この歌声が届くまで

蒼村 咲

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10月3日 金曜日

第49話 合唱祭の空気

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(……!)

 フォルテのダイナミックな歌声にはっと意識を引き戻される。この曲の一番の見せ場──聴かせどころだ。他チームの曲ではあるけれど、思わず一緒に歌い出しそうになってしまう。歌い出したくて身も心もうずうずしてしまう。

(ああ、懐かしい……)

 思えば合唱祭は毎年こうだった。これが合唱祭の空気だった。何十人もの歌声で奏でられるハーモニーをただ聴いていたくて、ただ身を任せるように酔いしれていたくて、でも自ら歌ってその渦の中に交じりたくもあって。
 この心が浮き立つような──いや、沸き立つような、だろうか。この感覚はどこから来るのだろう。耳に届くメロディと歌詞、ピアノの音色と歌声がひとつになって生まれる興奮か、後に控えた自分のステージへの緊張か。それともその両方が絡み合っているせいなのか。

 曲が一節、また一節と進むごとに、胸の軋みは苦しいほどになってくる。でもそれは決して不快な苦しさではなくて。むしろどこか心地よいくらいの高揚だ──そう、ぱんっと弾ける寸前のつぼみのような。
 そんな「合唱祭の空気」を今年も、果てしないほどの紆余曲折の結果、感じることができたのだ。そう思うと胸の奥からこみ上げてくるものがある。ほら、鼻の奥にも少しだけツンと何かを感じた──ような気がしてくる。

 気づけばもう最初の合唱は終盤だった。最後の優しいフェルマータを、指揮者の男子生徒がそっと引き延ばし、そしてふわっと拳を引き締め結ぶ。
 訪れた静寂の中、彼は静かに腕を下ろし、指揮台を下りた。その間に伴奏者も立ち上がり、ステージ上の全員で礼をする。
 と、その瞬間、講堂は拍手に包まれた。マイクを握る立場でさえなければ、私も夢中になって手をたたいていたと思う。この拍手はきっと、合唱への賞賛であると同時に、合唱から流れ込んできたエネルギーの発散手段でもあるのだろう。現に、このエネルギーを発散できずに持て余している私は、さっきより心臓の音が大きくなっているのを感じている。

 拍手の勢いが落ち着き始める頃を見計らい、塚本くんがステージ上のチームの退場の誘導を始めた。それに伴い、反対側では湯浅くんが次のチームに移動の指示を出している。
 私はその様子を視界の端で確認しながら、司会用のマイクを掴んだ。整列が完了したのを確認し、マイクのスイッチを入れる。

「続きまして、『旅路』です」

 一曲目と同様、作詞者と作曲者、指揮者と伴奏者を紹介しながら、これは中村くんが推薦した曲だったな、と思い出す。そして、一時は合唱には参加しないと表明していた桐山会長が選んだ曲でもあった。その桐山会長の姿は今、最後列の一番端にある。中村くんがその一列前だ。
 私にとっては知らない曲だった。あの日、音楽資料室で中村くんが「是非入れたい」と挙げるまでは聴いたこともなかったのだ。あのときもデモ音源をちらりと──サビの部分まですっ飛ばして流してもらっただけだったので、ちゃんと聴くのは今日が初めてだ。わくわくする。

 静寂の中、指揮者が右腕を振り始める──そして。
 すうっと染みこむように流れ出したピアノの前奏に、私ははっと息をのんだ。

(……! これって、短調だよね?)

 短調のメロディ特有のどことないほの暗さと迫力、内に秘めたる力のようなものを感じる。
 一曲目とは文字通りがらりと雰囲気が変わり、その落差に聴衆が引き込まれているのがわかった。
 明るく力強い長調の「明日へ」を一曲目に据えたのは私だけれど、二曲目にこの「旅路」を持ってきたのは中村くんだった。この構成力──展開力だろうか? さすがだと舌を巻かずにはいられない。

(ああ、私もこの歌、好きだなあ……)

 後で中村くんに頼んで楽譜をコピーさせてもらおう。これは歌えるようになりたい曲だ。

♪ああ ぼくのこの目の前に
 果てしなく広がる旅路
 ぼくの進む道 ぼくの生きる道

 女声と男声に分かれての見事なリフレインにぞわっと鳥肌が立つ。悪寒でもなく恐怖でもなく、ただこの空気を伝う振動に、音に響きに、皮膚が勝手に反応してしまうのだ。
 準備期間がたった一カ月でも、面識のない人も少なくない縦割りのチームでも、そんなことは一切関係ない。全員が同じものを目指し、同じ方向を見据えさえすれば、この完成度に到達できる。
 やっぱり、合唱祭は私の一番好きな行事だ。


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