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恋を殺していく
しおりを挟むどんよりと曇った灰色の空から降る氷雨に打たれ、心なしか学園全体が薄汚れて見える。雨が雪に変わったのなら美しかっただろうにと思いながら、図書室への道順を進む。
あれから1週間がたった。俺はひたすらに、フィリオン様との約束を守るため、ヒューゴ・ファレルから身を隠し続ける日々を送っている。
ピートによると、どうやら彼は俺に接触を試みようとあの手この手で俺の居場所を聞き出そうとしてくるらしい。
ピートだけではなく家令科の生徒にも話しかけ俺のことを聞くため、もっぱら俺がヒューゴ・ファレルの怒りを買って探されているとの噂が立ち始めているとのことだった。
フィリオン様は最初から彼と関わると嫌な噂が飛び火するかもしれないと指摘していた。彼の言う通りだった、もっと早く言葉を交わさないようにするべきだったという後悔が広がり続けている。
この1週間で、大きく変わったことがもうひとつ。
俺の寮部屋を知っているヒューゴ・ファレルが部屋に突撃してきても会わないですむようにというフィリオン様の気配りから、俺はフィリオン様の部屋に身を寄せるようになった。
いつの間にか俺が彼の部屋に一時的ではあるが移動する形で寮の管理者と話はついており、衝撃と不安でひっくり返りそうになったものだ。
さすがにそこまで迷惑をかけられないと断ろうとしたが、こうしなければフィリオン様が安心できないと言われてしまえば俺は言う通りにするしかない。
一度、故意ではないとはいえ、フィリオン様の言い付けを破ってしまったのだから彼に信頼されないのも無理はない、と思いつつも、家令を目指す者として信頼されていないのは悲しい以外の何物でもなかった。
とはいえ、好きな人と同じ部屋で過ごすという棚からぼた餅状態を掴んだ俺。
扉を開けるたび、そこに彼がいる。それだけで胸の奥が温かくなり、寮の同じ部屋で過ごす日々は、あたたかな幸福に満ちていた。
朝の光を分け合い、何気ない言葉を交わし、夜には同じ天井を見上げて眠りにつく。特別なことは何もないのに、そのすべてが愛おしい。
もちろん小さめのベッドを急遽、彼の部屋に運び込んで用意を整えてくれたため、一つのベッドで共に眠っているわけではない。しかし好きな人と同じ部屋で過ごしているという事実が、毎日を確かな幸せへと変えていた。
最初こそ好きな人の隣のベッドで眠るという今までではあり得ない状況にドキドキして寝不足になったものだ。たとえベッドは別々でも、彼の寝息が聞こえてくる部屋はあまりにも特別感に満ちている。
彼の裏の顔なんて知らない方がいい、むしろそんなものはなかったのではないかと思うほど、彼は毎日俺に惜しみない優しさを与えてくれた。
机に置かれた温かい飲み物、疲れた様子を見て差し出される椅子、何気なく掛けられる気遣いのひと言。
そのひとつひとつが胸に積もり、俺は知らぬ間にこの非現実的な日常に癒しを感じるようになっていた。
言葉にするほどでもない優しさを毎日そっと置いていく彼と過ごす部屋はどこまでもあたたかく、いつまでもこんな日々が続くのではないかと俺を錯覚させた。
だから、すっかり忘れていたのだ。彼が見つけてきた婚約者候補が、この学園に転入してくるということを。
***
その日、部屋で朝食を摂りながらフィリオン様がふと顔を上げた。
彼が食堂に現れなかった理由は、毎食部屋に食事を届けてもらっていたからということを知ったのも、同じ部屋で過ごすようになってからだ。
学園の高嶺の花である彼が全生徒が集まる食堂に姿を現すと騒ぎやいさかいが起こる可能性を考慮し、学園から特別に許可を得ているらしい。
部屋の中央に据えられた重厚な木の机。磨かれた天板には控えめな装飾が施され、窓から差し込む朝日が照らしている。
その机を挟んで俺たちは向かい合って皿に盛られた食事を口に運んでいたが、彼の次の言葉はその動きを止めた。
「そういえば、今日なんだ。例の婚約者候補のご令嬢が転入してくるのは」
「……え?」
