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恋も夢も捨てる
しおりを挟むしばらくのあいだ、俺は彼の腕の中で泣き続けていた。冬の冷たい空気の中、気づけば空はゆっくりと色を失い、暗さが滲むように広がっていた。
時間だけが静かに過ぎ、俺たちを包む夜の気配が、そっと降りてきていた。
「落ち着いたか?んじゃ、何があったのか話してみろ」
「…もう、部屋に戻らないと」
「少しくらい焦らしてやろうぜ。つってもここは寒いからな、オレの部屋に行くぞ」
「そ、それはできません!あなたと関わらないという約束があるので!」
「そんなん無視しろ。あんたにアイツの本性、教えてやる。オレとアイツの関係性も知りてぇだろ?」
その言葉によって、胸の奥にあった決意が微かに揺らいだ。強く握りしめていた覚悟の糸が、ひとすじだけほころび、心の中で知りたいという欲望が立ち上がるのを感じた。
それでもフィリオン様との約束が俺の足を梃子でも動かさない。彼との約束は呪縛のように、俺を縛り付けている。
「い、行けません…っ」
「あっそ。んじゃ、勝手に運ぶわ」
「へっ!?」
唐突に視界が揺れ、次の瞬間、体がふわりと宙に浮いた。抗う間もなく俵を担ぐように抱え上げられ、足が地面を離れたことを遅れて理解する。驚きと戸惑いが、鼓動と共に胸の内で跳ねていた。
「な、何するんてすか!?」
「あんたが動けないなら無理やり連れてくしかねぇだろ?」
「おろして下さい!人目につきます!こんなとこ、フィリオン様に見られたら…!」
「ちーと黙ってな」
有無を言わせぬ態度で俺を担ぎ上げた彼は、そのまますたすたと歩き出した。
抗議の言葉を挟む隙も与えず、迷いのない足取りだけが冷たい地面を刻み、俺はただ揺れに身を委ねるしかなかった。
上ろうとしていた階段の寮棟とは別の寮棟に来ると、慣れた足取りでその足は中に入る。夕食を食べた帰りの生徒やこれから食べに行くであろう生徒とすれ違うたび、好奇や畏怖の視線が俺たちに集中する。
俺は少しでも顔を見られまいとするために、彼の肩甲骨のあたりに額を押し付けるようにして顔を隠す。早く着いてくれ、と願う時間は永遠のようにも思われた。
***
看病をされた以来に訪れた部屋は、どこかホッとする匂いと食欲をそそる香りを含んでいた。彼が料理をした後なのか、その名残がうっすらと感じられる気配に、まだ夕食を食べていなかった腹の虫が鳴る。
恥ずかしさで顔を赤くし、ソファの上に下ろされてもしばらく顔を上げられなかった俺の頭上に、彼の声が落ちてくる。
「腹へってんのな。待ってろ、残りもんのビーフシチューあっから温める」
「…!こ、こんなところまで連れてこられたので…ぃ、頂いてやります」
「くくっ、オレの飯が気に入ったみてーで何よりだわ」
喉の奥で低く嗤った彼は、どこか機嫌の良さを滲ませた足取りで、部屋に備え付けられた小さな台所へと入っていった。
背中を睨みつけながらも、悔しさとは裏腹にふたたび腹の奥が正直に鳴る。結局、俺は何も言えず、大人しくソファに腰を預けているしかなかった。
早く帰らなければいけないという思いが尻を落ち着かなくさせ、食べてからでも遅くないという思いが俺をここに留まらせた。
数分後、ビーフシチューを満たした素朴なお椀と、焼いたパン、サラダを盛ったお皿が乗ったトレーを手に、男は戻ってきた。湯気とともに立ちのぼる香りが、張りつめていた背筋を少しずつほどいていく。
「おらよ。熱いから火傷しねーようにな」
「…ありがとうございます。頂きます」
お椀を手に持つとビーフシチューの濃厚ないい香りが、鼻腔いっぱいに広がる。長く煮込まれた気配のするその匂いに、思わず喉が鳴り、ただそれだけで美味しさが約束されているように感じられた。
匙で一口すくい、冷ますようにそっと息を吹きかける。慎重に口の中へ流し込んだビーフシチューは、驚くほど優しい味で、舌に広がると同時に冷え切っていた身も心も静かに温めていった。
「おいしい…」
「だろ?オレの作る料理は全部うまいって決まってっからな」
「…どこで料理の腕を学んだんですか?」
「……姉貴に教わった。男爵家令嬢なのに何でも自分でこなそうとする人でな。その中でも特に料理が好きで、使用人に振る舞ったり貧困地域や孤児院で炊き出しをしてたりする変わった姉貴だった。オレもその手伝いによく駆り出されてたっつーわけ」
「へぇ…そんな珍しい貴族の方もいらっしゃるんですね…あなた、お姉さんのことが大好きなんですね」
「っ!…あぁ、そうだな」
彼の反応に、俺は驚きを隠せなかった。性格の悪いことに、俺は彼に振り回されてばかりいるから彼が狼狽えたり恥ずかしがったりする顔を見たくて言った言葉だった。
まさか、こんなにも素直に頷かれるとは思っていなかった。ふと浮かべた彼の小さな笑みにはどこか哀愁が滲んでいて、いつも見せる意地悪なそれとはまるで違っていることに気付く。胸の奥に、言葉にできない違和感が静かに残った。
