俺の好きな人は誰にでも優しい。

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静かに火花を散らす2人の会話

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 扉が叩かれた。木が震え、空気が一瞬張り詰める。そのリズムは乱暴で、相手が感情を抑えきれずにいることを雄弁に物語っていた。
 胸の奥に、ざらりとした予感が広がる。ただの訪問ではない。あのノックには、苛立ちと焦燥、そして抑え込まれた怒りが混じっている。言葉を交わす前から、すでに衝突は始まっているような錯覚を起こした。
 再び響く音は警告のようでもあり、感情の噴出口のようでもあった。扉一枚を隔てた向こう側で、怒りが呼吸をしている。

 敵が多そうな夕焼け色の男のことだ。また彼氏持ちの女性を寝取り、それを知った彼氏が喧嘩を売りに来たのかもしれない。
 男爵家とはいえ、貴族の彼に喧嘩を売れるのなら、相手は格上の貴族の可能性が高い。これからこの部屋で修羅場が始まりそうな予感に、逃げ出すタイミングを慎重にはかろうと決めた。
 目の前の男に何事かと視線を投げ掛けると彼は一瞬、視線を伏せたかと思うと唇の端をわずかに歪めた。

「チッ…見つかったか」

 次の瞬間、乾いた舌打ちが静かな部屋に落ちる。大きな音ではない。だが、その短さと鋭さから苛立ちが十分に伝わってくる。
 今の言葉はどういう意味かと尋ねる前に、目の前の男は入り口の扉へと向かう。その背中を、何が起こるか分からない不安を抱えながら見つめた。

 がちゃり、扉の開く音が響く。身長が高く体格も大きい男の背中が入り口を塞ぎ、相手の顔は見えない。しかしすぐに答えは俺のもとへとやって来た。

「ロランがいるよね?迎えに来た。入らせてもらうよ」
「勝手に入んじゃねぇよ、仮面野郎」

 その声が耳に届いたとき、腹の底でざわめきが生じた。不安の中に緊張と衝撃の波がひと立ち起こる。
 ヒューゴ・ファレルの肩を押し退け、家主より先に部屋に入ってきたのはフィリオン様だった。
 さっきの扉を叩く音と彼がうまく繋がらず、頭が混乱する。ソファから立ち上がり、逃げ場のない部屋の中で逃げ場所を無意識に探していた。

 普段の彼を思えば、その表情はあまりにも異質だった。穏やかで、常に優しさを湛えていたはずの顔から、柔らかさが完全に消えている。感情を押し殺したような目が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
 言葉を発するより先に、彼は距離を詰めてきた。強くも弱くもない、だが拒む余地を与えない力で、俺の腕を掴む。その手の感触に、思わず息が詰まる。

「帰るよ」

 低く短い声には、普段の優しさの温度がなかった。
 彼はそのまま踵を返し、俺を引くようにして部屋を出ようとする。抗う間もなく、足が前へと運ばれる。
 何が彼をここまで変えたのか。その答えを問う暇すら与えられないまま、俺はただ、見たことのない彼の背中を追わされていた。

 しかし、扉の前に腕組みをして出口を塞ぐように佇む男に歩みを止められる。切れ長の目から鋭い眼光を放つ男を、背を向けている目の前の彼はどんな表情で迎え撃っているのか。
 知りたいような知りたくないような、複雑な気持ちを抱えたまま、俺は何も言えず2人の対峙を見守るしかなかった。

「彼が世話になったようだ。そこをどいてもらえるかい?」
「気持ちわりぃな。わざわざ俺との会話にまで仮面をつけるのは、ソイツがいるからか?」
「何のことかな。悪い噂しかないお前の部屋にロランがいては、彼も変な目で見られかねないからね。早々に退散させてもらうよ」
「オレの部屋をどうやって知った?あんたに知られねぇように気を付けていたつもりなんだがな」
「やはり私からロランを隠そうとしたのかい?そろそろ私へ嫌がらせをしようとするのは止めたらどうだい?お前も来年には医学科に進むのだろう」
「オレはソイツを気に入った。だから熱を出したソイツを看病した。それだけだ。あんたは関係ねぇ」
「それなら尚更この子と君を関わらせるわけにはいかないね」

