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隣国からやって来た婚約者候補
しおりを挟む案の定、その日の学園内は朝からざわめきに満ちていた。廊下でも講堂でも、囁き声が波のように行き交う。
高嶺の花である彼に、婚約者候補がいる――しかもその人物が転入してきたという話は、瞬く間に広がり、好奇と動揺を含んだ声があちこちで囁かれていた。
噂は尾ひれをつけながら膨らみ、学園の空気そのものを落ち着かせないものへと変えていく。
俺はいつもフィリオン様より早く部屋を出て、誰にも見られないようにこっそりと普通は使われない外階段から下りて寮を出ている。今日もその構図は崩さず、誰よりも早く家令の講義室へと入っていた。
家令科の講義室まで来てしまえば、基礎学年のヒューゴ・ファレルは追ってこれない。
それぞれの学科ごとに講義室は分かれており、入り口には警備員がいる。家令科の生徒であることを証明する学生証を見せなければ通してもらえないのだ。
これは、学科ごとに他学科や基礎学年の生徒には知られてはいけない資料や書物が置いてあるためだ。その学科の生徒も持ち出しは不可であり、万が一の紛失を防ぐための対策だった。
つまりヒューゴ・ファレルが俺と接触をはかるには食堂や図書室、寮や学園内の廊下を狙うしかない。
フィリオン様の部屋に移ってからは食堂には行かず、三食を彼の部屋で彼と共に摂っている。まさに夢のような時間だ。
寮の大浴場という手もあるが、貴族の部屋には簡易風呂があるし、そこで事足りているため大浴場には近付いてすらいない。
そして俺が図書室で勉強をする習慣があることをすでに知られているため、朝早くの勉強もやはりフィリオン様の部屋でしている。
彼を起こさないよう、明かりを絞っている中の勉強は少しやりづらいが、これ以上の贅沢は言っていられない。今のところ家令科の筆記試験では1位を取ったことはないものの毎回上位3人の中には入れているし、その成績を落とすわけにはいかないのだ。
ヒューゴ・ファレルにフィリオン様の部屋の場所が知られていないからこそ、今の環境がある。たとえ知られたとしても寮の最上階は限定された者しか入れないようになっているから安心なのだ。
そしてフィリオン様の婚約者候補が転入してきた今日、俺は背筋に細い糸を通されたような緊張感を持って昼食の席に着いていた。
講義が終わると同時に誰よりも早く講義室を飛び出し、寮の最上階へと外階段を使ってやってきた。
下りはすべて外階段を使うが、毎回10階分も階段を上っているわけではない。そんなことをしていたらあっという間に使い古した道具のような体になってしまう。
紐を引っ張ることで動く箱形の乗り物が寮内にはある。1階は誰でも入ることが出来るため、1階の箱には乗らない。夕焼け色の彼と出くわすのを避けるためだ。
3棟ある寮のうち、すべての棟の1、2階は基礎学年の生徒の部屋で埋まっている。俺も基礎学年の時は3年間ずっと1階の寮部屋だった。ヒューゴ・ファレルもどこかの棟の1階か2階に部屋があるはずだ。
学科生徒になると、部屋の階数が上がる。3棟のうち2棟は家令科は3、4階、騎士科は5、6階、医学科は7、8階、規定人数が決まっている神学科と貴族科は神学科が9階、貴族科が10階となっている。
残りの1棟は1階から4階までが基礎学年となっており、5階から10階はそれぞれの科で実家が高位貴族である生徒と実技と筆記で最も優秀な成績をおさめている生徒たちが1人部屋を獲得している。フィリオン様の部屋があるのもこの棟の最上階というわけだ。
しかしピートのように例外もある。彼はかなりの神経質であり、3年間同部屋だった俺以外と同じ部屋になるのは無理だと寮の管理者に訴えた。
確かに靴下を間違えて履いたくらいで1週間根に持つやつだし、俺が物音を立てて眠りを妨げようものなら部屋を追い出される勢いで怒られたこともある。
俺は彼に慣れていったとはいえ、新しい同室者に同じことを慣れさすのは確かに苦かもしれないと思っていたところ、例外で俺とピートは家令科の階で同部屋のままが許された。
しかし現在、フィリオン様の部屋に一時的とはいえ俺が移動しているため、彼は悠々自適に1人部屋を満喫していることだろう。
