俺の好きな人は誰にでも優しい。

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思い込み、勘違い、錯覚、幻想

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 昼休憩を終えた俺は、フィリオン様とエヴァドネ様と別れ、家令科の講義へと戻る。午前と今の午後では、身の入り方が丸っきり変わっていた。

 フィリオン様に彼の家令になってほしいと言われたときは、天にも昇る気持ちで本当に嬉しかった。世界の音や色彩が一段明るくなったように、喜びで満たされていた。
 それが今や、白黒の記憶となって褪せている。あまりにも傲慢で愚かな思い込み。激しい勘違い。期待が生んだ哀れな錯覚。想いが作り出した幻想。
 彼の家令にふさわしい人間になるため、もっともっと頑張ろうと膨らみ続けていた意気込みの風船から、しおしおと空気が抜けていくのを感じる。

 俺は、彼に必要とされていたわけではなかった。いや、必要とされていたのだろうが、それはエヴァドネ様を説得するための道具として必要とされただけだった。俺自身を、求められたわけではなかった。
 もしエヴァドネ様が猫を飼っていたのなら、その猫に似た誰かが家令に選ばれていたのだろう。俺でなくても良かったのだ。
 たまたまカワウソという珍しい生き物を飼っていた彼女と、たまたま珍しい生き物に似た俺が噛み合っただけだったのだ。

 気づけばすべての講義が終わったことを知らせる鐘が鳴り響き、講義室は放課後のざわめきに包まれていた。
 この時間帯になるとここ最近は真っ先にフィリオン様の待つ部屋に帰っていたが、今日は椅子に縫い付けられたように動くことができなかった。
 どうせ今日は、学園内の案内をエヴァドネ様にするから先に休んでいるよう、彼に言われている。急いで帰ったところで、彼のいない部屋は今の俺を空虚にするだけだ。
 この講義室にいれば、ヒューゴ・ファレルとも顔を合わすこともない。彼との約束を守りながら、思考を整理したかった。

 机に突っ伏し、腕の中に頭を埋める。講義が終わったため暖炉の火が消され、赤く残っていた熾火も次第に色を失っていった。やがて室内には、音もなく冷えが広がる。
 壁に染み込んでいた温もりがゆっくりと引いていき、空気は冷たく澄み、指先にまでその変化が伝わってきた。まるで火とともに、ささやかな安心まで持ち去られたかのようだった。
 体の奥から少しずつ冷えが広がっていくのを感じると同時に、それと歩調を合わせるように心の温度も下がっていく。
 指先の感覚が薄れるほど、感情もまた鈍くなり、胸にあったはずの熱は形を失っていった。体と心は切り離せず、同時に冷え切っていくのだと知っていたはずだ。俺は、あの日の寒い朝の散歩を思い出していた。

 今、無性に夕焼け色の彼の料理を、食べたかった。あの野性的な風貌からは想像も出来ないほどのやさしい味が、無性に恋しかった。

 そんなことを思ってしまった自分に驚いて慌てて身を起こし、頬をパンッとひとつ叩く。冷たい掌で叩いた頬は痛みを伴い、弱りきった心の目を覚まそうとする。
 窓の外を見れば、夕焼け色の彼を思い出す色をしている。暖色であるはずなのに部屋の中は冷えきっていた。
 椅子から立ち上がり窓を開けると、凍りつくような突風が吹き込んできて、カーテンがあおられた。木枯らし。俺はすぐに窓を閉め、あおられた風に頬を叩かれた気分を味わう。それが部屋に戻らなければ、という意識を取り戻した。

 鞄を持ち、冷えきった廊下を歩く。
 夕焼け色の彼が言っていた、彼の本当の顔、騙されて可哀想、はこのことだったのだろうかと考えながら歩く。
 知っていたのなら教えてくれれば良かったのに、と関係のない彼に八つ当たりをしたくなる気持ちが沸々と沸き上がる。
 しかしどんな理由であれ、彼の家令に選ばれたのならその幸福を甘んじて受け入れ、自分の役目を果たせるよう努力するしかない。彼の期待を裏切りたくない。
 たとえエヴァドネ様を迎え入れるために利用されたのだとしても、俺が選ばれたことに変わりはないのだから。そう自分に言い聞かせながら、寮の外階段に足をかけた、そのとき。

「やーっと見つけたぜ?ロランちゃん」

 不意に背後から腕が回され、息が止まる。温もりが背中に重なった瞬間、耳元で低い声が俺の名前を呼んだ。
 胸が跳ね、驚きに肩が強張る。冬の風がすべるように頬を撫でていった。冷たさは一瞬で、代わりに澄んだ空気だけが肌に残り、彼の気配までもが鮮明になるようだった。

「なっ、なんで…」
「全然捕まらねぇから焦ったぜ。まさか寮に外階段があったとは知らなかった。こっから何階まで上ってんだよ?疲れねぇの?」
「は、離して下さい!俺はあなたとは二度と話さないとフィリオン様に誓ったんです!」
「しょうもねー野郎だな。でもオレのおかげでアイツと同部屋になれただろ?進展はあったか?」