 俺は目の前で繰り広げられている会話を唖然として見ていた。2人の男は声を荒らげることもなく、静かに言葉を交わしている。
 低く抑えた声と、間を置かず放たれる言葉。そのやり取りは穏やかに見えて、どこか刃を隠しているようだった。
 言葉がぶつかるたび、空気がわずかに軋む。怒鳴り合いではないからこそ、かえって緊張が濃い。どちらも引く気はないらしく、落ちる言葉ひとつひとつが重く、床に積もっていく。

 フィリオン様が男を「お前」と呼んでいる衝撃から俺は口を挟むこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。
 2人の間に飛び散る火花をさりげなく感じながら、自分がこの場では完全な傍観者であることを、否応なく思い知らされていた。

 どう考えても彼らの会話からは深い因縁のようなものを感じる。2人の男の間にはただならぬ何かがあるらしい。
 ヒューゴ・ファレルが俺に近付いてきた理由にも疑念が生じる。彼の言っていた変態的な理由ではなく、もっと重く泥々しいものがありそうな予感が凄い勢いで膨らんでいく。

「ロランにはつい昨夜、お前と会うことも話すこともしないと約束させたはずなんだけどね」
「別のことに気を取られてて覚えてねぇんじゃねーか?そんな素振り全くなかったぜ」
「おかしいなぁ…私の家令になるなら私の言うことはすべて厳守してもらわないと安心できないのに」

 そんな約束をした記憶は頭のどこを探してもない。婚約者の件がショックすぎて、その話以降の記憶が朧気だが、その中にあったのだろうかと青ざめる。

「あんたの言いつけを守れねぇヤツなら家令にするのはやめたらどうだ?ソイツが失業しちまうから、オレの家令として使ってやるよ」
「それは必要ないよ。これから躾ればいいだけの話だからね。彼は私の家令として生きるんだ。死ぬまで」
「あんたの本当の顔を知らないソイツを一生飼い慣らすつもりかよ。騙されて可哀想になぁ?」
「騙してなんていない。お前と違って。頑張るこの子を、貴族でありながら遊び歩き、敵も多いお前の家令になどさせないよ」

 2人の男の会話は、最初こそ抑えられていた。だが、次第にその均衡は崩れていく。語尾が強くなり、間が短くなり、怒りを溜めるためのものに変わっていく。
 会話が鋭くぶつかるたび、空気が熱を帯びる。言葉は刃のように研がれ、相手の核心を抉ろうとしているのが分かる。声量はまだ抑えられているのに、その場に満ちる圧は、逃げ場を失わせるほどだった。

 俺はその只中で、どう振る舞えばいいのか分からずにいた。割って入るべきか、黙って見守るべきか。
 頭の中で考えは巡るのに、身体は動かない。2人の間で膨れ上がる感情に飲み込まれ、状況を理解しきれないまま、ただ混乱だけが深まっていった。

「チッ…まぁ、ソイツはまだ病み上がりだからな。早く落ち着く自分の部屋に戻って休ませるべきだな。あんたはソイツの休息を邪魔すんなよ」
「もちろん無理させるようなことはしない。お前がこれ以上この子に干渉するつもりなら、私にも考えがある。学園で医学を学びたいのなら大人しくしておくことだね」
「命令の次は恐喝か。おいロランちゃんよ、コイツの正体を知っちまってもオレの好きな目は失うなよ」
「……」
「お前とは話したくもないようだ。私たちはこれで失礼するよ」

 ずっと掴まれ続けていた腕を今度こそ確かに部屋の外を目指して強く引かれた。夕焼け色の男が直角に体を動かし、扉の前を開ける。
 壁に背をつける彼の目の前を通り過ぎる直前、ちらりと男に視線を向けると彼はニッと両方の口角を上げて口を小さく動かした。

『またな』

 音は出さず口の動きだけで伝えてきた言葉に軽く会釈だけを返して俺はフィリオン様に引っ張られるがまま、ヒューゴ・ファレルの部屋を後にした。

 フィリオン様は何も言わなかった。ただ、無言のまま俺の腕を掴み、そのまま歩き出す。指先に込められた力は強すぎず、だが逆らう余地を与えないものがあった。
 足音だけが廊下に響く。問いかけも、説明もない。その沈黙がかえって重く、胸の奥を締めつけた。
 彼の背中はまっすぐで、振り返ることもない。何を考えているのか、どこへ向かっているのかも分からないまま、俺は彼の背中に続くしかなかった。
 腕越しに伝わる体温と、言葉を拒む沈黙。そのすべてがこれから起こる何かを物語っているようで、恐怖に震えた。

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