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大きな借りを作ってしまった
しおりを挟む次に目を覚ましたとき、視界に入り込んだ光が、やけに澄んで見えた。体のだるさは消え、額に残っていた熱も嘘のように消えている。布団の中でそっと息を吸うと、胸の奥まで空気が通り、身体が軽かった。
夢と現の境目にあった不安は、眠っている間にすべて洗い流されたのだろう。俺はいつも通りの調子を取り戻していた。
見慣れない殺風景な部屋に、あの男はいなかった。額に重みを感じて手で探ると、湿った布巾の感触。彼がやってくれたのだろうかと胸を痒くさせながらそっと手に取り、ベッドの脇にあるチェストの上に置いた。
今何時だろうかと時計を探すために、ベッドから下りる。そっと扉を開けてその先をのぞくと、まず目に入ったのは炎だった。
部屋の中央で暖炉の火が低く燃え、薪の弾ける音が規則正しく響く。小さな煙とともに漂うのは、鉄と蝋燭、乾いた木の匂いだ。
窓には厚手のカーテンがかかり、外の冷気と喧騒を完全に遮断している。
その暖炉の前に置かれたソファに男は腰を下ろしていた。張り地は上質すぎるわけでもなく、かといって安っぽさを感じさせることもない。
長年使われてきたのだろう、肘掛けにはわずかな擦れがあり、座面は人の体温を覚える程度に柔らかく沈んでいた。
男は深くも浅くもない姿勢で背もたれに身を預け、片腕を無造作に肘にかけている。組んだ膝の上に乗せた医学書らしき本を武骨な指で捲るその佇まいには飾り気はないが、落ち着いた余裕が滲んでいた。
その姿はここが仮の場所ではなく、彼にとって「居場所」であることを語りかけている。
それは一枚の絵画のようで、俺は初めて夕焼け色の彼が本当に貴族なのだと理解した。
なぜか、かけようとしていた声が出なかった。目の前の男が、全く知らない人間に見えたからかもしれない。
しかしすぐに本に注がれていた彼の視線が俺に気付いて捉える。片眉を上げて怪訝そうな表情を浮かべた彼は、本をパタリと閉じるとソファから立ち上がって俺の元まで近寄った。
「なんだ、起きたのか。調子はどうだ?熱は…引いてそうだな」
迷いない素振りで手がこちらへと伸び、俺の額の温度を掌ではかる。心臓が変な動きをしたような気がして、俺は半歩後ろに下がってその体温から逃げ出した。
「あ、の……ありがとうございました。看病して頂いたみたいで」
「この貸しは高くつくぞ。オレのお手製粥まで食わせてやったんだからな」
「あれ本当にあなたが作ったんですね…美味しかったです。それで今って何時ですか?講義は…」
「もう放課後だっつーの。あんたは風邪で欠席扱いにしてもらってるから安心しな。失くした鍵も見つかったらしい。あとで同室者から受けとれ」
「良かった…ありがとうございます」
朝だったのにもう放課後になっていたらしい。半日あのベッドで眠りこけていたのかと驚くが、半日で熱が引いた自分の健康体も中々のものだ。
ソファに座らされ、この部屋に来た経緯を彼は説明する。やはりこの部屋はヒューゴ・ファレルの部屋で同室者はいないらしい。
日課である朝のランニングに行こうとして、すれ違った生徒が3階の廊下で寝ている子がいると言っていたのを聞いた彼はまさか、と思い念のため確認しに行くと、俺が赤い顔で倒れるように寝ていた。すぐに熱を出していると気付いた彼は、看病しやすい自分の部屋に俺を運んだという。
同室者であるピートには寮の管理者に事情を伝えるよう任せ、家令科の講師にも話はついているというのだから彼には多大な恩が出来てしまった。
「んで、何であんな朝早くに部屋の前にいたのか教えろ」
その声に否とは返せない圧があった。ここまでしてもらったのだから羞恥心を圧し殺して経緯を説明する。
冬の朝の中を散歩するきっかけとなった、昨夜のフィリオン様との会話も話すはめになり、俺の心が痛みをぶり返す。
それと同時に、フィリオン様の婚約者候補はすでに決まっているのだから彼が提案した策は頓挫したことも話した。彼が言った「良い考え」を実行する理由はもうない。
「へぇ。やっぱりアイツ、根回ししてやがったのか。まぁでも、作戦は実行するぜ」
「え、何でですか?そもそもあなたの言ったことを実行する意味も分からなかったですけど。やれば事が大きく動くとか何とか言って、やっぱり俺を騙してたんじゃないんですか?」
「ちっげーよ。オレは熱を出したあんたを看病してやるほど実は優しい男なんだぜ?」
「それは確かに感謝してますけど…」
やはり彼に助けてもらったのはまずかったかもしれない。大きな借りを作ってしまい、今後何度でも今回のことを持ち出されて言いくるめられる気がしてきた。
「アイツが婚約者を自ら探してこの学園に転入させるのは誤算だったがな。まぁ、アイツが留学する可能性がほぼなくなったのなら、良かったじゃねーか」
「…それはそうですけど」
「家令になる約束は取り付けたんだろ?なら、将来のあんたは今よりアイツの近くにいれるってことだ。あ、恋心は捨ててくれるなよ。まっ、あんたが捨てようとしても捨てられなさそうな恋だと思うけどな」
「俺の気も知らないで…」
軽々しく分かったように言う男に、助けてもらったとはいえ苛つく感情は抑えられない。
膨れる頬を隠さずじとっとした目線を送ると、彼はまたおもしろそうなものを見つけたような、意地の悪い笑みを浮かべた。
「その顔もおもれーな。学園を卒業したら夢が叶うんだろ?喜ぶべきじゃねぇの?」
「それは確かにとっても嬉しいですけど…俺はまだ覚悟が足りていなかったみたいで。フィリオン様が婚約者を見つけてきたということにショックを受けている自分にショックを受けたくらいです」
「恋っつーのは難解でめんどくせーんだな。あんたを見てる分にはおもしれぇけど経験したくはねーな」
「あなたには一生分からないと思いますよ。人を好きになることがどんなに苦しいことなのか」
「分かりたくもねぇよ。オレはあんたの熱い目とおもしれぇ顔さえ見れれば、満足だからな」
「…変態め」
「くくっ、真っ向からそう言うのはあんただけだ」
この男にはどんな嫌味も悪口も、暖簾に腕押し状態になってしまう。恋に苦しむ俺を見て楽しんでいる男を許せないと思うのに、彼の存在にどこか救われている自分もいて悔しかった。
夕焼け色の彼は一人掛けのソファから立ち上がり、俺の座るソファの前まで来るとずいっと顔を近付ける。
そして、お決まりの片方の口角をくいっと上げた笑みを浮かべながら、犬歯をのぞかせて言った。
「約束通り、あんたはパーティーでオレのパートナーとしてダンスを踊ってもらうぜ」
その声が暖炉の中で爆ぜる薪の音に重なったとき、また別の音が上に覆い被さってきた。部屋の扉を強く叩く、分厚い音だった。
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