ヒューゴ・ファレルの部屋はフィリオン様の部屋がある棟とは別の棟にあるということは分かっているが、基礎学年の生徒が一番多く出入りするこの棟の1階に姿を現すわけにはいかない。だから1階から外階段を使って5階まで上り、5階から動く箱に乗って10階まで上がっている。
5階から上へと上る箱の前で紐を引く係の用務員に学生証と部屋番号を見せなければ乗せてもらえないため、どう頑張ってもヒューゴ・ファレルは10階にはやってこれないのだ。
そんなこんなでようやく慣れてきた道順で、昼休憩に入る鐘が鳴った瞬間フィリオン様の部屋にかけ戻ってきた俺は、まだ誰もいない部屋の中で今朝、座って待つよう言われた言葉の通り、椅子の上で縮こまっていた。
隣国の公爵令嬢である彼女は当たり前のように貴族科へと属すだろうが、同じ階に住むのだろうか。
正式に婚約者となったら、フィリオン様とは交流を深めるため頻繁にこの部屋でお会いすることになるのだろうか。
そしたら俺は邪魔をしないよう、空気のように気配を消して、家令として呼ばれたときに何でもご要望を叶えられるようにならなければいけない。
まだ捨てきれない、確実に殺せていない恋心を持ちながら上手く出来るだろうか。
そもそもこれからの初対面で、彼女に失礼がないよう、嫌われることがないよう、振る舞えるだろうか。
焦りや緊張、そして彼への下心をうまく隠して彼女と話すことが出来るだろうか。
不安はひとつふたつでは終わらなかった。思考の隙間を見つけては、次々と押し寄せ、胸の内に影を落としていく。
振り払ったはずの不安が形を変えて戻り、息をつく暇も与えない。そのたび心は削られ、俺はただ、来るはずのない安心を待ち続けていた。
永遠にも続くかと思われた緊張の中、扉が開く音が部屋を打った。ゆっくりとためらうように開かれた扉から彼と彼女が並んで入ってくる。
その光景はあまりに自然で、まるで最初からそうあるべき2人のように見えた。
笑顔を交わす距離の近さに、胸の奥が軋んだ。痛みは声にも表情にも出せず、しこりの重さとなって胸に残った。
「ロラン、待たせたね。彼女が隣国から転入してきて下さった、エヴァドネ・ジェラルディン公爵令嬢だ」
「初めまして、ロラン。話は彼から聞いているわ。文にあった通りの容姿ね。顔も髪の色も、昔飼っていた動物にそっくりだわ。とても懐かしさを感じる」
「は、初めまして、ロラン・フォードと申します!ジェラルディンご令嬢にお目にかかれて光栄でございます」
「あらやだ、姓ではなく名で呼びなさい。フィリオン様の家令になるのなら、私の家令になるも同然ですからね」
「エヴァドネ嬢、それは違いますよ。彼は私だけの家令ですから」
「あなたの家令がラルーに似ていると言うから転入までしてきたのよ。少しくらい許しなさい」
「参ったなぁ」
茶色の髪は陽を含んだ絹のように滑らかで、後ろで結われたポニーテールが動くたび、静かに揺れた。飾り気はないが、その整い方には彼女の几帳面さが滲んでいる。
緑の瞳は澄みながらも芯が強く、視線を向けられると、容易には退かない意志の存在を感じさせた。
身に纏うのは、主張しすぎない色合いの、動きやすそうなドレスだ。余計な装飾はなく、布は身体の動きに素直に従う。華美ではないが、その実用性こそが彼女の在り方を映している。
静かな所作の中に確かな自信があり、彼女は声高に語らずとも、自分の意見を曲げない人物だと、自然に伝わってくるものだった。
優しいフィリオン様の婚約者なのだから、勝手に柔らかで可憐な雰囲気の守りたいと思わせるようなご令嬢を想像していたが、彼女は真逆の雰囲気だった。
霜の朝に咲く白椿のように、静かで凛とした佇まいは人を魅了する何かが確かにある。公爵令嬢であることを驕らない出で立ちが余計にそう見せているのかもしれない。
あのフィリオン様が尻に敷かれるのではないかと思わせるほど、気位の高さをうかがわせた彼女は女帝になりそうな片鱗すら見えた。
俺はショックを受けているのか、衝撃を受けているのか、自分の気持ちが全く分からない。
だが今、そんなありふれた寒々しさとはまた違う薄い影が自分に差し込んでいるのを感じる。諦観で回収できない情動がひたひたと近づいてくる。
会話は耳をすり抜け、自分がうまく取り繕えているのかも分からない。気づけば、3人で円形の机を囲むように座り、食堂で作られたものとは思えないような料理が目の前に並べられていた。
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