 その言葉を聞いて、俺は何の前触れもなく思考の底に火花が散った。唐突に閃きが走り、闇の中に一本の道筋が浮かび上がる。まるで最初からそこに在った答えを、ようやく掴み取ったかのように。

「…へ?ま、まさかあなた…!わざとやってたんですか!?俺とフィリオン様が一緒の部屋になれるように!?」
「おいおい、気付いてなかったのかよ?あんたの恋に協力してやるって言っただろ。オレのおかげでアイツに囲い込まれた気分はどうよ?キスくらいはしたか?」
「す、するわけないでしょう!!どこまでも俺を玩具にしようとして…!俺を何だと思ってるんですか!?」

 彼の腕の中から身をひねって抜け出すと、胸に溜め込んでいた息が一気に溢れた。思わず声をあらげ、静けさを切り裂くその響きに、自分でも驚くほどの感情が滲んでいた。

「あなたのせいでフィリオン様に多大な迷惑をかけているというのに…!あなたは遊び感覚なんでしょうけど、俺はそんなこと頼んでない!これ以上からかうのはいい加減にして!」

 感情を込めるほど声が甲高くなっていく。語彙まで幼くなり、貴族相手に敬語が外れていることにさえ、俺は気付いていなかった。
 声を荒らげる俺を前に、彼はきょとんとした表情でこちらを見つめていた。怒りの熱とは裏腹に、その澄んだ眼差しは何も理解していないようで、拍子抜けするほど無垢だった。

「あなたも知っているはずです!今日、フィリオン様の婚約者候補であるエヴァドネ様が転入して来たことを!彼女は彼にふさわしい素晴らしいお方でした!
 そして俺が彼の家令に選ばれたのは、彼女を承諾させるため…!俺と彼がどうこうなる可能性は最初から少しもなかったんです…っ!あなたの策略は何の意味も、っ…なかったんです!」

 怒りに身を任せ、言葉を次々とぶちまけていくうちに、気づけば声が震えていた。熱を帯びていたはずの感情はいつしか形を変え、頬を伝うものの温かさに、俺は初めて自分が泣いているのだと気付く。
 悔しくて、悔しくてたまらない。胸の奥が締めつけられるほど悲しく、息をするのも苦しい。どうしようもない辛さが波のように押し寄せ、感情の行き場を失った心だけが、ギシギシと音をたてて軋んでいる。

 この男が余計なことをしなければ、俺は彼と同じ部屋で過ごす幸せを知ることなどなかった。錯覚を起こすこともなかった。期待することもなかった。
 目の前に立つ男が、どうしようもなく憎かった。彼のせいで、俺はこんなにも惨めな思いをしている――そう決めつけて、視線を逸らすこともできずにいる。
 八つ当たりだと分かっているのに、理性は感情の濁流に呑み込まれ、憎しみだけが胸の奥で黒く渦を巻いていた。

「おかしいと思ったんだ…!俺なんかが彼の家令に選ばれるなんて…!何の取り柄もない、平凡で道端に転がる石ころみたいな俺なんかを、本気で必要としてくれる人なんているわけないのに!
 期待して夢を見て、夢が叶ったとひとり浮かれていた自分が馬鹿みたいだ!あなたも最初から知っていて、俺をからかって笑っていたんでしょう!?」

 止まれ。止められない。これ以上は口を噤め。噤めない。
 自分で自分の口を掌で覆いたかった。取り返しのつかない言葉を吐いてしまう前に。もう、手遅れかもしれないけれど。

「なにも知らない俺を見て楽しかったですか!?からかっておもしろかったですか!?残念ながら、あなたが見たがった、両思いになった俺の目は一生見れない!それも、嘘だったのかもしれないですけど…!あなたなんか…ッ」

 大嫌いだ――そう言おうとして、言葉は喉の奥で途切れた。次の瞬間、彼の腕が強く回され、逃げ場を失った身体がその胸に引き寄せられる。抗う間もなく、俺は彼の腕の中で呼吸を止めていた。

「落ち着け、ばか」

 耳元で、低く短い声が落とされた。その一言は叱るようでいて、不思議と温度を帯び、荒れていた心の奥に静かに染み込んでいった。
 溢れ出した涙が、俺を抱き締める彼の服へと染み込んでいく。胸に顔を埋めたまま、止め方も分からず流れ続けるそれが、俺たちの間に残る確かな重みのように感じられた。

「自分をそれ以上、卑下すんじゃねぇ。アイツの企みなんざ、オレは知らねぇよ。だがオレはロランちゃんを必要としている。それだけは確かだぜ」

 普段は荒々しく、粗暴な言葉しか吐かない男が、今は驚くほど穏やかな声を落としていた。慰めるように名を呼び、背を撫でるその仕草は不器用で、それでも必死に寄り添おうとしているのが伝わってきた。
 慰めの言葉を気休めだと思う一方、涙が溢れて止まらなかった。冬の冷たい空気が肺の奥まで入り込み、吐く息は白くほどけていく。
 凍えるほどの寒さの中で、胸の奥だけが熱を持ち、その温度差に耐えきれず、涙は堰を切ったように頬を伝っていった。


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