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いつの間にか嘘に包囲されていた
しおりを挟む重い沈黙が、じわじわと部屋の隅々まで満ちていった。まだ18時を少し回ったばかりだというのに、冬の夜は早くも深い闇を連れ込み、窓の外も、俺の胸の内も同じ色に沈んでいた。
パンの最後の一切れをビーフシチューに浸し、口に運ぶ。もう、フィリオン様と目の前の男の関係性を知る必要もない。知らないほうがいい。そもそも俺には知る権利などない。これを飲み込んだら部屋を出ようと思いながらもぐもぐと咀嚼していた俺の前に、影が落ちた。
見上げると、目の前のソファに座っていたはずの彼が立ち上がり、机を飛び越える勢いで体をこちらにグイッと乗り出している。
切れ長の瞳に真っ直ぐ見下ろされ、彼が次に何を言い出すのかという緊張に喉が鳴る。まだ噛みきれていなかったパンを、俺は慌ててごくりと飲み込んだ。
「あんた、アイツに利用されていると分かったのに、アイツの駒になり続けるつもりか?バカなのか?」
「…ええ、バカです。大バカ者です。こんなバカな俺はとことん使えなくなるまで利用されるのがお似合いなんです。それでいいんです」
「あんたの人生、アイツの手の内でいいのかよ?悔しくねぇのかよ?」
「悔しいと思う気力などありません。利用してもらえるだけ幸運なんです。彼に勝手に恋をして勝手に期待したのは俺の過失です。フィリオン様が俺をいらないと言うまで、俺は彼のお飾りの家令として彼に出来る限り尽くすまでです。彼の優しさに救われたのは事実ですから」
「アイツは優しくなんかねぇってまだ分からねぇのか?アイツの優しさは、ただの手段なんだよ。人を思い通りに操るための……その優しさに、いつか殺されるかもしれねぇんだぞ?」
彼は俺の反応を窺うように彫りの深い顔をゆっくりと巡らせた。その表情は科学者が動物実験の結果を確かめるようでもあり、出来の悪い生徒を見守る教師のようでもあった。
俺は彼の言った言葉を声に出さず、反芻していた。フィリオン様の優しさに殺される。彼の優しさが俺を殺す。その未来が、容易く想像できて、背筋がゾッとした。
「オレとアイツの関係を教えてやる。オレの血筋は男爵家じゃない。アイツと同じ、伯爵家だ。オレは伯爵家の庶子。つまりアイツは……オレの異母兄だ」
世界が一拍、遅れて揺れた。
明かされた彼らの関係性。思考が追いつかず、ただ言葉だけが耳の奥で反響し、息をするのがやっとなほどの衝撃が全身を貫いていた。
「オレは10歳の時まで母親と伯爵家の離れで暮らしていたが、母親が亡くなると同時に家同士の取引材料として男爵家の養子に出された。さっき話した姉は男爵家の娘、つまり義理の姉だ」
衝撃には、続きがあった。
「その義姉は社交場でアイツに優しくされ、まんまと恋に落ちた。あんたのように。そんでアイツの思わせ振りな態度に勝手に期待して夢を見た。そんで、アイツの優しさが偽物だと気付いたとき…」
聞きたくない。直感でそう思い、耳を塞ぎたくなった。
「恋に狂って…―――自殺した」
それは、俺の未来の姿だと思ったから。
衝撃の事実は、音もなく落ちてきた。
雷鳴も悲鳴もない。ただ、世界の芯がすっと抜け落ちる感覚。俺は目の前の男の夕陽のような瞳の中にある空白を、呆然と見つめていた。
その瞬間、記憶が逆流する。
走るために動かしていた足が縺れ、体が投げ出されたあとに届いた、あたたかな感触。言葉を選ぶように少し遅れて届いた「大丈夫かい?」の一言。結び直された、切れた紐の端。隈をなぞる、指先。
思い出されるのは、優しさばかりだった。
まるで編集された映像のように、都合のいい場面だけが鮮やかに再生される。俺はその一つ一つに、恋心を預けてきたはずだった。
―――でも、それらが全部、偽物の可能性。
思考がその言葉を受け入れた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
あの微笑みも、あの気遣いも、偶然の産物ではなく、すべて計算だったのか。優しさの裏側には、企みが潜んでいたのか。あの微笑みの下には、どんな思惑があったのか。
優しさは、信じた側が勝手に意味を与えただけの影だったのかもしれない。
それでも記憶は消えない。温度を失った真実の上に、温かかった過去だけが残り、行き場をなくしている。
俺は自分に問いかける。偽物だったとしても、あの時間は、確かに俺を救っていたのではないか。
答えは出ない。ただ、優しさの残像が、静かに、何度も、胸の内で瞬く。