「隣国の女学院からわざわざ転入してきてくれる方でね。私も文書のみでやり取りをしていたから正式にお会いするのは初めてなんだ。少しばかり緊張するから、私の未来の家令として彼女との昼食に同席してくれるかい?」
彼の言葉が耳に届くと、足元の床がふっと消えた気がした。音も光も遠のき、思考だけが空白に沈んでいく。
「…ロラン?」
名前を呼ばれて、はっと我に返った。慌てて視線を上げ、掠れた声で返事をする。そのときになって初めて、自分がどれほど深く衝撃を受けていたのかを思い知った。
「も、もちろんでございます!俺でよければ同席させて下さい。フィリオン様の……未来の、正妻になられるかもしれないお方に、ぜひご挨拶をさせて頂きたいです」
「良かった。君のことは彼女にも文の中で伝えてあるんだ。彼女も楽しみにしているそうだよ」
「…俺も楽しみです!フィリオン様の選ばれた方なのですからきっと素敵な方なのでしょうね!」
「素敵かどうかは会ってみないと分からないが、仕事が出来る女性であることには間違いないと思うよ」
「優秀な方なのですね!俺も仕えるのにふさわしい優秀な家令になれるよう、さらに頑張らなくては!」
「ふふ、期待しているよ」
上手く、笑えているだろうか。上手く、取り繕えているだろうか。
思考が真っ白になり心だけが置き去りにされているのに、言葉は舌の上を滑る。不自然なほど、饒舌に。
「あれからヒューゴ・ファレルと接触はしていないよね?困ったことなどもないかい?」
「いえ、全くございません。こうしてお部屋に匿って頂いているので会うこともないです。ピートは問い詰められたりしているみたいで可哀想なんですが…」
「彼なら上手く切り抜けられるさ。それにしてもまだ諦めないとは、あの男のしつこさには困ったものだね」
「本当に。いつまでもフィリオン様のお部屋でお世話になるわけにもいきませんし…まだピートしか知らないとはいえ、他の生徒たちにこの事を知られたら反感を買ってしまいます。俺はそれが何よりも怖いです」
「安心して。私がそんなことはさせないから。君は私の家令になるのだから、堂々としていればいいんだよ。この部屋にもあの男が諦めるまででなくても、いつまででもいてくれていい。ロランが部屋に来てくれてからとても調子がいいんだ」
「それならお言葉に甘えてもう少しお世話になります。早く彼が諦めてくれるのを待ちましょう」
「そうだね」
胸の奥が軋むのを悟られまいと、俺は空元気な笑みを作って会話を続けた。声は普段と変わらない調子を保っているはずなのに、言葉を紡ぐたび、恋情が内側で静かに痛んでいく。
それでも視線を逸らさず、何事もないふりを貫いた。苦しさを飲み込み、感情に蓋をしたまま、とにかく彼の前では、平静でいようとした。
彼との身体的な距離は近付いた。今日は会えるだろうかと彼の姿を五感すべてで探し続けていた日々が嘘のように、今はこんなにも近くにいる。
けれど距離が近付けば近付くほど、想いは近づけず、近づけないと知るほどに恋は深く根を張っていく。彼から俺へ、あたたかな優しさは常にあれど、恋情の欠片などは見えてこない。
当たり前だ。彼には彼が決めた婚約者候補がいて、彼女との未来を思い描いているのだから。
彼の隣に立つのは彼女であり、決して俺ではない。俺は家令として、彼の斜め後ろに立つ人間だ。それだってひどく贅沢なことなのに、これ以上を求めるなんて強欲にもほどがある。
「ロランは私の家令として、生涯私のそばにいると約束してくれるよね?」
「もちろんです。有り余る僥倖ではありますが誠心誠意、お仕えさせて頂きます」
「君がそばにいる未来を思うと、ひどく安心するよ。私以外の家令になど、絶対にさせないからね、ロラン」
「フィリオン様以外の家令になるつもりなどございませんよ」
そろそろいい加減、諦めなければならないのだと理性が告げていた。失恋したと分かっていたはずなのに、いつまで行き場のない恋心を抱えている気なのか。名前を呼ぶ声に応えながら、心の奥では別れの準備を始めている。
その矛盾が痛くて、恋は叶わぬまま、ゆっくりと胸の内で息を殺していった。
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