」
軽くパニックを起こしている俺の頭をふわりと撫でて微笑みながらそう言った彼は、静かに部屋を出ていった。
俺は全身の力が抜けたようにふらりとベッドに倒れこむ。腹の中が空っぽになった感じがするうえに、心臓の鼓動がいつもより速く、脈を打つたびに血液が送り出される音が耳の中で大きく響く。
いつの間にか窓に映る色は暗い。風が雲をどこかへ連れ去ったらしく、月が部屋の中を冷たく見下ろし、ベッドから数十センチ先の床に長方形の光を映し出していた。
次々と波乱が起こった休日の終わりに取り残された俺は、ピートが部屋に戻ってくるまで意識をはるか彼方に飛ばしていたことにすら、気付かなかった。
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