彼の義姉も、顔も名前も知らないその女性も、そう思ったから……恋を殺しきれないことに気付き、絶望したのだろうか。だから、自分ごとその悲しい恋を、この世から消し去ったのだろうか。
衝撃に麻痺したためか、部屋全体がしばし墓穴のような静けさに包まれた。髪の毛一本が床に落ちても残響がこだましそうだ。その静寂を破って、俺は乾いた息を吐き出す。
「……俺も、そうなるのかな」
全身の力が抜け、俺はその場に崩れかけた。世界が遠のき、音も色も薄れていく。ただ「もういい」という諦めだけが、重く身体に沈んでいく。
その瞬間だった。強い衝撃とともに、腕が俺を引き戻す。
彼は何も言わず、ただ強く、壊れるほどに俺を抱き締めた。逃げ場を塞ぐように、震えを止めるように。
胸に押し付けられた鼓動が、やけにうるさくて、生きていることを否応なく思い出させる。そして、頭上で爆ぜる声。
「させねぇよ!」
怒鳴り声だった。叱責でも命令でもない、必死に引き留める叫び。その一言に、感情が剥き出しになっていて、綺麗な理屈なんてどこにもなかった。
俺は抵抗できなかった。彼の腕の中で、張り詰めていた何かが、音を立ててほどけていく。
そしてようやく、気付いたのだ。
彼が、俺の恋に協力しようとした、本当の理由。
"復讐"という二文字が、頭に浮かぶ。
「…俺を、お姉さんのようにしたくなかったのと同時に……俺に近付いた目的が、あったんですね」
俺を抱き締める彼の腕は、さっきまでと同じ強さのはずだった。けれど、その胸が一瞬だけ不自然に止まったのを、俺は見逃さなかった。
息を、のんだ。ほんの僅か、喉が鳴るほどの短い反応。――図星、だった。
俺の言葉。あるいは、言葉にしなかった疑念。それが、彼の内側に正確に届いてしまったのだと、身体が先に理解していた。
抱き締める力が、わずかに揺らぐ。強めるでも、離すでもない、迷いの間。
それは答えを探す時間であり、同時に、もう答えが出てしまった証でもあった。
俺は何も言わない。彼も何も言わない。ただ、重なった呼吸のずれだけが、俺たちの間に残酷な真実を浮かび上がらせていた。
優しさよりも、言い訳よりも。
その一瞬の反応が、すべてを語っていた。
「あなたも最初から……俺に嘘をついて、近付いてきたんですね?」
最初から、怪しい男だった。最初こそ俺は、疑いの眼差しを正しく向けられていた。はずなのに。
「俺を、彼への復讐の道具に利用しようとでもしましたか?」
料理を教えてくれたという義姉を傷付け、何よりも尊い命を奪ったフィリオン様への彼の憎悪は激しいものだっただろう。到底、許せないものだろう。
属する家は変われど、血の繋がった兄がいる学園で、その兄に義姉と同じように激しく恋をする俺を見つけて、彼は何を思ったのか。何を思い付いたのか。
俺が義姉と同じ末路を辿らないように、俺の恋を叶えようだなんて、本気で思ったわけがない。
男爵令嬢の義姉で叶わなかったのなら、男で平凡で平民の俺なんかが叶うと本気で思うわけがない。
「教えてもらえますか。あなたの企みを」
俺の恋に協力するふりをして、フィリオン様に近付く機会を得て何をするつもりだったのか。
一見、俺の命を助けるように見せて、実のところ俺を誰よりも利用しようとしていたのは、あなたではないのか。
俺の寮部屋を探し当て、フィリオン様がいるときにわざわざ訪ねてきたのも。手作り弁当を振る舞ったのも。熱を出した俺を、わざわざ自分の部屋まで運んで看病したのも。俺の涙をその胸に吸い込んだのも。
「あなたのほうこそ――全部、嘘だったんですか」
俺は声を荒らげることもなく、ただ彼を見つめてそう問うた。責める響きすらない言葉だった。それがかえって、彼の逃げ場を奪う。
彼の表情は、答えを探すより先に固まった。その沈黙が、もう半分以上の真実を語っているように思えて、胸の奥がじわりと冷えていく。
いつの間に、俺はこんなにも嘘ばかりに囲まれていたんだろう。
優しさだと信じていた言葉。偶然だと思っていた行動。全部が、都合よく組み立てられた風景だったのかもしれない。
思い返せば、フィリオン様にも、目の前の彼にも、違和感は確かにあった。
けれど俺は、それを疑うより先に、信じることを無意識に選んでいた。信じている間だけは、世界が壊れずにすんだから。
静寂の中で、嘘と真実の境界線だけが、ゆっくりと滲んでいく。
もう戻れないと、どこかで分かっていた。
それでも俺は、最後まで彼の中の夕陽から、目を逸らさなかった。
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