「それより、何があったか教えろ。泣くほどショックなことがあったんだろ?」
そう言いながら俺の前のソファに座った彼から、そっと視線を外す。ビーフシチューにつけたパンを口に運びながら、俺はだんまりを決め込むつもりでいた。
確かにそう思ったのに、気付けばビーフシチューの美味しさに絆されたのか、ただ誰かに話を聞いてほしかったのか、この男は本当に何も知らなかったと確かめたかったからか、俺の口は勝手に動いていた。
彼に俺という人間が認められて家令に指名されたわけではなかったこと。エヴァドネ様の持つ竹を割ったような芯の強さが羨ましいこと。俺はただ彼女を手に入れるための、道具にすぎなかったこと。
改めて言葉にするとあまりにも自分の愚かさと傲慢さが、否応なく胸に突きつけられる。目を逸らしたくなるほど惨めで、そんな自分自身がひどく嫌になった。
フィリオン様を好きでいればいるほど、俺はどんどん愚かな人間に成り下がり、その勢いに歯止めがきかない。
彼に選ばれて彼の隣に立つ権利を得た強い彼女と、何も持たず何も成し遂げられていない弱い俺。比べることすら烏滸がましいのに、羨む権利も嫉妬する権利もないのに、一丁前に傷付いている。
彼が俺に、とても優しいから。ひどく、ずっと、優しかったから。俺の心は無意識に"もっと"を求めるようになり、落ちるとこまで落ちてしまった。
「フィリオン様の優しさを好きになったはずなのに…彼の優しさに何度も救われてきたはずなのに…彼の優しさすら否定しようとしている自分が許せないんです。こんな俺が認められて家令に選ばれたなんてあり得なかったのに、思い上がった俺はこんな分かりきったことにすら気付けなかった」
両思いになりたい――そんな身分不相応な願いを、抱いていたわけじゃない。ただ、彼の家令として認められたかった。それだけでよかったはずだった。
そのために恋心を捨てようとして、まだ大丈夫だ、まだ時間はある、と自分に言い聞かせて引き伸ばしてきた。卒業するまでは、まだ先だと。けれど今思えば、それすらも滑稽だった。
恋も、夢も、俺の力で叶うはずがなかったのだ。俺には利用価値がある――それだけで満足するべきなのに、胸の奥がどうしようもなく苦しい。その苦しさを抱えている自分自身が、悔しくてたまらなかった。
「俺は……恋を捨てる、なんて思う資格もなかったんだ。立派な家令になりたい、そんな夢も幻想にすぎなかった。俺はただ、彼女を引き寄せる道具だったんだから」
この先も、俺の顔が彼女のお気に入りであり続けるかぎり、俺は彼らのそばにいることを許されるのだろう。俺はただ、そこにいればいいと言われているみたいに。俺の能力や努力など、関係ないと言わんばかりに。
家令になるには、未熟すぎる自分。男爵家の人間である目の前の男を冷たく突き放し、暴言と取れるような言葉まで吐いた。家令ならば私情を笑顔の裏に隠し、事なきを得ないといけないのに。
主人になるはずのフィリオン様の約束ごとを聞き流してしまうくらい、私情ですぐに頭が真っ白になってしまう俺は、きっと家令になる資格も才能もない。
こんな俺が、伯爵家の次代当主であるフィリオン様の家令になりたいだなんて大それたこと、よく言えたものだ。まさに恋は盲目。恋というものは、本当に恐ろしい。
「ようやく目が覚めました。俺はフィリオン様に恋する資格も、彼の家令になりたいと思う資格もなかった。すべてが、俺には身の丈をこえた願いでした」
「んじゃ、アイツの家令にはならないつもりか?」
「…それは出来ません。もう俺は指名されたわけですから。俺に与えられた役目はもっとエヴァドネ様に気に入られて彼女をこの国に留まらせること。俺の家令としての才能は関係なく、俺はフィリオン様から任された役目を果たすのみです」
感情を殺そう。一つずつ胸の奥へ押し沈め、なかったことにする。喜びも痛みも名を与えず、ただ静寂だけを残すようにして、心を冷たい殻で覆う。
そうすれば、余計なことは考えないですむ。与えられた役割だけに集中できる。
「俺――恋も、夢も、捨てます。この先も彼のそばに利用価値のある道具としているためには、これしか方法はないので。立派な家令になるなんて夢は、最初から必要なかったんです。だから…協力も干渉もここまでです。ありがとうございました」
ぺこり、と初めてヒューゴ・ファレルに深く頭を下げた。
フィリオン様が褒めてくれたお辞儀。最初の出会いを思い出して、もしかしたら最初から俺がカワウソに似ていたから近付いたのかもしれない、という考えが過る。
もうこれ以上のショックはないと思っていた心が、また一段と重くなったような気がして。どこまでも愚かな自分を、もうひとりの自分が嘲笑った。
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